03
それからしばらくは、リオンに与えられる仕事といえば島の見張りくらいのものだった。
マリアンに会えることもない。ただ誰も訪れることもない島の外周を警戒させられるだけ。
することもなく歩きまわっていれば自然と思考に意識がいく。それも悪い思考だ。
『坊っちゃん、少し休みましょう』
リオンの気分を見透かしてシャルティエがなだめた。
しかし足を止める気にはならない。
丁度目の前にはセインガルドの海が広がっていた。天気が良いので、ダリルシェイド港がうっすらと見える。
そこから汽笛が聞こえる度に胸がギュッと掴まれたようになった。息がし辛い。
そして、ただマリアンに会いたいと求める心が大きくなるのだ。
「マリアン…一人でどんなにつらいだろう」
『きっと、イレーヌやカリナさんが側にいますよ。それよりも坊っちゃんの方が』
なおも心配をする相棒に、そんなに不機嫌そうに見えたのだろうかと眉を寄せる。実際に気分は良くないのだが。
オベロン社の幹部たちはどこで何をしているのかまったく姿を見せない。
彼らの思惑が計り知れないことがとても気持ち悪かった。
『大切な人質をそう無下には扱いませんよ』
「だといいがな」
「心配しなくても彼女は無事に過ごしている」
「――!?」
不意にかけられた声にその場を飛び退く。いくら注意散漫だったからといえ、他人の気配に近付かれるまで気付かなかったとは。
思ったよりも憔悴しているのかもしれない。
だから、こんな時に彼女の声なんて聞きたくなかった。
「僕に、なにか」
苦く吐き出した言葉に彼女はわずかにうつむく。リオンの複雑な気持ちを感じ取ったようだ。
しかしそれを振り払うように首を振って、マスク越しの目をこちらへ向けた。
「…あのメイドに会わせてあげる」
「マリアンに!?」
思わず前のめりになったリオンに動じることなく、カリナは淡白に頷く。
きっとまたその唇は甘言を紡ぐのだ。
「なんでそんなことを」
「あなたを安心させたいだけ。もうしばらく彼女の顔を見ていないのでしょう?」
「……」
「着いて来なさい」
そう踵を返したカリナの思惑をわかってはいたが、リオンに抗うことはできなかった。マリアンに、会える。
会って、少し言葉を交わして…それくらいならきっと許されるはずだ、と。誰にともなく言い訳をした。
きっとカリナにはまた逃げろと言われるのだろう。けれどリオンはそれを望みはしない。マリアンをオベロン社の追手から逃げ続けさせるような状況には置きたくなかった。
今とどちらが苦しいのかなんて想像できないけれど。
カツン、カツンと靴音だけが湿った壁を叩く。
工場の中とはいえ、海の側に建てられたそこは潮風がまとわりつくようだ。べっとりと張り付きそうな前髪を振り払って前へ進む。奥へ行けば少しはこの湿気もマシになりそうな気がした。
会話もない静かな廊下を歩くが、ドキドキと胸がうるさい。
永遠に続くかと思われた回廊の先に扉の形が見えた時、思わず息を吐いていた。
「その中へ」
一言だけ声をかけて、カリナはリオンを先に行かせるように扉の脇へ退いた。
唇を噛み締めてドアノブを捻る。殺風景な部屋で空調の音が唸りを上げていた。
中を見渡すと、こちらに背を向けてベッドに座るマリアンの姿が見えた。
「……マリアン」
呼びかけた声は小さかったけれど、彼女は弾かれたようにこちらを振り返った。
「エミリオ!本当にあなたなの?よかった、無事で…」
「ああ。僕は大丈夫だ」
「私、突然ここに連れてこられて…いったい何が起こっているの?」
不安に瞳を翳らせた彼女の顔は相変わらず美しい。それでもリオンは花のほころぶような笑顔の方が好きだった。
真実を告げたら、きっと彼女のそんな表情は見られない。
安心させるように微笑んだ。
「君はなにも心配することなんてないよ。直にすべて上手くいくさ」
「エミリオ…」
ああ、ちゃんと笑えていなかったのかもしれない。マリアンの眉は余計にきつく寄せられてしまった。
それ以上安心させるための言い訳も見つけられなくて、もう一度笑むと背を向けた。
「…待っていてくれ。必ず、きみを自由にしてみせるから」
名残惜しさを振り払って出口へ足を引きずる。
マリアンは小さくエミリオと呼んだだけだった。
「――もう、いいの?」
扉の外で待ち構えていたカリナが声をかけてきた。
寂しさを抱えたまま頷くが、彼女の視線は逸らされない。
「これが、最後だと思う」
「……」
「まだ今なら引き返すことができる。あのひとを連れて、逃げることができる」
予想した通りの言葉が投げかけられる。またか、とも思ったがもう心が乱れることもなかった。
「僕は選んでここにいると、そう言ったはずだ」
「あなたたち二人がより確実に助かるとしても?」
「他人の手を借りて逃げるだなんてごめんだ。僕は最後まで戦う」
入り口で押し問答を繰り返すばかりで立ち止まってしまう。
互いに退かずその場で話し込んでいると、部屋の中からカツン、と靴音が鳴った。
「エミリオ、あなた…まさか」
「っ、」
「何か危ないことをしようとしているの!?それも、私のせいで!」
「ちがう!マリアンのせいなんかじゃないんだ!」
ぼろぼろとマリアンの瞳から涙が落ちる。
彼女の涙は、今度こそリオンの心を大きく揺さぶった。
唇を噛んで立ち尽くすリオンを見つめる瞳を見返すことができない。
空間に沈黙がおりる。
マリアンのしゃくり上げる音だけが響いている。
悲しませたいわけではなかったのに。知ってほしいわけではなかったのに。
恨みがましい目をカリナに向けたが、彼女は顔を部屋の奥の別の扉に向けていた。
「いけない、」
カリナの肩が震える。
尋常ではない様子にシャルティエの柄に手をかけた。
「おや、これはどういうことかね?カリナ」
扉の向こうから出て来たのはヒューゴだった。奥にも人影が見えることから、他の幹部たちも後ろに控えているのだろう。
震えていたカリナはついに地にうずくまる。
「お前にここを預けた私の信頼を裏切るようなことを…やはり地上人どもを捨てきれぬようだな」
「そんな、そんなことはありません…私は…、私はあなた様のためだけに、」
「ならば今の状況はどう説明するというのだ?」
「申し訳、ありません…っ。どうか…どうかお許しを…」
首を垂れてひたすらに謝罪する様子は、今まで見てきた彼女の姿からは想像もつかないようなものだった。顔を覆う手の先でさえも青ざめて揺れている。
ヒューゴはそんなカリナに近付くと、尊大な態度で彼女を見下ろした。
「お前の忠誠など所詮そんなものか」
「いいえ…違うのです…。私はあなた様のご命令ならば、なんだって」
「ほう?それは本当かね?」
「は、はい!どんなことだって、ご期待に添えてみせます!」
カリナ、とヒューゴの後ろから咎めるような声がした。きっとバルックだ。
しかし縋るように自分の胸の前で手を組む彼女には届いていないようだ。
ヒューゴがニヤリと笑った。
「では、そのメイドを今ここで殺せるか?」
ヒュッ、と誰かの喉が鳴った。
カリナは口を小さく開いてヒューゴを見上げている。
怯えて一歩後ろに下がったマリアンへ視線が投げられた。
「そ、それは…」
「ふん、できないか。また余計な情を持ったものだ。お前は同じ過ちを繰り返すつもりか?」
「……っ、」
「そうだな、そのメイドを殺してはエミリオが悲しむだろう。ならば別の選択肢をやろう」
ビク、とカリナの肩が跳ねた。
ヒューゴの笑みは深まるばかりだ。
「ここへ地上人どもがやってくる。お前に馴染みの深い者たちがな」
「…あの、人たちが」
「そうだ。まったく…天上がいよいよ復活しようという時に。だがお前なら奴らに邪魔をされないよう、足止めをできるな?」
「…………は、い」
操り人形のように意思なくカリナが起き上がる。
ヒューゴはそれを満足そうに眺め、次にマリアンの腕を強引に掴んだ。
「何をする!」
マリアンを連れて部屋から出て行こうとするヒューゴたちに叫ぶと、お前も来い、と振り返ることもなく言われた。
反論する間もなく彼らの背は遠ざかる。
扉の向こうは薄暗い洞窟に続いていた。
複数の足音が反響する不気味な空間を松明が照らして進んで行く。
黙々と歩くだけの人々は、まるで葬列をなしているかのようだった。
2018.02.09投稿
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