06
物資保管所から飛び出してどこへ向かったのかと言えば、地上軍に与えられた地下の自室だった。
他にどうしようもないとはいえ、地上軍を否定するようなことを言った後にする行動としてはおかしなものだ。
しかし、それが許されないような気がして、ベッドに置いてあった布団を頭から被る。薄い布団だ。
空中都市にいた頃は、綿のたくさん入ったふかふかの布団を使っていた。毎日の食事も炊き出しの配給ではなく、調理マシーンの作った栄養満点のフルコースだった。そもそも、こんな厳しい寒さはなく、暖かな陽光と緑溢れる素晴らしい場所で暮らしていたのだ。
――けれど。
けれど、寒くないかと見知らぬ人に心配されることも、今日の食事は美味しかったかと訊かれることもなかった。素晴らしい環境も、研究所暮らしと転送ポートでの移動では実感などすることもなかった。
何を持っていて、何を持っていなかったのか?
マナには、それを判断するだけの経験が足りなかったのだ。
今はただ、何も考えたくなかった。
思考を諦め、あたたかい布団の中で意識が途切れかけた時、不意に扉を叩く音が聞こえて目が覚めた。
「失礼するわ、マナはいるかしら?」
はい、と答えてから応えなければ良かったと思う。
だが、それも叶わず声の主は入るわね、と侵入して来てしまった。
「あら、マナ?」
「あなたは…アトワイト殿」
「ああ、そこにいたのね。お布団で気付かなかったわ」
「何のご用ですか」
「夕飯の配給、取りに来なかったでしょう。ハロルドに聞いたわ」
ベッドの脇には小さなテーブル替わりの木箱がある。そこにあたたかな、けれど具の少ないスープと固そうなパンが置かれた。
その匂いを吸い込んだ途端、鼻がツンと痛んだ。
「えっ?ちょっと、マナ?どうしたの!?」
「何がでしょう」
「何が、って…泣いているじゃない」
「泣いて?」
意味がわからず、ぼんやりする。するとアトワイトは、取り出した布を優しくマナの目元に当ててきた。
思わず身を引くと、その手から布が落ちる。拾いあげればその布は微かに湿っていた。
「頬から…いえ、目から水が?」
「えっ。まさか、涙を知らないの?そんなことが…」
「わかりません…わ、わからないんです…何も、かも」
「ああ、落ち着いて。ほらゆっくり呼吸して。とにかく料理があたたかい内に食べてしまいましょう」
ベッドの上で頭を抱えるマナの背を、アトワイトは横に座ってゆっくりと撫でた。
誰にされたこともないそれに彼女は一瞬体を固くするが、その温もりが心地良いことに気付いて力を抜く。顔の前で折っていた膝を下ろすと、そこへスープの器が差し出された。
両手で受け取ったそれは少しぬるかったし、パンにつけて食べれば余計に温度は下がって感じる。第一味が薄くてとても美味しいと言えるものではなかった。
「美味しい?今日のスープは、スペランツァから野菜が届いたからっていつもより具が多いんですって」
まあそれでも少ないのだけれど、そう彼女が苦笑しながら話す。その言葉に耳を傾けながら咀嚼したスープは、腹の中でとてもあたたかくなった気がした。
美味しいか?そう訊かれたのも地上軍に来てからが初めてのことだった。調理マシーンは何も聞かなかった。
「美味しい。美味しいです」
そうしてそう答えるのも、マナには初めてのことだったのだ。
食事を終える頃には、マナの涙腺もすっかり落ち着いていた。
食器を片付け、ハーブのほのかに香るお茶を渡したアトワイトは、またマナの横に座ると穏やかな声で訪ねてきた。
「それで、どうしてあんなに取り乱したりしたのかしら」
「……」
「あなたはとても冷静でーー何事にも動じないような人だと思っていたのだけれど。やっぱり環境が急に変わったから不安になってしまったのかしら?」
「いいえ。」
「じゃあ、ハロルドに何か無茶なことを言われたりした?良いのよ、少しくらい聞き流してしまっても」
「いいえ――いいえ、私が。私が言ってしまったのです」
その言葉にアトワイトは驚いたような顔をする。
けれど、マナは気にすることなく続けた。
「私は天上人として、優れた人種であると教えられてきました。けれどハロルド博士のお手伝いをして、彼女の優秀さには全く敵わないと知りました」
「まあ…彼女は色々規格外だから」
「でも、それなら何故私は天上人なのですか?天上人は何が優れているのでしょう?地上人と何が違うのです?」
困ったように眉を下げていたアトワイトは、それを聞くとスッと真面目な顔をした。
「違うところなんてない、同じ人間なのよ。それなのに天上人が地上人を支配して良いはずがない」
「同じ人間…?」
「ええ、同じ人間。そう思ったから私たちは戦っているのよ」
「そんなこと…教えられませんでした。地上は穢れた場所で、そこに住む地上人たちは下賤な存在だと、それしか教わらなかった…!」
そうだ、という肯定が欲しかった。自分の常識は間違ってはいないのだ、と。
そんなことを彼女に求めても、望む答えが返ってくるとは思わなかったけれど。マナは自分の常識を確認したかったのだ。
そうでなければ、自分の中の絶対的なものがなくなってしまう気がしたから。
「ねえ、マナ。それでは、あなたは地上軍に来て、地上人と話してどう思ったのかしら?」
気持ちが高ぶり、荒い息を吐くマナの背を優しく撫でながらアトワイトは呟いた。
「教えられてきたことではなくて、あなたが実際に感じたことは?考えたことは何かしら?」
「私が?」
「そうよ。あなたは疑問に感じたのでしょう?ならば、誰かに問うまでもなく、あなたの中で答えは出ているのではなくって?」
そんなことは知らなかった。
マナには今までに、一度だって自分の意見を求められたことなどなかったのだ。教えられたことに素直に従い、覚え、行動するだけだった。
だから、アトワイトからそう言われた途端に、鳥肌が立った。
「私、自分で考えてもいいの?」
自分で考えること――自分の意見を持つこと。
脳に新しい空気が一気に入り込んできた気がした。視界が、とても明瞭になった気がした。
「地上は、明るくも緑豊かでもないし、よくわからない人がたくさんいます」
「ええ」
「でも、そんなに下等な存在ではない……と思う」
「そうね、今はそれで良いのではないかしら」
マナの頭を優しく撫で、アトワイトは微笑んだ。
「まだあなたは地上に来たばかりだし。ずっと天上人として育ったのに、今までの常識に疑問を持てたというだけですごいことだわ」
「ごめん、なさい」
「何を謝るの?」
「ハロルド殿に酷いことを言いました」
「それは直接本人に言うべきだわ。大丈夫、ハロルドはあまり気にしていないと思うわよ」
そう言われたものの、心細く感じてアトワイトの服の裾をきゅっと掴む。
彼女はあらあらと笑ってその手を優しく包み込んだ。
「それじゃあ一緒に行きましょうか。でも、今回だけよ」
「はい、ありがとうございます」
マナの手を、彼女はゆっくりと引く。
こんなにもあたたかい人がいるのだな、と初めての温もりをたくさん与えられたマナは、その顔に集まる熱をどうしようもできずにうつむくのだった。
2016.03.29
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