22

 バルバトスは倒れた。もう邪魔をする者はいない。
 神の眼の前に立ち、今度こそと腕を振り上げる。


「今まで…ありがとう」
「らしくないです、坊ちゃん」
「おまえもな、シャル」


 そんな軽口を叩いてから、ジューダスは慟哭にも似た雄叫びと共に、ソーディアン・シャルティエを神の眼へと突き刺した。
 ずっと一緒にいた、半身のような存在。
 柄から手を離した途端に大きな喪失感に苛まれた。


『さあ、君たちも早くここから離れるんだ』
『あとは我々に任せてください』


 ソーディアンたちの言葉にリアラが頷き、元の時代に戻ろうと皆を呼び集める。
 だが、その輪に加わらない者が一人。


「マナ、早くこっちへ!」
「…………」
「早く!」


 呼びかけに応えたのかそうでないのか、足を引きずるようにこちらへ歩を進める。しかしその目はまるで遠くを見つめている。
 ジューダスたちの背後の──神の眼を。


『マナさん!?』
『何をするつもりなの、』


 神の眼の前へ辿り着いた彼女は、神の眼に手を翳した。
 途端、まばゆい閃光が辺りを塗りつぶす。


「なにしてるんだよ、マナ!」


 近くにいたロニが腕を引いて離そうと試みたが、その手は見えない壁に阻まれた。
 いつもの、彼女の防御壁だ。
 まさかこの期に及んで神の眼を取り戻すつもりなのだろうか、皆が身構えた。


「美しき天上…」


 力のこもらない、泣きそうな声が聞こえた。


「この外殻大地を、地上軍などに破壊させはしない」
『なにっ』
「そんな、マナと戦えっていうのかい?」


 ナナリーの言葉に、やっとこちらを見た彼女は、妙に穏やかな表情をしていた。
 嫌な予感が喉を突く。


「変なことを考えないでくれ、早く離れるんだ!」
「……これは天上人としての、最後の矜持」
「やめてくれ!」
「リオン」
「そんな名前で呼ばないでくれ!姉さん!」


 彼女は困ったような顔で笑った。
 わかっていた。彼女が呼び名などにこだわりを持たないことくらい。だから単純に、一番呼び慣れたその名前で自分を呼んだのだと。
 エミリオだろうが、リオンだろうが、ジューダスだろうが、なんと呼ぼうとただ一人を指しているのだと。
 それでも、癇癪めいた反射だろうと、まるで突き放されたかのように感じて咄嗟に叫んだ。その名前で呼ばないでくれ。


「神の眼は、私が破壊するの。この外殻大地と共に」
「なんですって?」
「──私は、ここで天上と、終わりを迎えよう」
『何故なの、マナ!そんなことをしなくても…』
「神の眼は、この浮遊都市は天上のもの。だから最後の天上人である私が壊す。それに…あなたたちも、言ったじゃない」


 彼女はついにその場に頽れた。


「私も、永く生きすぎた」


 震える声で吐き出された言葉。
 漠然と、彼女の心からの感情なのだと悟った。


「──とても、永かった。天上もない、一人取り残された…この世界で生きるのは…」
『マナさん…っ』
「千年前、先の騒乱の時…終わりたいと願っては呼び起こされる。そしてまた全てを失う」


 つかれた。唇だけがそう動いた。


「神の眼と、天上世界の終わるこの時に共に逝けるのならば…それは…私にとっての唯一残された、幸せ」


 幸せ。彼女にとってのそれは、もはや終わることでしかもたらされないのか。
 否定をしたいが、凪いだ瞳には何を言っても届かない気がした。


「生きて幸せになることはできないの!?」
「…私は、生き続ける限り天上を、故郷を求めてしまう。手に入らないものを追い続けるのは、不幸だ」
「でもっ、今じゃなくてもいいじゃないか!俺はまだマナといたいよ!」
「……それは無理なの」


 まっすぐなカイルの言葉も、彼女は受け入れない。


「幼い頃、事故で動かなくなったこの身体には、一つのレンズが埋め込まれている」


 マナは何かを隠すように胸元に手を当てた。


「千年を経て、…そして神の眼の力を受けたことで、そのレンズも壊れかけている。もうすぐ私の身体は完全に動かなくなる」
「それって、もしかして、死ぬってことなのか!?」


 ひとつ、頷いた。
 恐怖など感じていない、静かな表情だった。


「そんな、ハロルド!なんとかならないの?」
「無理よ、精密検査をして充分な設備と素材を整えて、それからならなんとかなりそうだけど…」
「それまで、保たないってのか!?」
「言ったでしょ、晶術を使い続けてたらレンズへのダメージが深刻だって!それでも止めなかったのは…最初から、こうするつもりだったのね?」


 あなたにはわかっていたんですね、とマナは眉を寄せた。


「なにも方法はないのか?」
「ないの。私がそう望んだから」
「でも!」
「フフ、かの天才ハロルド博士にも解決できないなんて。最期に勝ち逃げをしてしまうようですね」
「言うわね、卑怯者」
「あなたは知らないだろうけれど。私はハロルド博士に勝ちたかったので、満足です。思い残すことはないかもしれません」
「そんなこと、言わないでおくれよ!」


 一歩踏み出したナナリーにも、彼女は微笑んだ。


「私が地に落としてしまった、天上の民にも…千年の後でも、誇り高く生きる、あなたのような人がいると知ることができてよかった」
「マナ…っ」


 その言葉を聞いてなおもマナに手を伸ばすナナリーを、ロニが止めた。
 もはや立っているのも難しいほど、天上の崩壊は時間の問題だった。


「もう行って。あなたたちがいたら神の眼も破壊できない」
「…っ、姉さん。どうしてもここに残るのか?」
「あの時と逆みたい。今度はあなたの守りたいもの、私が守れるのね」
「僕は姉さんだって守りたいんだ。あの時だってそうだった」


 彼女はジューダスに向かって手を伸ばしかけて、そのまま下ろした。


「わかっている。私はあなたの"姉さん"だもの」


 いつかの言葉が、表情が、感情が呼び起こされる。
 風邪をひいたエミリオを寝かしつけようとした手、何故自分をそんなふうに呼ぶのと問いかけた声、何かを思い詰めて必死にリオンを逃そうとしていた姿。
 ぎこちなくて、すべてが正しく自分が受け入れられるものではなかったにしても。彼女は確かに、自分を愛していてくれたのだろう。
 血も繋がっていない、他人のはずの二人だったのに。


「あなたが私を、"姉さん"と呼んでくれたから」


 思考を見透かすようにマナは彼をまっすぐみていた。


「嬉しかった。私を必要として、求めてくれる人がいて。あなたときょうだいになれてよかった。大切な、私の──」


 声を詰まらせて言葉が途切れた。
 彼女の頬をボロボロと涙がつたう。
 やはり、いくら永く生きていたとしても、いくら生に絶望していたとしても、死や別れが悲しくないことなど、ないのだろう。
 それでも彼女は必死に震える声で言った。


「ほら、行って」


 そうして、笑顔で彼に別れを告げた。



2023.11.26 投稿


 
back top