名前という少女は、馬鹿が付くほど真面目である。その真面目さを、同じく頭に馬鹿の付く柱間も持ち合わせていたらどれほど良かったか。そんなことを扉間は度々考えた。

日々の業務の合間に暇さえあれば過去の文献を書写する名前は、時折悩ましげに頭を抑えながらも、その手を止めることはない。何かの拍子で頬に付着したであろう墨は、さながら机上の戦化粧である。戦場で被る返り血や土汚れより、それはよっぽど勇ましく見えた。

名前が物事に懸命であることは、彼女が千手一族に下ってより最初からずっと変わらぬ事実である。命ぜられた仕事には首を振らず、誰に対しても真摯で疑心を持たない。それを彼女の性分と取るべきか、或いは──これ以上は要らぬ詮索だろう。

名前のひたむきな姿勢は到底一族に仇なすそれではない。恩義と忠誠心、そしてほんの僅かに感じる不器用な人間臭さ。彼女の表情は起伏に乏しいが、その一挙手一投足が実直な人となりを雄弁に物語っている。──つまり、千手一族の者たちにとって名前とは、嫌味なく、裏表の無い、接していてある種、気持ちの良い人物だった。


「……ふ」


名前は区切りの良い所で筆の動きを止めると、長らく同じ姿勢を強いた体を控えめに伸ばす。口から零れた息とも声ともつかぬそれは、淡々と業務をこなす扉間の手元から奏でられる、紙の摩擦音や筆の走る音に容易く掻き消されてしまうほどに小さい。
その最小限の動作は、いかに些細なものであっても扉間に差し支えてはならぬという生真面目な彼女らしい配慮であったが、それでも吐息が零れてしまうのは、やはり机に向かうことに未だ慣れていないからであろう。指には今まで見たことのない形の胼胝(たこ)が、淡い色を伴って主張している。

──しかし、似たような不慣れさを抱えているのは扉間も同じだった。今まで集落の政治を一手に担ってきた彼は、こうした傍仕えを置いた試しがない。
ひとつ引いた場から言葉を投げたり、誰かを介した間接的な指示を出すことは立場上多かったが、その一方で、直属の部下と呼べる存在はいなかった。否、作らなかったというべきか。扉間の長所であり欠点とも呼べる有能さ──己の手腕のみで片付けようとする些かの傲慢が、日を追うごとに自室を狭める書類の山として表面化している。

扉間はふと、己の業務の傍らで名前の様子を垣間見た。書類の文字を必死に追っているのだろう、声こそ発さないにせよ、唇が小さく動いている。その所作はあまりにも幼く未熟──しかし、酷く真剣だ。扉間は微笑ましさから来る僅かな口角の緩みを即座に消し、再び机上へと視線を落とした。



* * *



​──数刻して、鴉が鳴く。それは二人に終業の時刻を告げる──といっても、特段の規定時間を設けず執務に没頭する二人にとっては、区切りの鐘の音の代わりだった。

机上の文字を照らすには、傾いた橙色の陽光では些か心許無い。扉間一人であれば、蝋に火でも灯して暗がりに構わず筆を動かし続けたであろうが、今は傍に名前がいる。彼女の性分を考慮すると、直属の上司たる自分が休まねば彼女も休まないことは、火を見るより明らかだった。

しかしそのお陰というべきか、扉間は然るべき時に休むことが叶っている。業務についても名前の献身あって、必要以上に追われることはない。これほどまでに物事が円滑に進むのであれば、もっと早く側近の必要性に気付くべきだったと扉間は己の不覚を度々悔いたが、今まで名前以外に信頼に足る適任が現れなかったことも事実である。

あらゆる場面で平生を保ち、愚直で垣根なく、何より"柱間(あにじゃ)の理想"を理解、共感し歩みを止めない──そんな人物ばかりであれば、とうの昔に戦も終わろう。

そして、その小さな手に真新しく刻まれた紙での創傷や胼胝が、何よりの証拠であり体現だった。

扉間はひとつ息をつくと、棚の奥から小さな薬瓶を取り出して、おもむろに名前を手招きする。


「名前、こちらへ来い」


呼ばれた彼女は書類の束を丁度片し終えたところだったようで、すぐさま姿勢を正した。


「いかがされましたか、扉間様」


相も変わらず彼女の声は固い。傍仕えとしては優秀な振る舞いだが、個人としてみれば些か余計な垣根にも思える。

扉間は手中の薬瓶の蓋を開けると、中から重みのある液体を垂らし、自身の左手に落とした。


「労いだ」


ふわりと上品な花の香りが二人の鼻腔を掠める。
名前の顔がそれに一瞬だけ弛緩したのを扉間は確認すると、そのまま彼女の両手を流れるように取って、手を重ねた。


「……」

「香油だ。以前、兄者が集落の女達に気を利かせて配ったことがあってな」

「……」

「兄者は医療忍者としての側面もある。木遁の性質を利用して、こうした嗜好品の類も……」



──全く、話が入ってこない。

名前の荒れた小さな手を包むようにして、扉間の無骨で大きな手が懇切丁寧に香油を揉み込んでいく。指の腹から伝わる確かな体温と、労るような指圧の強弱。
穏やかな香りが波のように漂い、人肌に染まる油は本来固まった筋肉を解いていくはずであるのに、反して彼女の心身は、ひとつ、ふたつと強ばっていく。


「試供品として預かったは良いものの、俺はこうした類を使わん。貴様にやる」

「……」

「それと、手荒れに対する詫びだ。効能、成分、共に保証しよう」

「……あり、がとう……ござい……ます……」


ようやく絞り出せた言葉は、情けないほど差し障りのない謝辞のみ。もっと他に言葉があろうことは分かっているが、過剰に熱を抱えた頭ではこれが精一杯だった。

懐かしそうに香油の生まれた経緯を語り、自分では持て余すだけのそれにようやく使い道ができたと嬉しそうに述べる扉間の、なんと無邪気さたるや。


「よし、これでいい」


​馴染んだ感触に納得したのか、扉間が静かに手を離す。与えられていた熱が、まるで微睡みのように引いていき、甘い痺れを残した両手を名前は慌てて胸元へと引き寄せた。扉間は満足そうに薬瓶の蓋を閉めると、そのまま静かにそれを差し出す。

何の変哲もない小さな瓶は、どんな金銀や宝石、装飾品よりも、名前の瞳にこの上なく魅力的に、酷く輝いて映った。


「大切に、いたします」


僅かに息を呑み、恐る恐ると薬瓶を受け取る。
それから控えめに小さく礼をすると、名前はいつぞやと同じく、逃げるようにして部屋を出た。

小さくなっていく、たどたどしい足音。扉間はそれを聞き届けると微笑した。二人の間にある漠然とした垣根が、少しだけ崩れたような気がしたのだ。



*  *  *



​──数日後。千手柱間の側近である千手桃華の、呆れ果てた声が集落の一角に響いた。


​「名前。どうしたんだ、これ。べとべとじゃないか」


​訓練場での、側近同士の手合わせの最中のことであった。凛とした佇まいの桃華の手には、先ほどまで名前が握っていた得物が収まっている。刃を交えた瞬間にそれは名前の元から離れ、情けない弧を描いて弾き飛んでしまったのだった。


​「……む」

​「む、じゃない。手入れの仕方を間違えたのか? 柄に油が回っているよ」

​「……!」


桃華は怪訝そうに己の手のひらに付着した油を確かめた。すると、ふと鼻をくすぐる上品な香りに気づく。戦場で使うそれとは明らかに違う、嗜好品の類い──桃華の記憶にも存在する、嗅いだ覚えのある香りだった。

​桃華は手元の武器と、珍しく動揺の色を露わにする名前の顔を交互に見比べる。そして、すべてを察したように苦笑した。


​「名前も年頃だ、仕方がない」

​「!?」

​「だが、手合わせの前に塗りたくるものではないよ。寝る前、もしくは逢い引きの……」

​「と、桃華殿……! 桃華殿……!」


からかうような桃華の視線から逃げるように、名前は弁明の意を携えながら彼女の周囲を回った。

その後結局、桃華との手合わせは中断となった。名前は散々と真っ赤になった顔を隠しながら己の不甲斐なさを悔い、得物を拭き清めるのに精一杯だったという。


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