「さあ、行け」
名前が窓を開け放つと、一羽の伝令鳥が迷いなく空へと飛び立った。
その脚には一通の書状が厳重に括られている。千手の未来──そして忍界全体の命運を左右するであろう重い任を携え、鳥は逞しく翼を羽ばたかせた。
飛び去った天は、生憎と分厚い雲に覆われている。
今日くらいは晴れていれば良かったのに──と、普段は忌み吉兆の類など気にしない名前であったが、そう思わずにはいられない。
真っ直ぐと羽ばたく小さな影が、空の彼方へ消えていく。名前はそれを見届けると、一瞬だけ唇を引き結んだ。
窓を閉め、冷えた空気の残る部屋を後にする。そしてすぐ側──当主たる柱間が急ごしらえで手配した小屋の連なる区画へと歩を進める。
昼間だというのに、そこは奇妙なほど静まり返っていた。漂う空気は異様なほどに重く、名前が踏みしめる砂利の微かな音すら、恐ろしいほど周囲に響き渡る。
己の足音がこの場においては何か不吉な意思を伴ってしまうような気がして、少しだけ息が詰まった。
普段なら淀みのない足取りも、今日ばかりはどうしても重い。視線も無意識のうちに、低く地面へと落ちていっていた。
だが、そんな彼女の落とした陰りを持ち上げるように、不意に柔らかく穏やかな気配が空気を揺らす。
その影は名前の様子を窺うように、けれど少し無遠慮に、顔を覗き込んだ。
「こんにちは、名前様」
「……む」
「こんな時間にここへ来られるなんて、珍しいですね」
黒く澄んだ瞳が、まるで鏡の如く名前の姿を映し出す。
そこに見えた己の表情は、いつものように起伏ない平坦なものであるはずだった。それにもかかわらず、目の前の人物は心配そうに細い眉を寄せている。
「何か、あったのですか?」
毒気のない笑みを浮かべるその人物は、近頃千手へ亡命してきた、うちは一族の女性である。
自暴自棄な戦い方が目立つ一族の行く末を案じ、せめて妻や娘だけでもと千手へ亡命させる者は後を絶たない。彼女もまた、理由を同じくして、この地に身を寄せた一人であった。
うちは一族はその貴重で強力な瞳力の流出を何よりも恐れ、女を内に囲う傾向が強い。故に彼女たちの多くは戦力としての
そんな一族が、女を亡命させるという苦渋の択を選ばざるを得ない──その事実だけで、向こうの逼迫した内情が嫌というほど窺えた。
「……ここでの生活に、不便はありませんか」
名前はうちはの女性と向かい合うと、どうしても言葉に詰まってしまう。まるで壊れやすい繊細な細工を手の中に抱えているような、そんな焦燥を感じるのだ。
しかし、己は扉間の側近である。立場ある者として、いかなる動揺も他人に悟られるわけにはいかない。
心の内までも見透かしてしまいそうな、その透き通った瞳は、あの赤を備えた三つ巴より恐ろしく思える。名前は逃げるようにして、問いかけという名の壁を作った。
うちはの女は、それを自分への気遣いと取ったのか、また柔らかく目を細めると、無邪気に口を開く。
「ええ、お陰様で。充分すぎるほどの待遇をいただいております」
「そうですか。……私も外から千手に降った身。何かあればすぐに相談してください」
「わざわざ様子を見に来てくださったのですか? それは……ありがとうございます」
「いえ、これも勤めのうちです。……では」
名前は深々と一礼すると、素早く踵を返した。
背後でうちはの女が丁寧にお辞儀をして見送る気配が伝わってくる。
──しかし、名前は知っている。
どれだけ穏やかに言葉を紡ぎ、どれほど柔和で無害な笑みを浮かべていようとも、その瞳の奥底に煮え滾る黒い情念だけは、決して誤魔化せるものではないのだ。
うちは一族は揃いも揃って、愛情深い。戦場で刃を幾度と交わらせたからこそ、この身をもって知っている。
名前はそれがどれほど危うく脆いものか理解しながらも、同時に、自分には決して手に入らないものだと、些か羨ましくも思った。
誰かに愛され、その心の内に留まって、死を惜しまれること。
それは紛うことなき生の継続だ。酷く尊く、そして、温かい。
「(私は……)」
誰かの特別になりたいのだろうか。しかし、それはあまりにも傲慢で、欲張りで、何より──。
胸の奥を突き刺すような苦しみに、無意識のうちに息を詰まらせ、歩みを緩めたその時だった。
「……言わなかったのか」
突然掛けられた低い声に、名前は思わず肩を跳ねさせた。
正面から陰と共に落ちてくる淡々とした、しかしどこか温もりを感じさせる声の主は紛れもなく扉間その人のもの。
いつからそこに立っていたのか、彼はゆっくりと更に歩み出ると、赤い瞳で射抜くように名前を見下ろしていた。
──ああ、この瞳が。どうしたって苦手だ。
「うちはと千手の休戦協定の件だ。奴らにとっても思うところはあるだろうが、内密にする内容でもあるまい」
「……申し訳ございません」
「いや、咎めているわけではない」
言葉を詰まらせる名前を遮り、扉間は静かに短く溜息を吐いた。それから彼は、雲に覆われた灰色の空を仰ぎ見ると、ぽつりと呟く。
「……貴様のそんな姿は、初めて見る」
「……?」
「雨が降りそうだな。鳥は無事に飛んだのだろう。ならば、屋敷に戻るぞ」
不意に伸びる扉間の大きな片方の手が、そっと彼女の背中に回される。その行為は、紛れもなく労りの類いであり、まるで幼子や老人の歩を促すために背を押すことと何ら変わりはない。けれど名前はその瞬間に、あの日を、丁寧に包帯を巻かれた温もりを思い出してしまった。
名前は慌てて身を引こうとして──できなかった。
心の臓から、侵食するような熱が脳に渡った瞬間に足が、腕が、全てが止まる。しかし、彼女の瞳だけは忙しく揺れていた。
──ここで距離をとる方が、却って不自然だろうか。
そんな考えが名前の脳裏を一瞬過ぎる。するとそれは、すぐさまに柔く衣を身につけて、奥底から表層へ、平然と浮かび上がってきた。
「今日は冷える。戻ったらまず、茶を淹れよう」
名前は踏み出した足の方角を、ほんの僅かに扉間へと寄せる。それから彼の言葉に頷くと、これ以上の接触と内の揺らぎを拒むように、忙しく歩を進めた。
空に渡る雲は、相も変わらず厚い。けれどその陰りは、名前の顔に浮かぶ色を隠すように、不器用に寄り添うのだった。
* * *
「休戦協定の書状を送ったはずだ!」
黄昏の色は、酷く錆びついている。
度重なる激しい戦火を経て、周辺の山肌は草木一本残さず枯れ果てていた。地殻が歪み、岩が重なり合う崖の上で、千手一族とうちは一族が含みを持って睨み合っている。
「……うちはを守るというのなら、もうこんな戦いは止めようぞ」
遮る木々のないその荒れ地には、柱間の懇願とも取れる声が虚しいほどによく響き渡った。しかし、彼と対峙するうちは一族の長──うちはマダラは、怨念のような殺気をたちまちに纏い、禍々しい強大な青の怒りを身に包む。
「柱間ァ! いつまでガキのようなことを言っている! 腑を見せ合うことなんて、できやしねーのさ!」
大地を引き裂くマダラの激情が、正しく開戦の合図となった。瞬間、両陣営の怒号が爆ぜ、無数の殺気が錯綜する。
柱間はすかさず印を結んだ。枯れた大地を突き破り、畏怖を覚えるほどに生命漲る巨大な樹木が根を巡らせていく。柱間の木遁忍術は、直に全てを深緑で覆うことだろう。
頭領同士の規格外の衝突に巻き込まれぬよう、周囲の忍たちは間合いを探りながらの乱戦へと雪崩れ込んでいった。
名前は己に向けられる赤を備えた三つ巴に得物を構える。千手に身を置いてより、戦線を重ねる毎に浴びる赤の数は増えていく。お前を殺したくてたまらないと、お前が憎いと、お前如きがと──その瞳たちは世の罵詈雑言を抱えて彼女に襲いかかった。
名前はそれらを一身に受け止めながら、僅かに体を震わせる。それは恐れでも躊躇いでもない、純然たる武者震い。かつて戦闘一族と世に言わしめた時代の血と、代々の憎しみを溜め込んできた瞳とでは、果たしてどちらが赤い。
──ここが、私の死地足るか。
名前が足を踏みしめた、その瞬間だった。
「飛ぶぞ」
後ろから落とされた声と共に、背中にひとつ小さな衝撃が走る。次の瞬間、視界が一変し、敵の無防備な死角が眼前に現れた。
「(!? これは扉間様の……!)」
自身に起こった現象を瞬時に理解すると同時に、名前は迷いなく得物を振り下ろす。まずは一人、と確かな手応えを確かめた直後、扉間の手が彼女の腕に触れ直した。
「今度は体を右に捻れ」
何とも言えぬ浮遊感が、思考を白く染めていく。一瞬で景色が切り替わり、今度は、倒れた仲間の骸にどうしても気を取られてしまったうちはの忍の後頭部があった。
指示通り右へと身を捻りながら振り抜いた得物が、敵の頸に一閃を落とす。返り血を浴びる間もなく、再び世界が歪んだ。
敵の影がふたつ、みっつと、糸切れた人形のように崩れていく。驚愕に目を見開く写輪眼が幾重にも交錯するが、忍界一の速さを誇る扉間は、その追従を許さない。
一通りの士気を挫いたあと、扉間は岩陰に飛んだ。
名前はようやく肺に溜まったままの空気を吐き出し、全身から噴き出す熱い汗を感じる。無意識に息を止めていたのだろう。くまなく酸素を運ぶべく、心臓が大きく脈動した。
扉間はそんな彼女の肩を強く押し留め、殺気を潜めた低い声で言葉を落とした。
「いいか、貴様は正面から受け止め過ぎるきらいがある。今まではそれで良かったが、今此度の戦は質が違う」
「はあっ……、はぁっ、扉間……様……」
「貴様の死地は、ここではない」
その静かな叱咤は、まるで冷水を浴びせられたかのように名前の熱い体を冷ました。真っ直ぐと己を見つめる扉間の赤の瞳は、いつだってその向こうを見据えている。かつて語った夢──柱間の理想の世界を、叶えるために。
「……お任せ下さい、扉間様」
名前から紡がれる言葉は力強い。けれど、見つめ返した瞳にはそれでも僅かに迷いが拭えずにいた。
しかし、彼女が任せろと言うのであればと、扉間は短く頷きをもって応える。
彼の手が、再度、名前の腕に触れる。
戦場が再び、騒めき揺れた。