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死の淵。
薄れゆく意識の水底で香夏子ははっきりと自分が死ぬという現実を受け止めていた。
痛みこそもう無いが倦怠感に包まれる身体はもう動かすこともできず、手足の先から命が零れ落ちていくかのように感覚がなくなっていく。
「……キヒッ」
そして耳に届いた、唇の端から空気が漏れるような音。
それは聞きなれた自分の声で、同時に笑い声なんだと認識する。
どうしよう、自分は身体だけでなく心まで壊れてしまったらしい。
人生の終焉を目前にして笑うだなんて、狂っているとしか言いようがないだろう。
どうせ今すぐ死ぬのだからたいした問題は無いけれど、それでもまるで御伽噺に出てくる悪役の魔女のような笑い方は、年頃の乙女としてはあまり嬉しくない。
まぁ、いいか。
もう終わるのだ。
色々と、疲れた。
すぐに思考を霧散させて、視界一杯に広がる青空を見つめる。
その青色を瞼に記憶に焼き付けて、重い瞼をゆっくりと閉じる。
今までの思い出が一気に頭の中に流れ込んできて、あぁこれが走馬灯なのかな、なんて。
もう周囲の音も聞こえない。
そこで私は、息を止めた。
そう、止めた筈だ。
私は自分の死を受け入れて、最後の最期に狂人を思わせる笑い声だけ上げて死の時を迎えたはずなのだ。
迎えた筈だというのに、現在私は何と表現していいか解らない不思議な空間に漂っている。
最初は呆然としていた私だが、今では眉間に皺を寄せつつ、腕を組み、ついでに足も組んでしまうくらいに、不思議な空間に漂い続けている。
最初は天国か地獄かと思いもしたが、閻魔様の姿は何処にも見当たらないのでそういう訳でもなさそうだ。
自分以外に誰か居ないかと周囲を見渡しても人影一つ見つからない。
いい加減大声でも出してみるかと思った時、目の前にぼんやりと、オレンジ色をした炎のようなものが灯った。
その中央には微かに眼を思わせるものがついていて、何だコイツはとついつい顔を歪めてしまう。
「我が名は、ローレライ」
「……はァ?」
突如現れた炎の、何の前置きもなしに始まった自己紹介に不機嫌も隠さずに声を上げてしまう。
まぁ自己紹介自体は悪じゃない、むしろ良いことだろう。
その名前もどこかで聞いたことがある気もするが、まぁパッと思い出せない時点でどうでもいいことなのだろうとさっさと脳内から切り捨てる。
故に、私が不機嫌な理由は一つだ。
あの重苦しくも息苦しい世界からやっと開放されたというのに、こんな場所に放り出されたことに不機嫌を隠せないのだ。
そして多分コレは勘でしかないのだが、放り出したのがこのローレライとか言う存在だから、余計に。
「どうか、力を貸して欲しい」
身体全体を揺らめかせながら言った言葉は、何処までも悲哀に満ちていた。
が、私は怪訝そうに顔をゆがめさせるしかない。
「力を貸して欲しいというのならきちんと順序だてて説明してからにしろ。ローレライだか何だか知らんが、未知の生命体にいきなり力を貸して欲しいとか言われてもはい解りましたなんて言うわけねーだろ」
沸々と沸いてくる怒りとどす黒い感情に無駄に言葉遣いが悪くなる。
日本人特有の過剰なサービス精神もこんな場所では発揮されず、私は眉間に皺を寄せながらローレライとやらを睨みつけた。
が、ローレライとか言う奴は人の話を聞くつもりが無いらしい。
それとも耳がついていないのか。
どちらかというと後者かもしれない。
「狂気が、必要だ。他者をもろともせぬ、そなたの持ちえる狂気が」
……もしかして、喧嘩を売られているんだろうか。
米神に青筋が浮かびそうなほど失礼な発言に、震える拳をきつく握り締め、目の前の生命体を殴り飛ばしたい衝動に駆られる。
「どうか、我が愛し子を救って欲しい。解放して欲しい」
「……殺せってこと?」
それなら納得だ、狂人なら人殺しなど諸共せぬだろうから。
が、生憎と私は快楽殺人的な方向での狂気には至っていない、と思う。
「否。苦しみに満ちた世界からの解放を。どうか世界を、塗り替えて欲しい」
……やっぱり殴ってもいいのかもしれない。
この目の前の怪しい物体(言葉を発するというのに会話が成り立たない以上、生命体と言っていいのかも怪しい)は愛しい子のために、世界を変えろという。
どんな親馬鹿だ。いや、馬鹿親だ。
「周囲を変えたきゃ自分が変わるよう言いなさい。そっちのがうんとか楽だから」
「無理だった。だから、力を貸して欲しい」
「じゃあアンタがすればいいじゃん」
そんな見た目をしてるのだ。何かこう、人外の力とか持ってそうな気がする。
「そこまでの干渉を許される権利を、持っておらぬ。故に何度でも頼もう。どうか、力を貸して欲しい」
「無理、ヤダ、お断り、さっさと私を死出の旅路に返せ」
きっぱりと言い切れば、怪しい馬鹿親物体はゆらゆらと揺れた。
「不可能だ。そなたの魂は、既にあの世界の存在に在らず」
「……はい?」
「愛し子の生まれいずる世界に落とすため、そなたの魂は変革を迎えた。故に、死を迎えることはできぬ」
ローレライの言葉はいちいち小難しいが、言いたいことは何となく解った。
要は、その子供が居る世界に送るために私の魂は形を変えてしまった、ということだろう。
人の許可無しに人の魂を弄っていいとでも思ってるんだろうか、この馬鹿親物体は。
お陰で私の堪忍袋の尾はついに切れる羽目になった。
そりゃあもう、盛大に。
「ふざけんな!! 何勝手な事してんのよ!? 私がいつ良いって言った? 私がいつ力を貸すって言った!
そんな押し付けがましいエゴイズムに私を巻き込むな!
私の人生は終わった! 私はもう解放された! それなのにアンタの事情で私の人生を勝手に改変するな!」
大声で抗議したせいで、酸素不足に陥った私は肩で息をしながらローレライを見た。
いや、その表現は語弊があるだろう。
きっと今の私の瞳は、まるで親の仇を見るかのような目つきになっている筈だ。
「そなたには、幾千幾万の謝罪を重ねても足りぬ。それでも、我は懇願することしかできぬのだ」
「知らない!知らない知らない知らない!」
聞きたくないと、だだを捏ねる子供のように耳を蹲る。
眼を閉じれば真っ暗で、このまま終わってしまえばいいと。
こんなことはホントは起こってなくて、私は死んで居なくなったんだと思い込もうとした。
目を瞑って全てを拒否して、どれくらい経ったか。
そんな私を、暖かい霧のようなものがふんわりと包む。
優しくて暖かいソレに思わず顔を上げれば、いつの間にか近寄っていたらしいローレライが腕のようなものを伸ばし、私を包み込んでいた。
「そなたに、謝罪を。その上で頼む。そうでなければ、そなたの魂はむき出しのままこの空間を漂い続け、永遠に出ることすら叶わぬゆえ」
「傲慢だね……そんなの、道を塞いで強引に引っ張ってるのと同じじゃん」
どこか諦めを含んだ私の台詞に、ローレライはその通りだと答える。
「愛し子を苛む罪人達と、我の差は無いだろう。それだけのことを、そなたに強いている自覚はある」
そこでふと、気付いた。
ローレライの声は最初から深い悲しみに満ちていた。
同時に、後悔しているのだ、この馬鹿親は。
「……私がその子を救えたら、何か得があるの?」
だから、これはちょっとした気紛れだ。
どうせ引き受けなければ此処から出られないのだ。
だったら選択肢は一つしかない。
ローレライの身体が揺れる。
私から離れ、真っ直ぐ此方を見据えてくる。
「無い」
「ないんかい!」
思わず突っ込んだ私はきっと悪くない。
「だが、新たな生を与えることはできる。異分子では在ろうが、今まで居た世界と、全く違う新たな世界での生を」
「アンタ私が死んでホッとしたの見てるんだよね?だから狂気とか言ったんだよね?ソレなのに新しい生とか言われて喜ぶとでも思ってんの?」
「先は、解らぬ」
「そりゃそうでしょうけどね……」
自然ともれる深いため息。
もう一度腕を組んでからぼんやりと上を見上げる。
上といっても此処は上下左右、重力すら存在しているのかわからない空間だから、私にとっての上だが。
眼を閉じて、今までの世界を思い浮かべる。
世間一般から見て、可哀想と呼ばれるような私の人生。
それでも手を差し伸べてくれる人は大勢いたし、周囲には恵まれていたと思う。
恵まれていたが、思ってしまったのだ。
疲れた、と……。
「……私、根性無いよ」
「構わぬ」
「途中で放り出すかもしれないよ」
「そなたは、そのようなことはせぬ」
「どっから来るのよ、その自信は」
「そなたを見てきた故に」
「ストーカーか」
突っ込んだ後、もう一度ため息をつく。
頭痛がしそうな頭を二、三度振る事で誤魔化し、覚悟を決めてから、私はストーカーもといローレライに掌を上に向け手を伸ばした。
「なら、寄越せ」
「……何を望む」
「力を。財力、権力、暴力、何でもいい。今のままの私じゃ、きっとできない。だから、力を寄越せ。何かを成し得るにはね、力が無きゃ何にもできやしないんだよ」
揺らめく、焔にも似た生命体。
鏡を見なくても解る。
きっと今の私の瞳は貪欲さを隠さない獣にも似た色をしているに違いない。
しかしローレライはそれに追求することは無かった。
当たり前だろう。ローレライはだからこそ、私に懇願を繰り返したのだ。
「理解した。それならば、そなたに力を」
その声に、もう悲哀の色は無い。
私が引き受けた事である程度は安堵したのだろう。
予定は未定だというのに。
そしてその言葉を皮切りに、私の身体は温かなものに包まれる。
途端、襲ってくる眠気に抗うことができず、重くなった瞼をゆっくりと閉じる。
身体の内から湧き上がってくる何かを感じながら、私は意識を水底へと沈めていく。
待って、まだ言いたいことがある。
手駒が欲しいのだ。
いくら力を持っていても、一人と複数ではだいぶ違う。
たった一人でもいい、仲間と呼べる存在が欲しい。
そう言いたいのに、唇はもう動いてくれない。
夢の中へ落ちていくように、身体が心地よい感覚に包まれる。
「我が半身を、頼む」
結局それを頼むこともできないまま、その言葉を最後に私の意識は沈んだ。
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