拝み屋『悠々自適』(03)



「やり方っていうけど、アンタさっきから何もしてないじゃないか」
「んー、いつもならね。もっと見えるんですよ」
「……何が」
「澱みの核ってほどでもないんですけど……生卵の白身にある、からざみたいな。それを処理するのが一番早くて、だからさっきから探してるんですけど」

 そう言ってマリはカンテラを持つ手を動かす。
 シンクの目には闇一色にしか見えない。が、マリのアイスブルーの瞳は何かを探すように注意深く動き続けている。

「なんか紛れてるな、これ」

 確信したようにマリが呟いた瞬間、闇が揺らいだ。
 またぼそぼそと声がシンクの耳に届く。何を言っているか解らない。けれどどこから聞こえているかは解った。シンクは自然とそちらに目をやる。
 誰かが居た。身体を窮屈に折りたたんで座っていた。限界まで足を畳んで、それを抱えこんでいる。
 顔は解らない。けれど前を見ている。僅かに口元が動いているのが見えた。ぼそぼそとした声の主はあれだと解った。

 声がたわむ。声だけ遠近感が狂ったようだった。音量調整がうまくいっていない音機関のように奇妙に音量が歪んでいた。
 人は声が聞こえた時、それが人の言葉であれば自然とその意味を理解しようとする。
 無音の闇の中でその声を聞き取ろうと耳をそばだてたのは、シンクにとって無意識のことだった。

 気付けば折りたたまれた身体の上を蛇が這っていた。鼠が肩をかじっている。
 その痛みを感じていないのか、ぼそぼそという声は変わらない。しかし先ほどよりも声ははっきりと聞き取れた。

「その三角球で距離を測ればいいと私は気付いたのです。全ては必然でした。三年後に会えると七年後の貴方は言いましたね。夜に輝くロマンチストな白い太陽が私達を溶かしていました。はじめまして。円錐の内臓が零れ落ちてお兄さんの枕を裏返し、赤色に濡れた錆で壁を綺麗に包むでしょう。お母さんは優しいでしょう? 脳みそを引きずり出して食卓に誘います。さようなら。おはようございます。冷めた唾液で愛してください。揺れる空へ跳んでください。壊れた砂時計がカラカラと走り回って柔らかく潰れるでしょう。糸は回りましたか? 蜘蛛を爪弾いた指先が、ぁ、あああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」

 突然の絶叫にシンクの身体が跳ね、咄嗟に一歩引いた身体がマリにぶつかる。
 首を奇妙な方向にひしゃげながら激しく動かす度に、まるで壁にぶつかっているかのように嫌な音を立てていた。
 血が飛び散る。頭髪が赤く塗れる。髪の生えた地肌が滑り落ちて、頭蓋骨が割れる。脳漿が飛び散る。柔らかな脳味噌が露出する。
 暗闇の中、まるで浮かび上がっているかのようにそれが細部まで見える。頭が割れていた。
 こちらを見る。目が合う。膝を抱えていた手が、蜘蛛を腕に乗せて虚空を指差す。かさついて切れた唇がはっきりと動いた。

「しゅかまだい」

 ロォン、という音がシンクの耳に飛び込んできた。それは鈴、あるいは鐘の音に似ていた。
 目の前にあるカンテラの中でちらちらと小さな灯が揺れている。そこから伸びるローブに包まれた腕を辿れば、アイスブルーの瞳がシンクを見ていた。

「息をして」

 端的な指摘に、シンクは自分が息を止めていたことに気付いた。
 呼吸を再開すれば全力疾走したように肩が上下に動く。突如込み上げた吐き気に口元に手を当てて身体を折る。
 胃が痙攣していた。えづきそうになるのを何とかこらえながらもう一度顔を上げれば、頭の割れた人間はもう影も形もなかった。

「いま、の」
「ただの通りすがりですよ。害意はありません」

 あっさりと言い切られたことにシンクは目の前の少女を殴り飛ばしたくなった。
 未知、というのは原初的な恐怖である。シンクは迫りくる死とはまた別種の恐怖があるのだと生まれて初めて知った。
 そしてそれを害意なしと言い切るマリもまた、シンクには異様なものの一つだった。
 吐き気と共に衝動をぐっと腹の底に押し込んで、再度視線をやるもやはりそこにあるのはただの暗闇だ。

「何か、言ってたけど」
「理解できたんですか?」
「……いや」
「良かったですね。忘れましょ」
「無茶を言う」

 悪態をつくシンクの声は微かに震えていたが、マリはそれを指摘することなくまたカンテラを動かして闇の中へと視線を滑らせる。
 清掃の実情を知りたくて同伴したシンクだったが、既にさっさと帰りたくて仕方がなかった。
 シンクにとって現状は余りにも自分の埒外だ。未だ痙攣する胃を抑え込むように腹に手を当てながら奥歯を噛み締める。
 顔を青くするシンクを気遣うこともなく、マリは闇を眺めながら暢気に話す。

「きっと師団長が欲しいんでしょうねえ」
「僕なんか欲しがる奴が居るわけないだろ」
「またまた。さっきも熱烈なお誘いを受けていたでしょう」
「……もしかして足を掴まれたこと言ってる?」
「そうですよ。お腹の中に入れたかったんでしょうね。師団長小さいから」
「お前のがチビだろ」

 会話するだけで気が紛れると、シンクは口を動かす。
 マリの言葉にも理解の及ばない部分はあったが、それでも無音よりはマシだった。
 ひたひたと聞こえる足音を聞こえないふりをしながら、ゆっくりとカンテラを動かし続けるマリを見る。
 未だお目当てのものは見つからないようで、その顔は少し不満げだ。

「少し移動しましょうか。師団長が人気者過ぎてうまく見つかりません」
「……部屋から出られるわけ?」
「出ませんよ。手出して下さい」
「は?」
「手出してください」
「聞こえなかったわけじゃないよ。何でって意味」
「はぐれたいんですか?」

 手を差し出されながら言われた言葉にシンクはぐっと言葉をつまらせた。
 この場所ではぐれたらどうなるか、という質問が愚問であることなど素人のシンクでも解る。
 この異常な状態では、そもそもはぐれる程この部屋は広くないだろうという指摘をするのも躊躇われた。

 シンクの黒手袋のされた掌が、マリの白手袋のされた掌に重なる。
 柔らかく握られた掌は生きている人間の体温があった。

「何か聞こえても無視してください。何か見えても見えないふりをして下さい。認識されたと判断したら寄ってきますよ」
「……わかった」

 片手にカンテラを持ち、片手をシンクと繋いでマリは歩き始める。
 シンクにとっては一面の暗闇だったが、マリはまるで目印でも見えているかのように足取りに迷いはなかった。

 カツンカツンとマリのヒールの音が反響する。その時点でおかしいのだが、シンクは指摘せずに無言を貫く。
 反してシンクの靴音はしない。ぐちゃりぐちゃりと柔らかいものを踏みつぶしている感覚だけがある。
 時折混ざるゴリとした感覚と、細長く硬い枯れ木に似たものを踏み割るような感覚が不愉快だった。
 腐敗しかけた内臓の敷き詰められた地面を歩いているようで、ブーツ越しに感じられる不快な感触に眉を顰める。

 時折闇の中にぽっかりと浮かび上がるものもあった。
 割れたグラスがあった。中には琥珀色の液体がなみなみと満たされ、絶え間なく溢れ続けていた。
 据えた匂いが鼻についたがそれも無視した。明らかにグラスの容量を無視した液体が溢れ続けてそれが足元まで届いても、見えないふりをした。

 小魚がぴちぴちと跳ねていた。まだ生きているのだろう。苦しそうに大きく身体を跳ねさせて叫んでいる。
 一匹二匹では足らず、歩くマリとシンクの両脇を道でも作るように大量の小魚が跳ねながら喚いていた。
 懇願していた。罵倒していた。哀願していた。絶叫していた。生を渇望し殺戮者を呪い捕食者を恨み傍観者を蔑み被害者を哀れんでいた。
 その内の一匹がマリの前に跳ね飛んだが、マリは見えていないかのようにヒールで踏みつぶして進んだ。

 誰かがドアを叩いている。目いっぱい指を広げた掌で高笑いをしながら連続してドアを叩いている。
 そんなものシンクの目には見えていないのに、口端が耳に届きそうなほど大口を開けて酸欠になりそうな哄笑を上げてドアを叩いているのだと解る。
 叩き続けた掌は赤く腫れるのを通り越してどす黒く色を変え、ドアには赤黒い染みが大量にこびり付いている。
 シンクの視線はマリに固定されているのに、それがはっきりと見えていたし聞こえていた。

「ねえ」

 声をかけるな、とは言われていない。だからシンクは歩き続けるマリを呼ぶ。
 聞こえないふりをしていた。見えないふりをしていた。それでも無言で居ると頭がおかしくなりそうだった。

「どこまで行くのさ」

 既に部屋の端に付いていなければおかしい距離を歩いている。
 けれど壁にぶつかることもない。何なら女の腹でも踏みつぶしているようなぐにゃりとした感覚も、どう考えても床の感触ではない。

「結構近づいたと思うんですよ」

 マリの返答は曖昧だ。うろりと周囲を見渡す目はシンクを見ない。

「……そもそも、ここ何」
「何? 何、ですか。難しい質問ですね。狭間。煉獄。あるいは隙間、もしくは地の底ってとこですかね」
「意味わかんないだけど。隙間ってなんの」
「えぇとですね、んー……私達はオールドラントって世界に住んでますけど、お師匠様曰く、世界ってもっといっぱいあるんですって」
「はあ?」

 意味が解らない。
 上がった語尾からシンクの主張を受け取ったのか、マリはちらりとシンクを見て解説を始める。

「その世界と世界は遠いけど近くて、その隙間から一つ下の階層に落っこちることができるそうです。落っこちた先にはジゴクっていう、全ての罪悪を浄化するための拷問部屋みたいなのがあるんだって聞きました。ここはジゴクには落ちてないけど、そこに落ちる三歩、いや、まだ五歩手前かな。それくらいの場所だそうです」
「意味わかんないんだけど」
「まあ、私達が普段住んでるオールドラントから少しずれた場所だと思ってくれればいいです。今回はあの部屋から隙間に落ちかけてるのでここに居ます。それからお師匠様はこの隙間っていうのはオールドラント以外の世界の概念も混じってるので、下手に解らない方が良いとも言ってました。だからこれからも日常生活を送りたいなら、ここのことは解らないままで居て下さい。耳を傾けず、目を背け続けて下さい」
「……ちゃんと戻れるんだろうな」
「戻れますよ。そのためにもさっきから探してるんですけど」
「帰り道を?」
「いえ。澱みを使って隙間を広げたヤツを。そいつを捕まえないと神託の盾本部に澱みが逆流して丸ごと隙間に落っこちかねないので早くとっ捕まえたいんですが」

 さらりと恐ろしいことを言いながらマリは足を止める。
 手をつないでいたシンクもまた足を止め、カンテラを片手に周囲を見渡すマリを見る。
 思っていたよりも捜索が難航しているらしいと察してシンクもまた周辺を見渡すが、やはりシンクの目には一面の闇にしか見えない。

「んー、変なこと聞いていいです?」
「……何」

 団服の裾を誰かが引っ張っている。
 それも無視してシンクは訝しげな顔をするマリを見る。

「師団長って人間ですよね?」

 明日の天気でも聞くかのように問われた言葉に、シンクは息をのんだ。
 咄嗟に手を振り払う。マリがシンクを振り返る。

「ああ、それは駄目ですね」

 マリが背中に背負った杖を素早く取ると、さっきまでシンクと繋いでいた手の中でくるりと杖が回った。杖からぶら下がった小瓶がぶつかって音を立てる。
 シンクが身構えるよりも速く、杖がシンクの足元に突きを放つ。

 おぎゃあ。

 鴉が啼いた。


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