拝み屋『悠々自適』(04)



 シンクの足元で、ぎょろりと鴉の目がシンクを見る。鴉の小さな頭蓋骨には紅茶色をした少女の目が埋まっていた。
 咄嗟に飛びのいたシンクの足がぐにゃりと柔らかな床に沈み込む。途端にシンクは後悔したが、その頃には既にシンクの身体は傾いていた。
 杖を掴んでいた筈のマリの手がシンクに伸ばされるが、白手袋のされた手の平が宙を空ぶる。
 ぞぶりと、シンクの身体が闇に沈んだ。

 転びかけた身体を庇おうと咄嗟に地面に手が伸びる。闇に沈んだ筈のシンクの身体は、同じ闇の中で普通に尻もちをついた。
 呆気にとられたところで目の前に居た筈のマリが居ないことに気付く。はぐれてしまったのだろう。
 マリを呼ぼうと開きかけた口は、しかし音を発することなく閉じられた。

 果たしてこの闇の中でマリを呼んでよいものか、シンクには判断がつかなかった。
 それはマリという先導者が居ない中で声を張り上げて居場所を主張しても安全が確保されるか解らないという意味であり、同時に自分が人間かどうか問うてきたマリに対する警戒でもあった。
 
 恐る恐る立ち上がる。本当に床があるのかすら、何も見えないシンクにとっては不確かだ。
 少なくともシンクはブーツ越しに硬い床の感触を感じている。しかしそれが本当に床なのか、はたまた骨なのか、あるいはガラスの上なのか。シンクには解らない。
 夜目は全く役に立たず、一面の暗闇のせいで自分の指すら見ることが出来ない。シンクの胸中に不安が広がる。
 このまま自分は闇に溶けてしまうのではないか、などと。一瞬だけ浮かび上がったマイナス思考を頭を振ることで追い払う。

 シンクは長く息を吸い、そして吐いた。小さな深呼吸をして冷静になれと自分に言い聞かせる。
 現状を把握し、打開策を模索しろと自分に言い聞かせる。自己暗示にも似たそれは、神託の盾で幾度となく繰り返してきたお陰であっさりと脳に浸透する。

「戻る道はある」

 自分に言い聞かせるようにシンクは声に出して宣言する。
 なら自分は戻れる。戻れるならば、次に探すべきは戻るための道を探すこと。
 やるべきことを明確にしたことでシンクの焦りはゆっくりと鳴りを潜めていく。
 冷静さを取り戻したところで、早速一歩踏み出そうとしたシンクは自分の身体がぴくりとも動かないことに気付いた。

 なんで。
 鳴りを潜めた筈の焦りがまた顔を出す。歯噛みする。身体を動かそうと腕に力を込めても、指一本動かない。
 固定された視界の中、上からゆっくりと何かが降りて来る。闇に溶けることのない、黒い何かだった。唯一動かせる眼球で限界まで上を見上げれば、それが人の髪だと解った。
 それは脂ぎった汚い髪だった。何日も洗っていないとすぐにわかるほどべたついていて、理解した途端に不快な匂いが鼻を衝く。
 酷く緩慢な速度で、髪はゆっくりとシンクの視界を覆っていく。段々と頭が降りてきているのだと見ずとも解る。それを見るなと警告するようにシンクの心臓が早鐘を打っていた。

 身体が動かせない。
 シンクは浅く速い呼吸を繰り返しながら、今にも爆発しそうな心臓を抱えてただ立っていることしかできなかった。
 じわりじわりと視界を覆いつくしていく長い黒髪は、先ほど見た鴉の羽のようにぬらりと黒い。

 ひたりとシンクの首筋に何かが触れる。氷のような冷たさに肌がぷつぷつと粟立つ。
 詰襟の隙間に入り込むそれがまるで素肌をなめくじが這っているようで、余りの気持ち悪さにシンクは吐き気を覚えた。
 段々と黒に覆われていく視界。首筋に触れている何かがゆっくりと前に動くことでそれが人の指だと解ったが、それがなんだというのか。
 後頭部にあたる柔らかく冷たい肉。ひたりと背中に触れ、震えるシンクを慰撫するように背中から抱きしめられる。
 ただ息を吸って、吐く。今のシンクにとって、それだけのことがたまらなく困難だ。

 視界を完全に覆った黒に白が混じる。それは生白い女の額だった。そこで女が上から自分の顔を覗き込んでいるのだと気付いた。
 シンクの口はひっきりなしに荒く浅い呼吸が繰り返され、腕が絡みついた首が痙攣する。

 眉が見え始める。この世の全ての悲しみを背負っているといわんばかりに下がった眉尻が見えた。
 目が見えた。絶え間なくねっとりとした涙をほたほたと溢れさせるそこは、目というよりも顔の切れ目に見えた。
 血の気のない鼻梁。こけて粉の吹いた頬。紫がかった唇はかさついていて、その奥にある筈の舌は見えずただ空洞がある。
 中途半端に人の形をしている人の姿をした化け物は、愛おしいと言わんばかりにシンクを抱擁する。

「ぼうや」

 べたりと頭に張り付くような声の空恐ろしさに、今度こそシンクは嘔吐した。
 先程まで指一本動かせなかったことが嘘のように身体を折り曲げてせり上がってくるものを全てぶちまける。
 否。それは黒い何かだった。反射的に口元を覆った指先の隙間を抜けてびちゃびちゃと床に広がっていく。

 とろりとしていて、味はない。むしろ水に近い。けれど舌に絡みつくのが気持ち悪い。
 嘔吐反射に痙攣する胃を片手で押さえながら、生理的に溢れた涙が目尻を伝って頬を滑る。
 はぁはぁと肩で息をしながらしゃがみこむシンクを包み込むように、背後の女は覆いかぶさってくる。

 乱暴に口元を拭ったシンクは衝動のままに振り返り、女に殴りかかろうとした。
 女の正体とか、自分が何を吐いたとか、そんなことは知ろうとも思わなかった。
 ただただ気持ち悪い。その衝動に突き動かされて、シンクは生白い女の腹を殴ろうと振り返り。

「わたしの」

 奇妙にたわみ歪んだ声と共に目に入ったのは、ぽっかりと空いた女の胎。
 乱暴に引きちぎったように女の腹は抉れ、そこには何もなかった。垂れた乳房の下、空洞だけがある。
 内蔵も。血管も。骨もない。端から垂れた血が、女の腰に巻かれた布をべっとりと濡らしている。

「かわいいこ」

 ひぐ、とシンクの喉がひきつる。振り上げた筈の拳は届くことなくその場に固まる。
 骨と皮しかない腕が伸ばされて、再度シンクを抱きしめようと広げられる。女の背で羽が広がり、茶色の羽根が飛び散った。
 あの胎に還れば、きっとそこには安寧がある。そんな直感がシンクの抵抗をそぎ落とす。
 そんなシンクを慈しむように、女はシンクを胎に収めようとして。

 チリン、と音がした。
 チリン。チリン。チリン。チリン。チャリン。

 投げられた銅貨が転がる。シンクを抱きしめようとしていた女の腕がぴたりと止まった。
 ロォン、と軽やかな音がシンクの耳に届いた。眼前に掲げられたカンテラがシンクの視界を覆う。
 カンテラを持つ白手袋の先を視線だけでたどれば、そこにはシンクを見るアイスブルーの瞳。

「ま、り」
「飴屋はあっちだよ」

 シンクの声に、マリは答えない。
 シンクが嘔吐していることも、その声が震えていることも、頬を滑る涙も、まるで見えていないようにその態度は変わらない。
 ただ女へと視線を移し、暢気な声と共に杖で闇を指す。

「ほら、泣いてる」

 マリの声に呼応するように、おぎゃあとどこかで赤子が泣く。
 しばしマリと女は相対していたが、やがて腹に穴を開けた女はマリの言葉に酷くゆっくりとした動作で銅貨を拾い集めると、そのまま杖の差す方向へ消えていった。

 途端にシンクの足から力が抜けた。
 情けなくもその場に座り込んだシンクの横で、マリはカンテラを掲げて立っていた。
 周囲を警戒するようにぐるりと見渡した後、カンテラを杖の先に引っ掛けてシンクの隣にしゃがみこむ。
 そして未だ浅い呼吸を繰り返すシンクに、ローブの下から水筒を取り出して差し出してきた。

「どうぞ」

 シンクは無言でそれを受け取ると、蓋を外して中身を煽る。
 ただの水かと思ったそれは、はたして舌が馬鹿になるのかと思う程にまずかった。

 途端にまたせり上がってきた吐き気に、咄嗟に横を向いて腹の中のものを全て吐き戻していく。
 びちゃりと床に広がるそれは先ほどよりも粘度の高い黒い液体だ。喉にへばりつくせいで余計に咳き込む羽目になっている。
 四つん這いになって大量の黒い水を吐くシンクを、マリは黙って見つめていた。

「なっ、にを……飲ませた……っ!」
「それがクソ不味いってことは師団長の中に澱みが溜まってる証拠です。吐けるだけ吐いて下さい。もう吐くものがないなら全部飲んでいいですよ」

 殺意が滲んでいそうなシンクの問いに、マリは同情も憐みも乗せない声でそう告げてもう一度水を飲むように言う。
 シンクは自分の胃が痙攣しているのを感じながら、しかし同時に確かに体が軽くなっているのに気付いて嫌々水筒を煽った。
 さっきは舌が馬鹿になるかと思うほどまずかったのに、今度はただの水としてシンクの舌の上を滑る。
 喉を通り抜けていく清涼感と冷たさに僅かに驚きながらも、シンクは何度も喉を上下させた。

「は……っ」

 水筒から口を放す頃にはシンクの身体は随分と軽くなっていた。
 自覚こそなかったが、あの胎のない女に相対していた時の身体の重だるさはさっぱりと消えていた。
 心に余裕が出来たのだろう。べたりと肌に張り付く手袋に気付き、それが途端に気持ち悪くなって水筒を床に置いて乱暴に手袋を外す。
 それでもなおべたつく掌はマリが水筒の残りの水で洗い流した。

「落ち着きました?」
「なんとかね」

 ふう、と息を吐いてシンクは詰襟を緩めた。まだ首筋にあの冷たい指先の感触が残っている気がしたのだ。
 実際に自分の手で首に触れてみるが、そこには何もない。当然だろう。あの女は闇の中に消えていったのだから。

「……あれは」
「うん?」
「僕に、何をしようとした」
「お腹の中に戻したかったんでしょう。師団長は小さいから」
「……お前の方がチビだろ」

 マリの物言いが癪に触って、以前と同じ悪態をつきながらシンクは立ち上がる。
 それを見たマリもまた立ち上がると、杖に引っ掛けていたカンテラを手に取った。
 カンテラを目線の高さに掲げ、マリは闇の中へと視線をやる。その視線は相も変わらず何かを探すようにせわしなく動いている。

「で、まだここに居なきゃいけないわけ? もう出たいんだけど」
「いえ、そろそろ見つかりそうです。あれが飴屋に向かったのでだいぶ見やすくなりました」
「飴屋って何」
「知りません。私も師匠に教わった対処法を知ってるだけですから。でもそれでいいんだって聞いてます。それが何か知ることは理解を深めることで、理解を深めるということはそれに近づくということで、近づくということは人という存在から遠ざかることだそうです。だから知らない方が良いんですって」
「ふうん」

 解るようで解らないマリの説明に、シンクはそっけない声で相槌を打つ。
 しばしマリはカンテラを片手にシンクの周りをうろついていたが、やがて何かを発見したようにあっと声を上げた。

「ありましたよ」

 若干弾んだ声でそう告げたマリは、シンクの手を掴んでそのまま歩き出す。
 手袋のなくなったシンクの掌と白手袋のされたマリの掌は当然のように繋がれた。生きている人間の温もりが、シンクの掌を包む。
 シンクは手を引かれるがままに歩きながら何も見えない闇夜を見る。
 時折鳥が羽ばたく音が聞こえる以外、シンクにとってその闇は相も変わらず何も見通せないままだ。

「ああ、あれです。見えますか?」
「全然」

 カンテラを持つ手が闇を指差すが、やはりシンクの目には何も映らない。
 シンクの返答にマリはそうですかと頷いて高々とカンテラを掲げる。

「それじゃあ、お掃除しましょうか」

 そう言ってマリは一つ、カンテラを揺らした。途端にロォン──と音が闇の中に響き渡る。
 そこでシンクはようやく今まで自分が聞いていたあの音が、あのカンテラから発せられていたものだと気付いた。
 まるでカンテラではなく鐘のような……と、そこまで考えてそもそもあれがまともなカンテラであるとは限らないなとシンクは思い至る。

 シンクは今自分の常識がまるで通じない場所にいるのだ。それも理解してはいけない類の。
 そこに当然のように足を踏み入れるマリもまた、同じように理解の範疇を越えたものであってもおかしくはない。
 そう思ったシンクは考えるのをやめる。そういうものだと受け入れてしまうのが一番楽だった。
 それは人を思考放棄というが、この場では正解だろう。

 カツン、とマリがヒールを鳴らす。
 闇が蠢いた。揺れて、ゆらめき、歪み、たわむ。
 ぐらりと世界が傾く。
 シンクがたたらを踏めば、そこはもう教団の部屋だった。

「は……?」
「はい、お掃除終了です」

 繋いでいた手がほどけてマリがカンテラの火を消す。
 シンクはしばし呆けていたものの、とっくに思考放棄していたこともあって今マリが何をしたのか問いただそうという気力すら残っていなかった。
 この部屋に入るまではそれが目的だった筈だが、散々体験した非常識な現象がそれが無意味であることを物語っている。

「はァーー……」

 代わりに深々とため息をついて、シンクは乱暴に自分の髪をかき混ぜる。
 ひとまず清掃が自分達でできるものではないということは解った。それを理解できただけで充分だろうと、シンクは考えることをやめた。
 世の中知らない方が良いことがあることは、シンクはよく知っていたから。


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