少年Kの想い出




おそらく、初恋だったんだと思う。

『大丈夫、ちゃんと舞がふもとまで連れて行ってあげるから。だから、もうここへ来ようとしちゃ駄目だよ』

取り巻きたちと遊んでいた近所の山の奥深くに、時折少女の幽霊が現れるだとか。気付けば鳥居の前にいただとか。そんな、不可思議な噂を耳にしたことがあった。
大人達はこぞって『あそこは危ないから行っちゃ駄目よ』と言う。なんでも霧が深くて道に迷う人間が沢山いたせいで、中腹にある広場より上は立ち入り禁止になったらしい。危ないならそもそも山ごと封鎖しろよとも思うのだが、人通りが途絶えて久しいはずの頂上への山道は、それなりに整備されていた。子供心に疑問に思い、お供を引き連れて探検に向かったのが昼過ぎ頃。デクは絶対に反対するので、置いてきてやった。親の言いつけなんて関係なかった。皆が怯える幽霊なんてものが実際にはいないことを証明してやろう、と意気込んでいたのだ。

『かつきぃ、これ以上は怒られるからやめとこうぜ…お、俺はもう進まないからな!』
『だっせー! 怖えのかよ! 俺は一人でも行くから勝手にしろ!』

ぐずる連れ共を放置して一人でずんずん進んでいくと、いつの間にか視界が白一色になって、後にも先にも進めなくなっていた。帰る方向さえも見失ってしまったのだ。己の足跡を辿ろうにも、日が暮れたのか突如暗くなった世界の中ではどうにもならなくて。

『…まいご?』
『ーーーっ!?』
『おばけじゃないよ、にんげんだよ。だから、怖くないよ。大丈夫、大丈夫』

靄が立ち込める山の中で必死に泣くのを我慢していた俺に、不意に差し伸べられた白い掌。ゆっくりと目を上げていくと下駄が見え、着物の裾が見え、そして仄かに赤く光る提灯が見えた。
足があるから、幽霊じゃない。おばけの可能性は残っていたけど、勇気を振り絞って顔を上げた。
そこにあったのは、提灯の光にぼんやりと照らされた、線の細い少女の姿。ひらひらと頭の上から舞う桜の花びらは少女の幻想的な雰囲気を一層掻き立てていて。それだけとれば、幽霊だと間違えられてもおかしくない容姿をしていた。それこそ桜の花びらが風に攫われるように、簡単に掻き消えてしまいそうな。
でも、よくよく見れば芯の強そうな瞳が、この少女がれっきとした“人間 ”であることを証明していた。こんな暖かい目をしてるやつが、死んだ人間のはずがない。
恐る恐る握り返した小さな掌はとても暖かくて、心強くて。
うっかりぽろりと零れ落ちた一雫を指先で掬い、あろうことか舐めやがったあいつは、『しょっぱい』と一言伝えて驚いたように目を丸くしたのだった。

『勝己……!!! この、バカ息子! どれだけ心配したと思ってるの!』

スパァンといい音を立てて叩かれた頭の痛みに、噛み付くよりも先に涙が零れそうになった。押し隠すようにぎゃんぎゃん噛み付けば、クソババアも目元をぐしゃぐしゃにしながら怒っていた。

『神隠しでも、されたのかと…』

ぎろりと周りから睨まれた発言者は慌てて口を抑えていたが、悪気はなかったらしい。詳しくは知らないが見覚えがあるので、ご近所さんのうちの一人だったのだろう。
捜索に駆り出されていた人間達の中には、デクやおばさんもいた。こっちを見てほっとするデクはカンに触ったが、そこまで沢山の人間に心配をかけたのだということも理解した。
ふと見上げれば、先程の闇夜はなんだったのかと疑問に思うほど綺麗な橙色が空いっぱいに広がっていた。聞けば、まだ時刻は夕暮れ時。狐につままれるとはこのことかと、自身の理解の範疇を超える出来事にまた苛ついた。

『あんた、どうやって帰ってきたの』
『……』

言えなかった。あいつと、約束したから。『舞と会ったことは二人だけの秘密にしてね』と、あの靄の中から抜け出す直前に、指切りをしたから。ふわっと微笑んだその笑顔に、目と心を奪われた。芽生えた淡い気持ちがなんなのか、その時は分からなかった。
下の名前しか分からない、不思議な少女。もう顔の造形も声も朧げだが、もし会えることがあれば。
今度は俺が守ろうと、あの日誓ったんだ。

ーーーそんな相手とまさか天下の雄英高校で再会することになるなんて、一体誰が想像出来ただろう。

「…、ンでお前までいるんだよ…ッ!!!!!」
「………? ………あ……いつぞやの迷子の………かつきさん?」
「迷子じゃねぇ!!!!!」

一目見て分かった。相変わらずひらひらと頭上から舞う花びらは、個性故なんだろう。頑固そうな、温もりを感じる瞳。証拠なんて、それだけで十分だ。
こいつ同い年だったんかとか、こんなに小さかったんかとか、なんで初日から遅刻してんだとか、言いたいこと聞きたいことは山程ある。ぐるぐると喉元で留まったそれらが鬱陶しい。
更に、もう一つ。なんでこの俺が周りに気を遣ってやらなければいけないのかとも思うのだが。

「…おい、お前。あそこにいたこと、内緒じゃなかったんか」
「あっ」

ぽやっとした顔に少々の焦りを滲ませた舞に。俺は朝から、どっと疲れを覚える羽目になるのだった。

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