音に聞く




かこん、かこん。
鹿威しが船を漕ぐ。ちょろちょろと流れる清水は、池に波紋を広げている。
ゆらゆら、ゆらゆら。
真ん丸のお月様が、水面にあわせて輪郭を揺らす。上と下に鏡合わせに一つずつ、静謐な光の鱗粉を撒きながら。

「…さっきまで夕方だったよね…?」
「……なんだ、ここ」

常人は目を疑うことだろう。数瞬前まで燦々と地表を焼いていた陽の光が、急に闇に飲まれたら。
しかしここは、『夜桜』の造り出した空間。私達一族が奉る姫神様の神域。
常識では計り知れない光景に、緑のもさもさくんが譫言のような言葉を紡いだ。ぽかんと僅かに口を開けて放心していたツートーンカラーくんは、すぐ様立ち直るときょろきょろ辺りを見渡している。
そしてわたしの隣に立つ勝己くんは、突っかかることもなく絶句していた。他の皆も、ただただ言葉もなく立ち尽くすばかり。流石に全員は来れなかったけれど、かなりの大所帯だ。

「ようこそおいでくださいました」

桜花混じりの風に攫われ霞のように溶けて消えた制服の代わりに、気付けば身に纏っていた巫女服。なんということもない日課の早着替えを終え、袂を整える。
聖域内の私は雄英の生徒でもなんでもなく、『夜桜の巫女』であることが優先される。その他の肩書きを含む有象無象は、ばっさり切り捨てられる。一歩ここを出ればそれらの権利や物品はちゃんと返してくれるので、特に問題はない。
真白の袖をさばき、きっちり三秒腰を折る。お客人に対する礼儀は忘れずに。背筋は伸ばしたまま、しかし居丈高にはならぬよう、場の空気に徹する。
彼らは姫神様に迎え入れられたのだから。

行きは宵々帰りは怖い。
まことしやかに語り継がれる嘘のような本当の噂は数知れず。
まともな人間には辿り着けないとされる、死者の國。
『夜桜神社』の境内は、とこしえの闇に包まれていた。
ざわざわと、無風のなかで桜の枝葉が擦れる音がする。

「ここが、夜桜ーーー」

幼いあの日、辿り着けずに文字通り煙に巻かれていた勝己くん。
彼の瞳は、意外なほど穏やかに凪いでいた。





全ての種目を終えたあと、私はもさもさくんと張るレベルにどうにもならない記録を叩き出していた。辛くもワースト二位だ。ぶっちぎりワースト一位になるかと思っていたので、胸を撫で下ろす。
イレイザー…相澤先生は片手で顔を覆い、惨憺たる結果を噛み締めている。…居た堪れない。

「なんッで豪速球で飛んできた玉を完全に静止させて更に真逆へ飛ばす方が、記録がいんだよ」
「……そういう仕様だから…」

何事か察したらしい勝己くんが、私のボール投げの記録が決まった直後に、地面に描かれた扇形の途切れ目辺りから爆発仕込みの豪速球を投げてきたのだ。それも、なんの相談もなしに。殺気抜きに。
…今思えば、よく反応できたなと思う。反射行動をとらせた自分の脊髄を褒め讃えたい。本日のMVP器官賞受賞だ。脳まで「やばい」という信号が伝わるのを待っていては、回避行動が間に合わなかっただろう。
咄嗟に『夜桜』の個性で前方に桜混じりの風を展開し身を守りーーー正当防衛の場合は使うのも致し方なしとされているーーー球を弾き飛ばした結果、それは無限とはいかないまでも勝己くんたちの記録を大きく更新する地点まで飛んでいった。
キラーン、というエフェクトが聞こえるのはきっと空耳にちがいない。そう信じたい。

「「は…?」」
「チッ、やっぱ対応出来んじゃねぇか。なんで使わんかった」
「普段は禁止されているものだから…」

ああ、怖かった。ほっと胸を撫で下ろす私に、「いやいやいや」と皆が全力で手や首を横に振っている。示し合わせたようなその仕草。はて、そういえばそんなお笑い番組を在りし日の父が見ていたような…?
とはいえ、コントにのっかるノリツッコミの技能は残念ながら持ち合わせていない。

「力不足で…及ばずすみません」
「えっどこが!?何のこと?! んんんん、というかなんで…」
「舞ちゃんってもしかしなくても天然……?」

困って眉を下げたまま黙りこくっていると、数十秒前からぶつぶつと念仏を唱え続けていたもさもさくんが、眉を寄せつつ視線を投げてよこした。その瞳に写るのは、純粋な知的好奇心。そして、私に対するーーー心配。

「禁止されてるって言ってたけど…なにか事情があるんだよね?」

確信を持って紡がれた言葉に、誰が否定を返せようか。ぐぅと言葉に詰まると、「あっ言えないこともあるよね!ごめん!」と慌てて胸の前で手を振るもさもさくん。だが、もう遅い。
興味半分心配半分のクラスメイト達に誤魔化しきることは、後々重大な弊害を招く気がした。嘘でなくても、言える範囲で。この人達は、きっとちゃんとヒーローとして大成してくれるから。
そうでなくとも、きっと将来的に、分かり合えると信じたくて。

「……知りたい…?」
「ええと…その………。、うん。聞いてもいいことなら」

ちらりと、先生に目線をやる。頷かれた。学校側の許可が出るなら、大丈夫だろう。脳内で語りかけるように、神社の主神に問いかけた。

『クラスメイトが遊びに来たいと言っていますが、大丈夫でしょうか』

中学までは絶対に言えなかった、その言葉。原則トップヒーローにならないと、うちの境内の土を踏むことさえ出来ないから。機密中の機密なのだ、我が家は。
少々擽ったいような、ほわりと温まるような何かを胸の内に感じて不思議に思いながら、神様からの託宣を待つ。意外なことに、喜色に溢れたお言葉が返ってきた。私より余程愉しげだ。解せない。

「とりあえず…放課後、来る…?」

よろしければ、皆さんで。
大しておもてなしも出来ませんが。

姫神様はなんだかんだ、私に甘い。即答とは思わなかった。暇神かな?
軽すぎやしないかと、逆に私が狼狽してしまうではないですか。

「「行く!!!」」

どうも皆さんお揃いでいらっしゃるようで、とても大きくはきはきしたお返事を頂いた。お茶菓子が足りない。帰りにお店に寄って帰るしかないか…。お煎餅、まだあったかな?

「おい、吉野。お前は特に寄り道厳禁だからな」

分かってんだろうなの圧がすごい。流石イレ…相澤先生、エスパーですね。分かりません。
そっと目を逸らして口笛を吹こうとして、失敗。唇からはただの空気しか出なかった。残念。

「放課後、首洗って待っとけや」

勝己くんの堂に入った恫喝?恐喝?が耳に届く。ちょいと見上げて視線を合わせると、眦が鋭角につり上がっていた。普通に怖い。

「逃げも隠れもしませんよ」

今度こそ、ね。
ふわりと笑んでみせれば、梅干しを百個一気に噛み潰したようなしょっぱい顔をされる。解せない。
私のなかのお仕事スイッチが入ったのに気付いたのか、皆の目が丸くなった。「普段サボり気味の表情筋を動かせばこんなに可愛いのに…」とは母の言。でも残念、私は省エネしたいので巫女として働く時以外はあまり頑張らないことにしている。…というか、基本的にお仕事中を除き会話の相手がいないので表情も何もないのだ。事情を話すことも出来ず、踏み込んだ会話も出来ないので友達もいない。小中と、我ながら寂しい人生を送ってきたと思う。
逆に姫神様の了承さえあれば、ある程度話すことは出来るのだ。しかし、どこからどこまで説明すれば満足してもらえるのか…。

「いいか、全部。全部だ。下手に隠そうとすれば、その時点で爆破する」
「隠さなくても爆破されそうなんですけど…」
「ンなもん知るか」

暴君かな? うん、暴君だな。どうせ明日の演習でも爆破されるんだろうな。そんな気がする。
別に言うのは構わないんだけど、正義感溢れる彼らのことだから憤りそうなんだよね…。

「…一つだけ、先に約束してください。これが守れないのであれば、私は今すぐこの場から雲隠れします。二度と学校にも来ません」
「え!?」

ドロン、と忍者みたいに消えることは出来なくても、風を操ればなんとか…生徒から逃げ切るくらいは出来るかと。イレ…相澤先生は多分、私のことを止めない。元々私がここにいることに関しても、賛成とも反対とも言っていなかったし。

「逃がすかよ」
「なら、約束してくださいね?」

腕を掴まれても、案外容易く逃げられる。個性さえ上手く使えれば。
ギリギリと力を込められて痛いけれど…これは痣になりそう。でも心配してくれるのは素直に嬉しいから、出来ることなら私も真摯に応えたい。視線は、逸らさない。

「何を知っても、夜桜を潰そうだとか、根絶やしにしようとか…、そこから私を救い出そうとか、絶対に思わないで」

それさえ守って貰えたら、私は…いえ、私達夜桜一族は、喜んで未来のヒーロー達にちょっとした『秘密』をお伝えしましょう。
にっこりと、満面の笑みを浮かべる。これ以上は踏み込まないし、彼らにも踏み込ませない。私の拒絶が分かったのか、クラスメイトは少なからず戸惑いを見せた。…いや、一人、二人は…別みたい。勝己くんと、ツートーンカラーの男の子。
後者はきっと、他人に興味が薄いんだろう。私達が煩くしていても、特に意識を向けることはなかった。夜桜神社という言葉にだけは、反応していたみたいだけれど。
彼の特徴的な容姿には、覚えがあった。逃げた方が良いのか、悩ましいところだ。一応これからクラスメイトになる訳だし。

「ンなときばっかりぺらぺらぺらぺら喋りやがって…」
「…ごめん、なさい」

はっと気付いて視線を戻せば、瞳の奥でゆらゆら揺れる、赤い炎。隠すのが上手いけど、彼も動揺していたみたい。
それでも、巻き込めない。私が巻き込ませない。

「吉野、グラウンドの整備しとけ。お前が無茶苦茶したからとんでもないことになってるぞ」
「…はい」
「チッ」

するりと掴まれた掌から抜け出し、グラウンドの片隅にある用具箱へ向かった。
先生の助け舟に、ありがたく乗っかる。一人でするのは大変だけど、クラスメイトを頼りきれない私には良い罰だろう。
…折角念願叶って雄英に通っているのに、私はやっぱり変われないみたいだ。

その後もさもさくんに勝己くんが突っかかるなどのハプニングはあったものの、それなりに平穏な時間が過ぎていった。
そういえば、もさもさくんは緑谷くんというらしい。これから仲良くなれるだろうか。…勘が鋭そうだけど、こっそり夜桜の個性で指の痛みを和らげたのがバレないといいな。本当なら使ってはいけないものだから。
ちょっとしたことなら、お目こぼしされているだけなのだ。今後はもう少し慎重になるべきかもしれない。

「儘ならないなぁ…」

地面を整備しながら、独りごつ。見上げる空は綺麗な青色に染まっているのに、私の心の中はどこまでも灰色でもやもやしたままだった。
勝己くんとも、彼とも再会出来たのに。平らに均した地面の分、心がささくれだっていく。単純作業をしていてこれとは、宜しくない。

せめて、放課後は落ち着いて話し合いが出来ますように。
くるりとひとひらの花弁が風に舞い、地に落ちた。

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