三話




私の父は、随分気が弱い人だった。

「寄り道はしちゃいけませんって言ってるでしょ!」
「うるっさいなー」
「まぁまぁ、お母さん。なまえちゃんももう中学生なんだから、ね?」

お母さんにぎゃんぎゃん怒られても右から左へ聞き流していたあの頃。友達とつまらないことをだらだら話しているのが楽しくて、箸が転がるだけでとはよく言ったものだと思う。叱られても反省しない私と、怒り心頭な母。その口論をなにかと宥めて収めてくれるのが、父だった。母に噛みつかれればおろおろと狼狽えて頼りない所はあったけれど、私にとっては優しくてとても良いお父さんだった。
そんな生活が一変したのは、父が強引な会社の上司たちの飲み会を断りきれず、仕方なしに顔を出したとある日のこと。

「…どうしたの、それ」

朝とは打って変わってぼろぼろのスーツで帰ってきたお父さんは、いつものように眉を下げて「ただいま」と言って笑った。肉体労働をする会社でもないから、たった一日で土埃まみれになるなんて常だったら有り得ない。普段は勝気なお母さんも、その時ばかりは真っ青になって口を抑えていた。
なんでも上司たちが悪酔いして、誰の個性が一番強いかを競うことになったらしい。良い大人が、幼稚園児か。
しかし元々ヒーローを目指していたとかいう上司は厄介なことにそこそこ個性も強力で。近くにいたヒーローが出動する騒ぎにまで発展したらしい。
一滴もお酒を飲まず、また公共の場で個性を使うなんていう法律破りを犯すはずがないお父さんは、ただただその場にいただけの人間だった。
そう、たったそれだけだったんだ。

「ヒーローは凄いねぇ、あっという間に皆氷漬けにされちゃって…報道の人とかも沢山来てたよ。肝心のヒーローはすぐ帰っちゃったけど」

眉を下げてそうのたまったお父さんに、私とお母さんは抱きついてわんわん泣いた。無事でいてくれたことにほっとして、感情が爆発してしまったのだ。お父さんは驚いたようだったけれど、「怖がらせてごめんね」と私達の頭を優しく撫でてくれた。

「大丈夫だよ、ヒーローが助けてくれたから」

プロヒーロー、ショート。その頃はまだサイドキックになったばかりの新米だったようだけど、それでも話題性には事欠かず世間は彼のことを追い求め続けた。テレビでも新聞でもネットでも彼のことを見ない日は無いくらい、それはもう、熱心に。

「これ、あんたの父親だよね?」

ショートに迷惑かけてんじゃねぇよ。
翌朝。熱心なショートファンだというクラスメイトに、登校してすぐジュースをかけられた。しゅわしゅわと、気泡が弾ける音が程近くで聞こえた。何が起こったか分からない私の前で、彼女のスマホに映る動画が流れていく。
ショートの登場とあって、一般人が撮った動画がネットに流れていたらしい。呆然とそれを眺めていると、ひどく怯えた様子の父が暴れる上司を目の前に震えている姿を見つけた。きっと、お前も個性を使えとでも言われていたのだろう。それでも、父は使わなかった。怖かったろうに、屈しなかった。それなのに。

「ショートの手を煩わせるとかほんと最悪」
「ちがっ、お父さんはその場に居ただけで何もしてない! これだって、映ってるだけで個性なんて使ってないじゃない」
「そんなこと、信じられると思う?」

冷たく鋭利な声音に、ぞっとした。本当に同じ日本語を喋っているのかと疑わしく思った。こじつけにも程がある。お父さんがもし本当に個性を使っていたとしたら、家に帰ってくることは出来なかったはずだ。でも、ちゃんと帰ってきた。それが何より無実の証明になっていた。
けれど、彼女達にはそんなこと関係ない。テレビに映ったことが全て。ネットで騒がれていることが、真実なのだ。

「犯罪者の娘と同じ教室とか、キモくない?」

その言葉は易々と私の胸の柔らかい部分に突き刺さった。しかし彼女の発言は認められない。お父さんを貶めるようなこと、決して言われる筋合いはない。
乾いた音と共に、手のひらが熱くなる。目の前の女子が頬に手を当てて、呆然とこちらを見つめてきた。

「この…っ!」

そこから先は、あまり覚えていない。喧嘩をふっかけたのは向こうだとはいえ、先に手を出したのは私だということで先生は両者に反省文を書かせた。そこからは、まさに地獄だった。
典型的で陰湿ないじめ。それは学校内に留まらず、件の女子にネットで拡散されたせいで家にも被害が及んだ。
熱心なショートのファンが、彼の為だという名目で家に卵を投げる。ゴミを置き去りにする。消えない落書きをする。空き缶を投げ入れる。我が家は一気に荒れ、専業主婦でずっと家にいる母は憔悴していった。私は受験生だったので、すぐに引っ越すことはなかったが。それでも家族会議で遠方の高校を受けることに決め、家族三人で他県の程よい田舎に移り住んだ。
緑に溢れた土地で、再起を図ろうと。母も前向きに、やつれた顔になんとか笑みを浮かべていた。
それなのに。

「ヒーローショートの特番…?」

瞬く間にメジャーになった人気若手ヒーローのショートがこれまでに解決してきた事件を追う! なんて陳腐なキャッチフレーズ。しかしそれは我が家を再び絶望のどん底へ突き落とすのには、十分すぎた。

「昨日テレビに映ってたの、旦那さんですよね…?」

回覧板を回してきた、近所の奥さん。咎めるようなその目付きで、何が起こったかを一瞬で把握した。真っ青になって動けなくなった母に代わって事情を説明しても、「へぇ、そう」のたった二言。たっぷりの疑心を含んだ視線で、説明は無意味であると悟った。
その後何度引越しを繰り返し、何度転校しても、結果は同じだった。
最後に都心のど真ん中の小さなアパートに越してきたとき、私はこの生活の終わりを悟った。
青い顔の父は、痩けた頬に笑みを浮かべ、眉を下げて。私達二人に向かって、「ごめんね」と言った。
その必要は無いのに。無かったはずなのに。部屋の隅に用意された七輪と、コードが引っこ抜かれたテレビ。さめざめと泣くお母さん。私達家族の身体中に残る、沢山の傷跡。

もう、沢山だと思った。


次に目を開いた時、私は白い部屋の中で一人ベッドに寝かされていた。様子を見に来たらしい白衣の天使が、まるで悪魔に見えた。ほっとしたらしいその女性は、ひどく痛ましいものを見る目で私を見つめていた。同情。哀れみ。何故、そんなものが私に向けられる。

「とても、残念なんだけれどーー」

そのたった一言で、私は両親に置いていかれたことを理解した。

「貴方のことはね、ヒーローが助けてくれたのよ」

絶望で視界が暗くなり、ちかちかと脳内で星が弾ける。なんでこんな時にまで、ヒーローが邪魔をするのか。救ってほしいだなんて、頼んでなかったのに。助けて欲しかった時に、私達家族を助けてくれなかったのに。

「ショートって、知ってるでしょ?」

意識不明の私を抱えて炎の中から颯爽と救い出してくれたとか。そんなこと、どうでもよかった。その名前を聞いた瞬間に、私は躊躇いもなく自分の舌を噛んでいた。
看護師の悲鳴と、けたたましいコール音。バタバタと駆けてくる誰かの足音。遠ざかる意識の中、頼むから親の元へ逝かせてくれとそれだけを切に願った。

再び死に損なった私は、両親の死に目にも会えず、葬式にも出られなかった。また自殺を企てられたらたまらないということらしい。両親の死を知らされたショックで自殺を図ったと勘違いされたことに、堪らない嫌悪感を覚えた。

「貴方はこれから施設に入ることになるのよ」

身寄りのない子供が集うそこは、入居者の殆どが年下だった。面倒を見るのは高三までだと言われ、あと二年ほどで出ていく必要があるのだと理解した。それまでに、なるべく稼いで生活費を貯めておかねばならない。年長組は家事や下の子の世話にも駆り出されるので、思いの外慌ただしく一人になる時間は少なかった。
幸い童顔ではなかったので、年齢を誤魔化して適当なバイトで稼ぐことは可能だった。施設の子供達にも様々な事情があり、ヒーロー談義をすることも少ない。テレビも電気代の節約であまり付かない。それが救いだった。

緩やかに一年が経ち、未だ癒えずに膿のようにぐずぐずに痛む傷を抱えながら、私は最年長として年下の面倒を見続けた。学校に行っているとどうしてもバイトが夜勤になるので、買い物は深夜にしか出来ない。帰ってからすぐ翌日のご飯を作り、散らかった共有スペースを片付けて、自身の課題に取り組む。両親の遺産は繰り返される引越しのせいですっからかんだったが、それでも学業保険が残っていたことに胸が痛んだ。親の無念を、心残りを、目の当たりにした気がした。
大学に通う費用が、無いわけじゃない。無理をして生活を切り詰めていけば、なんとかなるかもしれない。それでもそこまで頑張って生きるための気力は、あの日両親の身体と共に燃えて無くなってしまったのだと思う。私には希望というものが無かった。

その日も、私はバイトを終えたその足で夜遅くまでやっているスーパーへ駆け込んだ。歴戦の猛者である主婦たちの目によって、選りすぐりの野菜達は粗方狩り尽くされてしまっている。それでも余り物の中から良いものを見付けるのは、得意になった方だと思う。元年長組だった先輩が、熱心に教えてくれたから。孤児院の兄弟たちは、皆親切で、優しかった。

「……あ」

不意に視線を横にやると、恐らく中身がまっくろけであろう玉ねぎを手にしている男性が目に飛び込んできた。ラフな格好をしている割に顔周りだけがやけに重装備で、一見すると不審者だ。しかし身体付きががっしりしているので、オフのヒーローなのかもしれない。少々苦い気分に陥りつつも、それは外れだと伝える。
本来なら関わりたくもない相手だけれど、気付いていたのに見過ごすのは人としてどうなんだろう、なんて。我ながらお節介だとほとほと自分に呆れたが、直接この人に何かされた訳ではないと思えば、放っておくことも出来なかった。

「…」
「えっと…要らぬおせっかいだったら、すみません」

流石にヒーローならば逆上して襲ってくることも無いだろうと踏んだ訳だが、相手は全くと言っていいほどの無反応。世の中には無愛想なヒーローもいるんだなぁと思って、はたと気付く。そういえば、ヒーローも人間だったな、なんて。色んな性格の人がいるのはむしろ当然のことなのかもしれない。
あまりにも不良品ばかり手に取るので、本人たっての希望ということもあって、代わりに私が野菜を選ぶことになった。ちらりと相手を見やると、なんだ?とばかりに首を小さく傾げられる。さっきから野菜を選ぶセンスが壊滅的だし、どうにも料理をするようには見えない。精々野菜を切る程度、だろうか。それならば。

「カレーとかシチューのルー、ついでに缶詰とかも買っていったらどうですか」

他意はない。ヒーローなんて興味もないから、全然知らないし。恩を売るつもりも更々ない。ただ、先に施設を卒業していった先輩が言っていたのだ。一人暮らしで生野菜は中々消費出来ないと。賞味期限がもつもの、大量に野菜が消費できて、ついでに楽なメニューは重用するのだと。
どうにも生活力がなさそうな男にぴったりのアドバイスだと思ったから、そっくりそのまま受け売りの言葉を伝えただけだ。

「そういうのが便利なのか?」
「だと、聞きましたけど…」

この人、どうやってこれまで生きてきたんだろう。

「一人暮らしだと青菜はすぐに痛むから、もう切ってあるパックなんかが便利だとも聞きました」

野菜コーナーの最後に置いてある、お得用のそれを指さすと男は少し黙り込んだ。やっぱり余計なお世話だっただろうか。沈黙の意味を測りかねていると、「そういえば生の野菜食ってねぇな」なんてとんでもない独り言が耳に飛び込んできて目眩がした。

「野菜ジュースだけ飲んでても、実はあんまり意味無いんですよ」

呆れ返ってお節介ばかり焼いていると、納得したような、得心がいったような妙な間で男が頷いた。なんだか、調子が狂う。
ついでとばかりに野菜以外の目利きを頼まれるとは流石に思わなかったが、私も気になって仕方が無いし、時間も無いし。
一つ頷いてから、恐らく何も考えずに野菜を炒めて終わりそうな男に向けて、幾つかメニューをレクチャーしておいた。カレーやシチューは切って煮るだけのお手軽料理だし、メインにもなる。近くのコーナーにあるメイン料理の元なんかも一つ二つカゴに入れてやると、「こんなのもあるのか」なんて妙に輝いた目を向けられたから困った。目、隠れて見えないけど。醸し出された雰囲気が、そんな感じだったんだ。

「卵とか必要な料理もありますけど、乳製品は絶対期限を守ってくださいね」
「分かった」

こくり、男が一つ頷く。子供か。年齢が逆転したような印象を受けたが、これ以上は知る必要も無いことだと自分の気持ちに蓋をする。変に情が移っても、困るのは私だ。





買い物を終えて、どっさりと重くなったエコバックを抱える。お買い得品が多くてつい買い込んでしまった。男の持つビニール袋もある程度充実しているから、まぁ、家で餓死することも無いだろう。カレーなんて、裏の説明を読めば誰でも作れるし。
ふと、男が眉を寄せる。親御さんは、なんて。そんな質問素直に答えられるわけがない。曖昧に誤魔化せば、まさかの送る宣言。それはまずい。非常にまずい。私の事情なんて知られたくもないし、ヒーローであるだろう男とこれ以上親交を深めるつもりもない。
「いつも一人で大丈夫なので結構です」とも言えず、なんと言ってこの場を抜け出すべきか悩んでいると、何か勘違いをした男が素顔を顕にした。

その瞬間、全ての思考が停止した。

さらり、キャップから零れるツートーンカラー。もう一生見たくないと思っていた、端正な顔立ちと火傷痕。なんで、なんで、今ここにいるのが“ヒーロー・ショート”なのか。送り届けると言った親を、亡くしたのは彼のせいなのに。
誰か助けてって、何度も祈った。何処へ行っても着いてくる「ショート」の影に、かけられたジュースの匂いに、冷たい目線の数々に、毎晩魘された。何度も何度もフラッシュバックする、暗く淀んだ記憶。
でも、いくら私が泣いても叫んでも、救いの手なんて差し伸べられなかった。

ーーー違う、彼が悪いんじゃない。そんなの分かってる。悪いのはファンを名乗る人間達であり、彼自身はそんな事件があったことも知らないのだ。それでも。そうだとしても。

おとうさんは、どうして、死ななければならなかったの?

ぶつり。意識が途切れ、目の前が暗くなる。男が何か叫んだような気もしたが、それらが意味のある言葉として私の耳に入ることはなかった。

『なまえちゃん』

記憶の中の、優しい父の声。もう一生触れることの叶わない温もり。「置いていかないで」と叫びたいのに声が出なくて。
ゆっくりと遠ざかる思い出に、私はただ喘ぐように泣きじゃくることしか出来なかった。

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