四話




「この子、孤児ですね」

仕方なく抱えあげて連れていった先の警察署で、痛ましいものを見る目で警官が告げた、事実。ああ、道理で、なんて納得してしまうことが悲しかった。知らぬ間に人の心の柔らかい部分を土足で踏み荒らしてしまったことに、申し訳なさが芽生える。
自分が家族のことで、個性のことで、ずっと悩んできたからこそ。きっとこの少女も、赤の他人に知られたくなかっただろうになんて同情めいた感傷を抱いてしまったんだ。

「しかし、本当に怯えたんですか?」

この子、ショートに助けられたのに。
不思議そうに首を傾げる警官に掻い摘んで事情を聞けば、俺は彼女の命を救ったことがあるという。救った人全てを覚えているわけじゃない。むしろ残るのは、救えなかった記憶ばかりだ。
しかし妙に既視感を覚えたのはそういうわけだったのかと、漸く合点がいった。

「家族三人で閉め切った部屋で、ってもうこれ確信犯ですよね…」

その話を聞いて、目を見張った。少女の言動が、“ 親に沢山愛されてきた普通の人間 ” のように感じられたからだ。歪なところなど、何も無かった。放っておけばいいものの、見知らぬ赤の他人の買い物にまで口を突っ込むお節介焼きだ。あの性分は暖かな家庭で生まれ育ってきたからこそ培われたもののように、思えたのに。

「なんか、そうは見えねぇな」
「そうですか? でも急に倒れるのは、やっぱり普通じゃありませんよ」

普通。普通とは、一体なんだろうか。そんなもの、誰が決められるというのだろう。警官の言葉に頷きかねて、結局明後日の方向に視線をやった。
それでも、カウンセリングでも勧めてみようか、とあれこれ悩んでいるこの警官は、彼なりに少女のことを心配しているのだろう。スーパーでの彼女は大人びて見えたが、よくよく観察すればやはりあどけなさが残る未成年だ。まだ青白い頬の丸みが、それを如実に物語っていた。

「……ん、」
「あ、起きたね。よかった。ここは警察署だ、もう安心していいよ」

にっこりと微笑む警官の笑顔が、お節介焼きの友人のそれとダブって見えた。もう大丈夫、僕が来た。そう言って、相手を勇気づける暖かくて頼もしい笑顔。だからきっと少女もほっとしているに違いないと、そう視線を下ろした先。

「ひっ、」

ずりずりと背後に逃げようとして、出来なくて。再び過呼吸を起こしかけている、少女の姿があった。

「おい、落ち着け。ここにはお前の敵はいねぇ」

うっかり声をかけてしまい、あっと口を塞ぐ。俺を見て意識を失ったのだから、怯えるのも当然だ。見上げた瞳をこれでもかと見開き、ガタガタと震える少女から、一歩、二歩と距離を取った。

「…大丈夫だ、何もしねぇ。いねぇ方がいいのなら、席を外す」

ゆっくりと、噛んで含めるように言い聞かせると少しずつ、本当に少しずつ呼吸が穏やかに戻っていった。ぴんと張り詰めた緊張感のなか、少女の体躯は強張り、少しでも自分を小さくしようと膝を抱えている。

「気付かないうちになんかしちまってたのなら、わりぃ」

ぽろり、謝罪の言葉が零れた。
瞬間、吊り上げられる眉尻。ぐしゃりと歪んだ唇は、しかし空気を吐くだけで何の言葉も生み出すことは無かった。雄弁すぎる瞳が揺れ、戸惑いや怒り、悲しみで今にも溢れそうだ。

「…今日は遅いから、もう帰りなさい。また明日、来て貰えるかな?」
「……わかり、ました」

小さな返事が、床に落ちた。
警官が車で送ってくれることになり、俺は助手席へ。少女は後部座席へと乗り込む。彼女にとっては恐らく二人とも恐怖の対象なのだろう。かたかたと小さく震える姿に何も言うことが出来ず、ぐっと唇を噛んだ。こんなとき、あいつならどうやって声を掛けるのか。脳内でチラつく元同級生の姿を、何度もかき消した。
いつまでも、あいつに頼ってばかりじゃいられねぇんだ。俺だって、ヒーローになったのだから。

「送って下さって、ありがとうございました」
「いえいえ」
「では…」

電灯の明かりが心許ない闇夜へ、消えていく背中。それに慌てて声を掛けて、草臥れたエコバッグを渡した。

「これ、忘れ物だ」
「……すみません」

びくり、大袈裟に跳ねる肩。怖々と荷物を受け取る指先は、間違っても俺に触れないように細心の注意が払われていた。

「…食いもん、選んでくれてありがとな」

今この少女に対して俺は。何も、出来やしない。ただ只管に、それが歯痒かった。出来る限り優しい表情を心がけて、感謝を告げる。
少女はきっと、親切心で声を掛けてくれたのに。こんなことなら野菜選びなんて頼まなければ良かったと、過去の自身の行動を後悔した。そのとき。
小さくか細い声が、耳に飛び込んできた。

「…たまねぎ、」
「え?」
「み、みじん切りにしたあとラップして密閉すれば、生でも冷凍保存出来るので。…ご飯代と、送ってくださったこと。ありがとう、ございました」

ぺこり、丁寧にお辞儀した背中が一瞬で遠ざかっていった。意外と足が早い。玄関の向こうへ消えるところまで見送ると、脱力してその場にしゃがみこみそうになった。柄でもない。緊張が解けてから、足が震えてくるなんて。

「あー、あれはショートさん、気を遣われちゃいましたねぇ…」

後ろから苦笑気味の警官の声が追い打ちをかけてくるが、ぐぅの音も出ない。図星だ。
少女はきっと、俺が凹んでいるのを察したのだろう。心底苦手なはずの相手にもそんな気配りを見せて、どうするんだ。
その優しさを、気遣いを知ってしまったからこそ。どうして彼女があんなに俺に怯えるのか、気になってしまった。出来ることなら救い出したいと、願ってしまった。

「明日、俺も行っていいか」
「それは、助けた張本人でもありますし、大丈夫ですけど…」

溜まっている有給を使おう。いつもなら考えもしないことを思い立って、事務所に連絡を入れる。すぐに端末の向こうで驚いていることが容易に伝わる文面が帰ってきて、ぽりぽりと頭をかいた。俺の行動はそんなにおかしいだろうか。

「ショートさん仕事人間すぎるから、いい加減休めと言われても全然聞かないんだって、知り合いが嘆いてましたよ」
「…そうか」

居心地が悪くて目を逸らせば、再び苦笑が返ってきた。

「これを機に、少しは休むことも覚えてくださいね、ヒーロー」

結局やってること、ヒーロー活動ですけど。付け足されたその言葉に首を傾げつつ、「分かった」と頷く。絶対わかってないんだなぁと小声でぼやかれた言葉は、聞こえなかったことにした。

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