五話




悲しげな顔をする彼を、見ていられなかった。決して好きな相手とは言えない。むしろ縁など無ければよかったと心から願ってしまうような人物。
しかし彼自身が “ 悪い人 ” ではないと頭では理解しているから、私の態度のせいで傷付いている姿を放ってはおけなかった。自業自得だ。身から出た錆だ。
人を傷付けるという行為に、酷く臆病になってしまった。

「はぁ……」

怒涛の展開から明けて翌日。カーテンから差し込む日の光は淡く、本日のお天道様のご機嫌が斜めであることを如実に物語っていた。洗濯は控えた方が良いだろう。いっそ室内干しにするか。

「……朝ご飯、作らなきゃ」

どんなことが起こっても、朝は必ずやってくる。良くも悪くも、変わらない日常が待っている。
一日分のご飯の支度はある程度夜のうちに済ませてあるが、全ての用意が整っている訳ではない。白米、お味噌汁、は昨日作った。あとは卵焼きでも作ればいいだろうか。ベーコンに、ほうれん草はまだあったかな。

「よし」

昨日彼と会ったのは、偶然だ。たまたまだ。今後は一目見ることも難しいだろう。そんな相手だ。なんていったって、向こうは今をときめく人気プロヒーローさま。一般人とはどう考えても縁が薄い。

むしろ一度経験したことで、今後ばったり遭遇する可能性が無くなったのでは?

はた、とそんなことに気付いて、味噌汁をかき混ぜるお玉が止まる。そう思えば、なんとか。耐えられる気が……しなくもなくもない。

「うう…」

ぶりかえしそうになる頭痛を、頭を振って無理やり散らした。体調を崩してなんかいられない。小さい子たちを叩き起して、幼稚園や小学校の支度をさせないといけない。年長組はやることが沢山あるのだ。

「夕方、あの警察の人だけなのかな」

にこやかな警官の笑顔をおもいだして、ぶるりと背筋が粟立った。
警官は苦手だ。あと医者も、看護師も。テレビの報道リポーターなんかも。両親の事件を通して、特定の職業の大人に対してかなり嫌なフィルターがかかってしまった。こんなに生きにくい人間もいないだろう。この歳で保健室にさえ行きたがらない人間は、そう多くない。

「でもあの人は良い人っぽかったし…大丈夫、大丈夫」

鳥肌が立った腕を摩りつつ、ぶつぶつと自分に言い聞かせる。これで自宅まで迎えに来られたら事だ。管理人さんに迷惑はかけられない。ここを追い出されたら行く宛なんて、無いんだから。路頭に迷うのは避けたい。
…気を抜けば出ていってしまいそうな溜息を何度も飲み込んで、いつも通りに通学して。一人ぼっちのお弁当を食べながら、カーテンの向こうを見上げた。もうすぐ受験で通常授業が無くなるから、この景色ともお別れだ。
どんよりと曇った空は、まるで私の心境を映し出す鏡みたい。ところどころ青っぽく薄汚れた灰色に染まっていて、お世辞にも綺麗なんて言えない。

「行きたくない……」

嫌だ嫌だと駄々を捏ねても、現実とは無情なもので。バイト先へ平謝りしながら休みの連絡を入れ、昨日の交番へ向かった。バイト先の店長が心の広い人で助かった。肝心の理由で口篭ってしまったのに、「なまえちゃんに何か困ったことがあるなら相談に乗るからね」なんて。私だったら仮病やらなんやらを疑う。今度お礼にちょっとしたお菓子でも持っていこう。

「そういえば、あの警官さんの名前聞いてなかった」

建物の目の前で二の足を踏み、三の足を踏み。別に何も悪いことをしていないのに、足が竦んだ。
ガラス戸の向こうに人影はなくて、誰にも気付いてもらえないから余計に入り辛い。いっそ不審者に思われてもいいから、奥から出てこないだろうか。

「ううううう…」

中々一歩が踏み出せなくて唸っていると、程近くで幻聴が聞こえた。妙に聞き覚えがある、澄んだアルト。

「入らねぇのか?」

ぎぎぎ、と壊れたゼンマイ仕掛けの玩具のように後ろを振り返ると、訝しげにこちらを見遣る不審者…もとい、プロヒーローショートの姿。
黒のキャップにサングラス、更にマスクって。完全なる不審者スタイルなんだけど。逆に人目を集めているのに、本人は素知らぬ顔だ。いや、そもそも視線に気付いていないのかもしれない。隣に立つ私までじろじろ見られるので困る。早く屋内に逃げ込みたい。

「あの、その格好今後やめた方がいいと思います。完全にやばい人です」
「……それ、緑谷にも言われたな…」

何故か私のために交番の扉を開けてくれながら、しゅん、と肩を竦めるプロヒーロー。いや、緑谷って誰だ。知る必要も無いけど。ていうか指摘されてたなら直せばいいのに。ついでに一緒に入ってくれるのはなんでだ。

「でも、変装しねぇとバレちまうし」
「あなたにはゼロか百かしかないんですか…」

呆れ返って溜息を吐くと、再び居心地悪そうに身を縮めていた。極端か。多分、色々分かってない。ついでに分かってないことも分かってないと思う。呆れられていることだけは伝わってるんだろう。天然なのか、ズレているのか。

「にしても、普通に入っちまったけど大丈夫だったのか?」
「あ」

不審者然としたガタイのいい男性と一緒にいるところを見られるのが嫌すぎて、気付けばすんなり交番の中へ入っていた。原因になった張本人はそんなこと露も知らずきょとんとしている。

「……なんか、色々ありがとうございます」
「おう…?」

釈然としない。けれど、おかげさまで一歩踏み出せたのは事実だ。ついでに扉を開いて待っててくれた気遣いとかも、色々。自然にやってのけるあたり育ちが良いのか、大人なのか。
この人といると、調子が狂う。

「…あー…えっと。マスクは外してもらっても大丈夫だと思います…多分」

それ以上は私のトラウマスイッチが入ってしまうので、申し訳ないけど全力で遠慮したい。素直に「分かった」と頷いて指にマスクの紐を引っ掛けたあたりで、そっと視線を逸らし距離をとった。
隣の気配を伺うも、特に気にした様子はない。まじまじ見るのも失礼だろうという言い訳は、使う機会がなさそうで安心した。

「あ、こんばんは。ショートさんも」
「こんばんは」
「…こんばんは」

ぺこり、丁寧にお辞儀を一つ。迷惑をかけたことは事実だから、礼儀は尽くすつもりだった。やっぱり怖いけれど、まだ夜ではないから耐えられる。
ワンテンポ遅れたショートも軽く会釈していて、警官さんが目を丸くしていた。…普段はあんまり挨拶しないのかな?

「とりあえず、昨日何があったのか…大体はショートさんから聞いているけれど、君からも伺って良いかな?」
「、はい」

と言っても話すことなんて、ほぼ一緒だと思うんだけど。少々困惑しつつも事情を説明すれば、難しい顔をした警官さんが顎を摩った。

「なんで君はあんなに夜遅くに買い物をしていたのかな? 部活帰りにしても、遅すぎるだろう。普通なら補導される時間だ」
「それは……」

きゅっと、膝の上で拳を握り締める。…言えない。年齢詐称してバイトしてるなんて、一発でアウトだ。辞めろと言われるに決まってる。
でも、お金を稼がないと。私には、後がない。後ろ盾が無い分、自分の身は自分で養っていかないといけないのだ。
ぐっと押し黙った私に、警官さんは困った顔をしている。当然だろう。彼の質問はもっともだ。

「…話せないことなら、無理に話さなくても良いんじゃねぇか」

言いたくねぇこともあるだろ、色々。
ぼそりと付け足された言葉に、気付けば横を向いていた。背中を壁に凭れさせてこちらをじっと見ていたショートさんが、静かに口を開く。
ずれたサングラスの上からちらりと除くオッドアイは湖面のように凪いでいて、全く感情が汲み取れない。

「夜が危ないなら俺が送ればいいしな」
「ーーーは?」

ぽかんと間抜けに大口を開けて固まってしまった警察官を見て、多真面目な顔をしているショートさんを見て、また警察官に顔を戻す。
『何言ってんだこの人』とありありと描かれている雄弁な瞳を見て、頷いた。うん、やっぱり私は間違ってなかった。もう貝になろう。黙りだ。警官さんがショートを説得してくれるのをひたすら待たせて頂こう。私には手に負える気がしない。

「意味が分かりません」
「夜一人で未成年がふらついてるのが駄目なんだろ? なら成人済み男性で、ついでに現役プロヒーロー。何処からも文句は言われねぇだろ」
「なんで名案だみたいなドヤ顔してるんですかショートさん貴方何言ってるのか分かってるんですか?」
「別にタダで付き合う訳じゃねぇ。野菜選び手伝って貰えればいい」
「ええ………」

え、なんでそれならまだ…みたいな空気出てるんですか警官さん。ちらちらこっち見ないで下さい警官さん。ハンズアップじゃないですよ清々しい笑顔で匙を投げないで下さいよ!!!

「そんなわけで、よろしく頼む」
「いやよろしくしませんからね!?」

まさか本当にバイトの日は毎日ショートさんに送り迎えされることになるなんて、そのときの私は知る由もなかった。

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