傘
雨が降ると涙が止まらなくなる。
涙の止まらないわたしは、いままでその理由を答えられたことはない。雨の日には、悲しみが映り込むの。と頑張って言ったことがある。けれど、それはなに?と優しく微笑まれるだけ。
「あれ、桐野。どしたの?」
「灰、原くん」
「どこ行ったんだろ、って七海と探してたんだよ」
「ごめんなさ、い」
灰原くんはわたしのその言葉にいいよ、ともだめだよとも言わないでそのままわたしの隣に腰を下ろした。
理由がまったくわからなくて、ぽろぽろと溢れる涙をそのままに灰原くんの横顔を見つめる。灰原くんの横顔はどこか凪いでいて、いつもの溌剌とした、一緒にいたら蒸発してしまいそうな印象は鳴りを潜めていた。じっと、グレーの覆う空を見上げる灰原くんは、ほんとになにも言わない。凪いでいる、なんて形容したけれど、彼は自然体でそこにいるようにも思えた。
「……ねぇ、何みてるの?」
「ん? ああ、雨粒だよ。ときどきじっと見るのも悪くないだろ?」
「あんまり、わかんないなそういうの」
な、と笑われてわたしの肩はびくりをと跳ねて、視線がぐらぐら揺れる。『わかるよ』『わたしもする』『そうだね』わたしの脳裏に浮かんだ言葉はどれも上っ面だけで、元から決められた言葉の中で生きているようでわたしは曖昧に笑って首を振る。
高専に入ったからには、わたしはわたしの意思で術師をやらなきゃならない。けれど、家のお人形でしかないわたしは。
「そっか……。別に僕は雨がすごくすきでもなきゃ、嫌いでもないからさ、音だけとかならよく聞くよ」
「へぇ」
「キョーミなし? でも、一回騙されたと思ってきいてみようよ」
小さくしゃがんだわたしの顔を覗き込む。灰原くんの大きな黒目の中に、ぐしゃぐしゃの顔をしたわたしが映っている。酷い顔。何も言えず、じっと灰原くんと見つめ合う。
「目、閉じて見たらどうだろ。耳だけの人間みたいなイメージでさ」
こう、と大きく手振り身振りで語る、やけに必死な灰原くんがおかしくて「なにそれ」と声が溢れた。頬を大粒の涙がつたうのが、どこかくすぐったかった。冷たい涙は雨に似ている。そっか、わたしは。
「なってみようかな」
「耳だけの人間?」
「あは、笑っちゃうね。それ……うん、笑っちゃう」
目尻にたまった涙を指で払う。わたしは、だれにも知られず泣きたかったのだ。頬をつたうものが雨だと言い張れるように。わたしにとって雨とは人間である一部分なのだ。
「じゃ、せーの!で目をつぶろう」
「うん。いや、でもそれってどの辺がせーの?」
楽しそうな灰原くんに水を刺すのもいかがなものか、と思ったけれどうっかり口から溢れる。でも、灰原くんはわたしのその反応にむしろ嬉しそうに顔をくしゃり、と笑った。嫌がられるのが関の山と思っていたわたしは拍子抜けして目を瞬きを繰り返す。
「細かいところを気にするのは七海に任せちゃおうよ」
「七海くん怒るんじゃないかなぁ」
「あれはね、怒るじゃなくて叱るっていうんだ。だから平気!」
灰原くんの力強い言葉にわたしは、もう泣くことなんて忘れて、うん。とうなずいた。もしも七海くんが目を閉じたわたしたちを見つけやら、一緒に叱られよう。
せーの。穏やかな声でわたしは目を閉じる。
閉まりきっていない蛇口から、ぽたりぽたりと地面を濡らしていくように、わたしの心の中に落ちていく。冷たい。けれど、わたしは濡れてなどいない。
家ではいつも叱られていた。
わたしは相伝の術式をついでいるといえど、一番みそっかすの式神使い。女だし、当主にはなれない。なのに、わたしはこんなもの。
雨の音。規則的なようで、どこか不規則。雨樋を走る水の音。屋根に弾かれる水の硬い音。生まれてから何回も聞いている。けれど、聴くのは初めての音に、なぜだか生まれなおすような心地さえしてくる。
「生まれ変わるみたいな、感じがするね」
わたしがそういった後、一瞬だけ沈黙が落ちる。落ちるけれど、それは、それは。なんだか暖かい沈黙だった。
耐えきれなくて、わたしは目を開ける。灰原くんはわたしをまんまるの黒い目を細めて見ていた。どうやらまんまとわたしは嵌められてしまったらしい。ああ、でも不思議。本当に、なんでだろう。
「じゃあ、今日は桐野の誕生日だ。これからケーキでも買いに行こう!」
善は急げとでもいうかのように、わたしの手首を掴んで彼はわたしを引っ張りあげようとする。雨はまだ止まないのに、本気だろうか。コンビニさえも遠い高専から?この土砂降りのなか?
もしかして冗談だろうか、と灰原くんを伺う。彼の凛々しい眉はいつもどおりのライン。少しだけ迷ってから、わたしはやっぱり問うこととした。
「雨の中?」
「雨の中!」
傘もささずにわたしたちは飛び出す。待ってよ、とか傘はどうするの?とか、先生や先輩たちにはなにも言わなくていいの?とか聞きたいことはたくさんあった。けれど、わたしはやっぱり楽しかった。
この前、家入先輩が見ていたドラマの登場人物になったような気がする。土砂降り。雨は普通に冷たい。冷たいイメージはたくさんしてたけれど、やっぱり冷たい。思っているよりも雨粒は大きくて痛い。
わたしはお人形じゃない。もう、違うのだ。
空を見上げたら目に水滴が入った。お人形の呪いが解ける運命の日だったのだ、今日は。「灰原くん」わたしの口は勝手にそう彼を呼ぶ。灰原くんも「なに!」と笑う。笑顔はいつもどおり快活そのものなのに、濡れた黒髪が色っぽい。
「運命みたいで!素敵だね!」
ああ、わたし。この人がすきだ。
巷で流れるラブソングなんかとは、全く違う雨音がわたしたちのラブソング。
20.02.21