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歩くたびに画材道具が揺れて、教科書もノートも何もかも知れたトートバッグが悲鳴をあげた。それでも、私はその背中を見ただけで嬉しくなった。
「柿崎くん、お疲れ様。今日はこれからボーダー?」
名前を呼ぶと柿崎くんは爽やかに振り返った。スポーツマンっぽい風貌にふさわしい笑顔を私に向けた。名字を呼ばれる。柿崎くんに名前を呼ばれるととてもくすぐったい。知らない名前のように聞こえて、こんな綺麗な響きだったんだと思う。
「そうだな、この後ちょうど入ってる」
「ありゃ、じゃあここで引き留めない方がよかったかな」
「なんでだよ。同じ授業なんだし、話しかけてくれよ。友達だろ?」
真っ直ぐな言葉。釣られて私も声を上げて笑った。友達。言い切れるあなたがとても眩しくて、私なんかが触れていいのか自信がなくなる。
「いやいや、周りに友達いたでしょ?流石にそこに割ってはいるのは悪いかなって。あとね、この年代の男の子達が群れてるとちょっと気後れするものですよ」
「あー、まあ弓場とか生駒は結構ゴツいしな……でもあいつらはマジでいい奴だぜ?おまえも話しかけてやって」
人助けと思ってさ、そう軽口を添える柿崎くんが眩しい。邪魔されたくないだけなんて言えない。恋だなんだと友達は囃し立てるけれど、そんな俗っぽい感情じゃないのだ。もっと、もっと綺麗な感情なんだから。
「そういえば先週の三限は休んだの?」
「あはは、そうなんだよ。よかったら今度ノート見せてくれ」
「全然いいよ〜、にしても大変だねえ二足の草鞋は」
「そうなんだよな〜。ま、好きでやってるからあんま大変大変言いたくはないけどな」
大学校内のつるりとした床に、窓から入った日差しが淡く照らし出されている。柿崎くんは私にとって、床に映る光だ。触れられない。直視できない。一瞬しかそばにいられない。
「柿崎……この前の、ってすまない話しているところだったか?」
人影が落ちる。「嵐山」と柿崎くんが音をなぞる。緑色の瞳が私を捉えた。微笑みを浮かべた頬が引き攣った。柿崎くんの視線が変わる。気づかれてしまう。彼はとても、とてもやさしい人だから。
わたしの嵐山准への罪悪感も嫌悪感も全部、理解してしまうのだ。
「いや、大丈夫だ。で、どうしたんだ?嵐山がそんな切羽詰まって来るのは珍しいな」
「ああ……前回の授業がちょうど任務で受けられなくてな……いつもならすぐに誰かに頼むんだが全く捕まらなくて」
「いつの授業だ?」
「明日の、三限の……」
あちゃーと柿崎くんが額を抑える。
「俺もちょうどボーダーで欠席したんだよな……まあ教授にいうのが一番だろうが」
柿崎くんはわたしから視線を逸らした。優しい。きっと正しくはないけれど、彼はやっぱりとても優しい。この人を好きになれればわたしは幸せだった。でも、か弱い生き物だと守られるだけなのに、それを好意だと受け取ってしまいたくない。柿崎くん。あなたがボーダーじゃなければよかった。今日ほどこんなに思ったことはないよ。
「………………私でよければお見せしますが」
「え」
「ありがとう!とても助かる」
柿崎くんの言葉が整うより先に、嵐山准があれ、という顔をした。
「どうしたんだ、嵐山」
何かを考えるような表情のまま嵐山准が私を見ていた。それからかぶりを振って柿崎くんの問いをかわした。
「貸してもらえると助かるよ、コピーしても構わないか?」
「ああ、問題ないです。……あっ。じゃあね、柿崎くん、ボーダーがんばってね!」
食堂から一番近いプリンターに学生証をかざした。認証する明るい電子音だけが薄暗いロビーに響いた。ちょうどお昼時だからか、いつも列になるプリンター前は閑散としている。パソコンを開いて、先週の板書を呼び出す。普通にファイルを送れば良かったな、と思ったけれど口をつぐんだ。
「両面印刷で大体2ページが3ページくらいですね」
あ。小さな、呆気に取られた声で液晶の印刷のボタンを押そうとした私の手が一時停止する。それから嵐山准が遮るように、「すみません」と切り出した。ふたりきりのどこか湿度の高い空間。
「突然止めてしまってすまない。なんでもお世話になりっぱなしはなんだし。君の方じゃなくて良かったら俺の方を使ってくれ」
「学内のプリンターは無料だし別に気にすることないですよ」
「まあそうなんだが……現金ではないが制限もあるだろう?こっちの都合だから、是非こちらに使わせて欲しい」
私は嵐山准の表情を見る。嘘偽りのない心からの善意だ。私のようにとってつけた不相応な善意とは違う。一瞬息を止めた。嵐山准は不審がるように、心配そうに眉根を下げた。ああ、なんてやさしいひとだろうか。それで、やっぱり長く息を止めてはいられなくて、結局私は嵐山准の提案に頷いた。
嵐山准が自分の学生証をかざす。ピロンと認証が鳴る。画面を見つめたまま、嵐山准に確認事項だけを読み上げた。
「一部で平気ですか?柿崎くんの文もあわせて2分くらい刷りましょうか」
「一部で大丈夫だな。柿崎たちには俺が見せればいいから」
「……ああ、それもそうですね」
嵐山准は何から何までお世話になるなんて、と謙遜した。でも、私はこの前この人に助けられた。有り体にいえば命の恩人で、十分すぎる善意を貰った。
「いつも、そうなんですか?」
「え」
「いえ。いや、なんでもないというか、対したことじゃないんですが。あの、嵐山……君って誰にでもやさしいのかなって。わたし、この前ネイバーから助けて貰ったし、なんていうか、そのお礼とかもできればって思っているんですけど」
「それなら君が特別気にすることじゃない」
嵐山准の横顔を見る。私の目線に気がついて、こちらに微笑みかけた。
「ボーダーだからな。ボーダーの時は市民を救う、学生の時は周りの同級生を頼りにする。それだけのことだ」
私はわずかに右足を後ろへひいた。嵐山准は「なるほどな」と一人納得するように小さく頷く。
「えーと……私が、何か?」
「見たことがあるな、と思ったんだが、この前の子か。あれから困ったことや怖い目にはあっていないか?」
「あってませんよ。……あなたたちのお陰です」
「それは良かったな。でも少しだけ残念だなあ。やっと会えたと思っていたんだが気のせいかもしれないな」
「気のせい、って」
「ああ、いや、大した話じゃないんだが……小学3年生の夏休みに、一緒に水やり当番をしていた子がいたんだ」
「嵐山君でもそういう時代があったんですね」
そうだななんて言ってあはは、と嵐山准が笑う。何も理解できないから、私も不審にならないように微笑みを浮かべた。
「その子と誕生日が同じだったんだ。初めて自分と同じ誕生日の人とあったからな、すごくドキドキしたんだ。しかも夏休み中だろう?だから、なおさら」
緑色の目が私を見つめる。確認するように。彼の記憶の中の少女と私の類似点を一つずつ、ひとつずつ拾い上げている。いやだな、とてもいやだなと思ってしまった。
「もしかしたら、君がそうかもしれないと思ってな」
目の前にいるのはボーダーの嵐山准ではない。目の前で僅かに汗をかいて、普通にシャツを着て、大学生としてまじめにキャンパスにいるなんて、そんなのただの人間じゃないか。
「……わ、私は嵐山君が探す彼女ではないと、思います」
「すまない。だた、本当、びっくりするぐらい目がそっくりで」
「目?」
反射的に疑問点をそのまま打ち返していた。コピー機の前で嵐山准が照れ臭そうに笑う。シャツの色は薄い青だった。柔らかい素材。視線な皺。嵐山准が呼吸をするたびに、『アラシヤマジュン』が人間になる。音楽室の壁に貼られた音楽家たちが、深夜歌い踊り奏でているなんて怪談を目にした時みたいに。
コピー機がキュルルと音を立てる。嵐山准が屈み「紙が詰まったみたいだな」と呟いた。
「どうして?」
「……何がか聞いても平気だろうか」
「あなたはどうしてその女の子を探すんですか?好きだったとかそういうわけじゃないんでしょう?ただ水やり当番が嫌になってすっぽかしたのかもしれないじゃないですか」
「なぜと聞かれると難しいな……そうだな……ん〜小魚の骨みたいなものといえば伝わるだろうか」
真剣に悩む横顔を眺める。きれいな鼻筋、大きすぎず小さすぎない唇。わずかにうねる後ろ髪。彼は無機質なコピー機を撫でる。
「ずっと覚えているわけじゃない。君のいう通り気にする必要もないことなんだ」
へにゃり、と五月の若葉色をした瞳を緩ませる。思い出を眺めるその仕草はひどく人間らしかった。いつかにみたテレビの映像が脳裏に走る。本当に、目の前にいるのは、大人の顔を繕った笑顔を浮かべていたのと同じ人なのだろうか。
「綺麗に忘れてしまうには惜しいんだ。あの頃、嬉しかった思い出でもあるから。いつのまにかなくなっていたとか、いつのまにか……傷が癒えたというのは惜しい」
嵐山准の死角でわたしは強く右手を握った。言葉も偏見も思い込みも握りつぶして、ついでに劣等感という薄い皮膚を剥ぎたかった。どうしてこんなにも違うのだろう。わたしと、嵐山准は。
「今の嵐山君にはいらないものでも?」
嵐山准__いや、嵐山君がわたしの方を真正面から見る。あはは、と笑う。ひまわりのような無邪気な笑顔だった。
「要るか要らないかは、実際に手にしたらわかるだろう?」
紙を詰まらせていたプリンターはすっかり元通りになって、最後の一枚がプリントアウトされる。じゃあありがとう。嵐山准の言葉にとりあえず頷いて、立ち去る彼の気配がここから完全に見えるまで息ができなかった。
嵐山准のそういうところが嫌いだ。まるで聖人のよう、まるで日曜の朝に放映されるヒーロのようで、少年漫画で時々いるすぐに死んでしまう善人のような。私はいつだってあっけなく殉教する彼らを理解できない。みんなが涙を流す中で私ひとり困惑している。好きだから涙が流れる。では、きっと涙を流せないような私は彼らのことなんてすきではなかったんだ。きっと嫌いなのだろう。嫌い、口に出してから平べったい笑みが漏れた。だってそうじゃなきゃ立っていられない。私は何も特別じゃないのに、何かみんなと違う。個性なんて綺麗事で美しく華麗に包装できない不良品のような心だった。
____あら、穴だらけ。大事なものも滑り落ちてしまうわ。やさしさが穴から擦り落ちてしまうのね。
「だから、私は彼らを好きではいられない」
違う、全然違うんだ。私、本当は。本当は……嫌いなんかじゃない。
嵐山君が去り、誰もいなくなった階段下、食堂近くの印刷機の前。三限の開始のチャイムを聴きながら、わたしは顔を覆った。無様な自分を見たくなかったから。
生まれつき傷だらけで、向こうが見通せるくらいの穴が空いたわたしのこと。
私を暴くように光が差す。弾かれるように顔を上げて、瞬きをする。潤んだ瞳だってあくびのせいにできる。そういう小細工ばかり上手になってしまった。
「柿崎くん、どうかした?ボーダーだったんじゃ」
「…………嵐山と別れてから誰も見てないっていうから、心配になってさ」
柿崎くんの日差しのような笑顔を見ると自然と強張った表情から力が抜けた。目の奥が熱くなる。ああ、柿崎くんが太陽であればよかったな。そうしたら、単純なわたしはひまわりにでも生まれ変わって、ずっと君を見ていれたのに。まるで、恋をするように君を見つめていたのに。
「ありがとう……ごめんね」
わたしに君のやさしさは痛いよ。
22.12.29