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アブラゼミの鳴き声が耳の裏まで反響する夏だった。
「ジュンくん、今日も当番やってるの?」
隣のクラスの人だった。名前は知っている。ジュンくん。話しかけたことなんてないけれど、自信があった。彼がジュンくんで、みんなの分水やり当番を続けている子。
「きみも当番?」
「うん。わたし、生き物係だから。ジュンくんもゴーヤに水をあげるの?」
ジュンくんが棚の方を指差す。わたしも目を凝らして花壇の中の土を見る。しっとりとしている。緑色の蔦がぐるりとわたし達の頭上を覆っている。
「もしかして、お水あげてくれたの?!」
「うん、せっかくだしと思って」
「うわー、すごい、ありがとう!」
ジュンくんがわたしを見た。きれいな、透き通った、緑色だった。うっとりするくらい。若葉が風にそよぐように、彼の瞳に真夏の入道雲が映り込む。夏休みだったからわたしもジュンくんもランドセルは背負っていなかった。だから軽い背中のまま公園へ駆け出した。わたしにとっては違うクラスの男の子と学校からそのまま出て遊ぶなんて初めてで。全てがきれいに見えた。生ぬるい公園の水道。ちびっ子が作った砂の小山の名残。きょうだいのことを話す彼。
「えっ、ジュンくんも誕生日が7月29日なの?わたしも!」
彼の目は何色だった?頭上で深い緑が風に乗ってさらさらとなってている。
「じゃあ今度一緒に祝おうよ」
「うん!今日みたいに遊べたらいいね」
約束。どちらが先に小指を差し出したのか、わたしははっきりと覚えていない。ゆびきりをして、笑って、手を振った。あの瞬間、たしかに私たちは友達だった。彼は覚えているのだろうか。
スマホのアラームではっと目覚めた。ゆっくりと上半身を持ち上げる。
ひとつだけ覚えていることがある。
私は行かなかった。7月29日に、学校へは行かなかった。熱を出したのか、友達と遊んだのか。何も覚えてない。ジュンくんと遊んだよ、といって、じゃあ代わって!なんて言われたような気がする。でもそれが事実なのか、私が直防衛のために作り出した妄想なのか、定かではなかった。
あの頃必死に書いていたスケッチブックのことを思い出す。狂ったように、向日葵を書いていたスケッチブック。ほぼ絵日記のようだった。
「姉貴、スマホうるせえよ」
「あー……ごめんごめん、今消した」
「アラーム鳴らすなら起きろって、昼寝は30分で姉貴が初めに言い出したんだろ」
あくびを噛み殺しながら、よく吠える弟を横目に立ち上がる。冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出して、グラスに注いだ。弟が自分のグラスを隣に並べてくる。手を叩いてやろうとかと思ったが、寝起きの身体にはかったるくて弟のグラスに水を注いでやった。ただしなみなみ、と。ふざけんな、とか馬鹿姉貴!と喚きながら背中を丸めてグラスの口で水を啜る弟を横目に、リビングに戻る。
最近ボーダーに入った弟の表情は少し変わった。彼女でもできたのか、家族よりも大事な親友ができたのか、わからないけれど、それは決して悪い変化ではなかった。
今日も窓辺でサボテンが元気に陽を浴びている。蕾をつつく。育ってほしい気持ちと、そのまま変わらないでほしい気持ちでぐちゃぐちゃになった。
みちみちになった本棚からアルバムを抜き出した。角が擦れて、土ぼこりがついたままの、小学生の頃の卒業アルバム。わたしのものは見つからなかったから、弟のものだ。一枚一枚丁寧にさらっていく。思い出さなくちゃいけないことがあった。
「うっわ、恥ずかしいのみんなよ」
弟の声と同時に、御目当ての写真を見つける。棚の前でへちまを前にピースサインをする少年少女。揃いも揃って人差し指と中指を指を立てているのに、細かいところでみると何一つ揃っていない。子供らしい、人間らしい不揃いさ。
「なつかしいわね。あのへちまのたわし意外と使ったわねえ、うち」
アルバムを開くわたしの側に母が寄ってくる。懐かしい、と笑いながら、ページを捲った。
「あれって私のときじゃなかったっけ」
「違う、オレだよ。ま、よくつかってたのはオレじゃなくて姉貴だけど」
「……そうだっけ?」
「そうだよ」
私に必要だったのは、アイドルのポスターではなくて、多分家族写真だった。白い硬いものをながめて、記憶を探る。私は水やり当番にはいったんだっけ。一緒だねと笑った男の子の目は、何色だったのだろう。
「ねえお母さん、グリーンカーテンしようよ」
「グリーンカーテンって、あの、ゴーヤとか育てるやつ?」
「大丈夫かよ、ねえさんやったことあんの?」
「あはは、大丈夫だよ。私、ゴーヤ育てたことあるから」
多分ね。そう付け足すと、弟はほんと雑だな、と呆れた。
「つーか、姉貴の小3んときの学校と俺の小3ん時の学校って違うじゃん」
嘘であればいいと思う。自分が加害者でなければただそれだけで良かった。アブラゼミの鳴き声が閉ざされた窓の向こうから響いてきた。
7月29日。小学校の裏庭で、あなたは待っていたのかもしれない。私は行かなかった。いけなかったのか、いかなかったのか覚えていないけれど。でももしかしたら誰かがわたしの代わりに行ったのかもしれない。彼のいう探し人はその『誰か』で、私ではないのかもしれない。そもそもあれは本当に嵐山准だったのだろうか。
若葉の色。澄み渡る夏空を映した瞳。
もし、万一、あの少年が幼い嵐山准だったとして。彼に、嵐山准の背中に傷があるというならば、きっとはじめに美しい背中を傷つけたのは私だ。
だって彼は言った。嵐山准は普通の大学生の表情で言った。まるで当てつけのように嬉しかった思い出もあった、と。嬉しくない思い出も含んだもの。それならば、あれはやっぱり彼だったのかもしれない。
日差しが入ってくるから閉めていたカーテンを開く。夕暮れ。目に痛い青空に浮かんでいた入道雲は溶けている。昨年、最後に祖父が植えた向日葵畑が見えた。太陽を量産して抱え込むような鮮やかさだった。机に放り投げていたクロッキー帳を取り出して、窓の向こうを眺めた。美しい夏の夕景。鉛筆を握りしめる。石の代わりに。彼の背中に投げつけた石っころの代わりに。
携帯が震えて、液晶に【柿崎くん】の文字を並べた。くるくるその四文字を回して、操り糸を切るようにぴたりと病んだ。
夢中でひまわりを描く。右手は汚れていく。いくつもいつくもひまわりを描いた。柿崎くんにも、ゴッホにもなれないけれど。
藍色に染まる部屋の中で私は無我夢中で書いていた。一枚一枚書いては床に散っていく。花びらのように。
「電気くらいつけろよ馬鹿姉貴」
弟の声に顔を上げる。ドアを開けただけで部屋そのものには足を踏み入れない。ふてぶてしい表情で「水だけ置いといてやるよ」とだけ残して立ち去った。私はその背中を見た。ごく普通の、高校生らしい背中。
「ねえ、ボーダーは楽しい?」
せっかくいなくなろうとしていた弟を呼び止める。弟はこちらを振り向かず、どっちつかずに右手をあげてピースサインを見せた。なにそれ。
それからまた携帯が着心を鳴らした。柿崎くん、の文字に私は答えた。
「はい、もしもし。どうしたの柿崎くん」
「……あー、今取り込み中か?」
「大丈夫。ちょうど区切りがいいところ」
私が描き上げたひまわりを見下ろす。少し歪んだ線に苦笑する。まるで小学生のように力任せな絵だ。太陽を無くしたひまわりたちを青色の緩い夜風がなぶる。太陽はもう今日はおしまい。
「今度どっか出かけないか?……ふたりで」
「ふたりで?」
繰り返す私に少し照れくさそうに柿崎くんが笑う。そうだよ、という柿崎くんの声は暖かい。
私は、太陽を抱いて殉死できる優しさが欲しい。
なんて、こんなことをを柿崎くんは聞いたら笑うかな。
22.12.29