少女たちの無間地獄
5
「聞いてください!」
若者の声が回廊に響き、ファイノンは気まぐれにそちらに足を向けた。まだ践行の刻までほんのわずかな時間があり、授業を終えた学生や教授が回廊を行き交っている。足音、衣擦れ、議論や質問、政治的な話題。樹庭の高い天井にこだまし混ざり合うその喧騒がファイノンは好きだった。
よく様々な師弟が議論を交わすテラスには先約が控えていた。その横顔を見てファイノンは息を飲んだ__エフィメリアとかの礼拝学派の学生が悩んで座っていた。遠目から見ても学生の頬は紅潮していて、興奮状態であることが一目瞭然だった。
「エフィメリア先生、僕の来年からやる研究に参加してください。山羊学派と蓮食学派、それから僕の礼拝学派の同意はいただきました!あとは先生が頷いてくれれば!」
そう語ると、青年はエフィメリアの手を握った。エフィメリアは失笑し、その手を解いた。
「それほどの顔が揃っているならわたしは不要なんじゃないかな。残念だけど本当に気乗りしないの。……滅んだ生物の復興でしょう?わたしはあくまでも神話の妥当性と、そこから見られる人々の精神性を調べているだけ……」
「いえ、僕はどうしてもエフィメリア先生にご指導いただきたいんです。この研究はエフィメリア先生なしには成立しません。……いや、参加してくれなくてもいいんです、相談に乗ってくれませんか?」
「そこまでわたしを慕ってくれるのは嬉しい。でも、それはできない。わたしはあなたにとって一科目を担当する教師であってあなたの師匠ではないから」
「じゃあ僕を弟子にしてください」
「弟子はとらない」
「なぜですか? どうしてそんなにこの研究を嫌がるんですか?」
青年は不満そうに表情を歪めた。粘着質な空気が足元に漂ってくるが、ファイノンはその場から動けなかった。少なくともアナイクスを呼ぶべきなのではないかと脳の片隅で考えているが、呼び出すに値する決定的なことは何も起きていない。そう思えた。
「エフィメリア先生、『なぜモネータは花は散ることが美しいと定めたのか?パルフォス古代寓話集におけるモネータからの考察』この論文は先生が書かれたものですよね?」
知っている論文だ。
彼も同じことを調べていたのだと思った。もちろん理由や動機は異なるだろうが、ダクリスとは何かということを調べていた彼の発言に興味がそそられた。
「現存する資料は全て名前が黒塗りされていますが、これはエフィメリア先生がされたんですか?序論の置き方、接続詞の使い方……思想は礼拝学派と知種学派と真逆ですが、僕にはわかります……ダクリスを復活させるのに第一人者であるエフィメリア先生をお迎えしないでどうするんですか?」
エフィメリアの手をとり拘束するように手首を掴むと、青年は身体を観察するため不躾に視線を向けた。細く白い首、豊かな胸元、外套に覆われた肩、腹。順繰りにエフィメリアの身体を観察する。どこかに異常なものがないか探すために。
「礼拝学派の教授から聞きました、エフィメリア先生はうちの学派でも将来を有望された学者で、特に先の賢人の一番弟子だったと聞きました。賢人も夢じゃなかったと伺っています……」
「そこまで知っているならわたしが弟子を取らない理由だって見当がついているんじゃないのかな……あなたの今の行動はあまりにも無礼だ」
椅子に固定するように強く押し付ける彼をエフィメリアは睨みつけた。しかし彼はそれには動じず自分の結論を急いだ。
「先生は、ダクリスなんですよね。かのサーシスとモネータの創造した、かの孤高の花をその身に持つダクリス。否定しないでくださいね、もう言質はとったんです。礼拝学派の先生方、それからアグライア様に」
アグライア。その名前にエフィメリアは一瞬呼吸を止めた。しかし、堪えきれないように項垂れ、喉の奥で笑った。ある種狂気じみたエフィメリアのその行為に青年の手がふっと緩む。
彼とファイノンたちは同じ結論に至っていたことに安堵する。しかし、彼の様子は尋常ではなかった。間違い探しでもするようにエフィメリアの身体を凝視している。それを見てファイノンは弾かれたように目を見開く。彼は花を探している____エフィメリアがダクリスであるにもかかわらず花が咲いていない、その違和感に彼も気づいたということ。
「ダクリス……。ふふ、最近その言葉をよく聞くな」自分がつい力を緩めたことに気づいた彼がまた力を込めてエフィメリアを抑えた。
「何を笑っているんですか……僕は本気で……」
「ふふ、君がわたしを慕っているというならあれが礼拝学派の論文として受け入れられたのはなぜか考えたことはある?」
先ほどまでと体勢は変わってはいない。変わらず青年の手はエフィメリアを押さえつけていて、エフィメリアの虚弱じゃ手ではその拘束を剥がすことは叶わない。青年の視線は変わらずエフィメリアの身体に注がれ、彼の求める答えに近しいものを探している。しかしエフィメリアは講義室の中でそうだったように、にっこりと笑って思想を述べた。
「教えてあげましょうか。__答えは、論点のすり替えがあったから。『花はなぜ散ることが美しいのか?』あの伝承における一般的な解釈は、モネータが花が散ることを美しいと評したのは寿命ある人間を肯定し、讃美したこと。寿命のある人間の美しさや儚さを神が賛美したことになります。こんなに人間に都合がいいことはない。はは!それと同じくらい、こんなにおかしいことはない」
「何がですか……?」
「君のいうとおり、わたしはダクリス。だからダクリスがどのように繁栄してきたかをよく知っている、わたしたちの一族は造物期から存在していた。光歴が定められ、都市国家が生まれ、その時の記録にわたしたちのことも記載されている。それだけでもちろん先祖が生まれた時代を証明することはできないけれど、故郷にあった母……あの大樹の年輪を数えればわかったはず。とうに5000は超えていたでしょう」
困惑の顔のまま青年はエフィメリアの手を強く抑えた。声が聞こえないくらい遠目から見れば恋人の逢瀬のように見えるだろう。エフィメリアはそれでも解せず言葉を続ける。
「ダクリスは死も病もない造物期から存在を確認されているにもかかわらず、人々は伝承ではモネータが散ることを讃美したという。この解釈では死を肯定するための物語でしかない。ではなぜこれが必要だったのか?これはある段階で意図がねじ曲がったのではないか?ということを問いかけたかった。ふふ。排斥されるならそれでいいと思っていたの」
エフィメリアは永夜を仰ぎみた。瞳の中に星が映り込み光っていた。けれどエフィメリアはそれが不快だった。偽物の空。
「結局これが認められないなら樹庭はわたしのいるべき場所ではない。残念だけどわたしは故郷の復興には関心がない。滅んだことを嘆く気持ちはわかるけれど、復活させたところでタイタンの気まぐれをどうにかしないと同じ憂き目にあう」
エフィメリアが語る言葉にファイノンは足りていないピースを得ていくのを感じた。エフィメリアはダクリスであり、あの論文の執筆者。ダクリスであることを知られた上で彼女は花を散ることが美しいという事実を否定したかった。
なら、花が咲かない事実を隠せていたのだろうか?数百年の間信仰される空間で生きていて、それがバレないなどあり得るのか?
その疑問に夢中になっていると肩を叩かれた。振り返ると仁王立ちをするアナイクスが立っていた。アナイクス先生、ファイノンの喉にその言葉が張り付いて剥がれなかった。そんなファイノンを横目にアナイクスはいつも通りの歩幅で、外套につけた飾りを揺らしながら、目の前で密着しているエフィメリアと青年に向かっていく。
「……エフィメリア先生の気持ちはわかりました__じゃあ、先生。僕の相談に乗ってください。僕は本当は、ずっとエフィメリア先生の弟子になりたかったんですが、それが叶わないというなら……ごく個人的なことなら構わないということでしょうか? 研究については聞きませんから、話してくれるだけで!つまり、僕と!」
青年は今度は耳まで赤く染めていた。しかし、その先を語ろうとした青年の手をアナイクスが掴んだ。彼にはアナイクスの手しか見えていなかっただろうが、それを誰のものか判断するのに時間は不要だったらしい。アナイクスの視線は青年ではなく、隣に注がれる。
「____エフィメリア、ここにいたのですか」
「アナイクス先生……」座ったままアナイクスを見つめる目は安堵の色に満ちていた。
「践行の刻には私の自室にくるように行ったはずですが、こんなところで油を売っているとは……あなたのその放浪癖はどうにかならないのですか?」
「まだ約束まで少しだけありますよ」
「はあ……エフィメリア、あなたは私がなぜ呼び出したのか理解していないようですね。あなたはその、論文完成にために眠らず、食わず、体も洗わず、疲れきってやつれたその顔のまま、インクとホコリまみれの衣服で、この私にエスコートさせるつもりですか? 冗談でしょう」
丁寧に事情を説明するアナイクスは、エフィメリアに説明するためにここまでやっているわけではない。向き合ってこそいないが、アナイクスが語り聞かせているのは隣の青年に違いなかった。
「そんなに嫌なら行かなきゃいいじゃないですか……前回まではそうだったじゃないですか。わたしが参加でアナイクス先生は不参加、いつも通りでしょ?」
「はあ、今回はヒアンシーに言質を取られましたから私も参加しないわけにはいきません。何より____約束したでしょう、エフィメリア。“次”があったら私に盛装を見せてくれるんでしょう? 今日がその‘’次’’に当たります。忘れたとは言わせませんよ」
容赦がない。ファイノンは赤から青、果てには白い顔になっている青年に心から同情した。アナイクスは青年のエフィメリアを拘束する五指を剥がし、エフィメリアに顔を近づけた。
「それは覚えてますけど……何もこんな早くに呼び出す必要はありませんよ。何を着るかだってもう決めてあるんですから現地集合でもいいのに」
「何を着るか決めている? はは、面白いことをいいますね。それは昨晩オクヘイマから届いた衣装のことを指しているのでしょうか」
「まさか、先生」今度はエフィメリアの顔が白くなる番だった。
「ええ__あれはアグライアに送り返しておきました。ですからあなたに提示された選択は二つ、その疲れた服で私にエスコートされ後日等価交換を支払うか、いますぐ私の部屋に行くか。どうぞ好きなものを選んでください」
エフィメリアは解放された手首を一回だけさすり、顔を伏せる。そして、エフィメリアはアナイクスの衣服の端を握った。
「残念ですが、エフィメリア。あなたの師を長くやっていますが言葉にしなければわかりませんよ」
「____アナイクス先生の部屋に連れてってください」
平静を保とうと抑揚を控えた声で答えた。遠目から見てもエフィメリアは顔や耳、露出した首まで真っ赤に染まっていて、見ている第三者の背中に走る衝撃の方が強かった。
「よくできました、エフィメリア……。私はいい弟子を持ったようですね」
アナイクスは満足げにエフィメリアの手をとり、初めて隣の青年に顔を向けた。
「そういうことなので、私たちは失礼します。あなたも卒業年次でしたよね?オクヘイマの祝宴に参加するかは存じ上げませんが、何はともあれ、来年からは同僚としてお手柔らかに頼みますよ」
アナイクスに引きずられるようにして回廊を歩くエフィメリアが柱の影に立つファイノンを見て狼狽えた。隣でエフィメリアが絶句していることには触れず、アナイクスが平静にファイノンに向き直る。
「ファイノン、先ほど見たことについてですが……」
「もちろん!口外なんてしないよ」両手を大きく振りかぶり決死の思いで弁明した。しかしアナイクスは眉を顰め「なぜ?」ときつく問い詰めた。
「私の話を遮るとはいい度胸ですね……まあ、今は私も先約があるので咎めませんが、口外しないとはどういう意味です? いまの問答のどこに言えない話があったのでしょうか」
これ見よがしにアナイクスはエフィメリアの右手を繋ぎ直す。五本の指をそれぞれ全て絡めとるように。ファイノンはその所作に頭痛がしてくるのを感じた。それもそのはずでそれはオクヘイマでは『恋人繋ぎ』として若い恋人たちの間で流行っているもの。ものを言わないファイノンに向かってアナイクスは楽しいそうに笑った。
「自分の恋人を同伴者として祝宴に向かうこと、これは当然のこと。そのために準備が必要なのも明白。しかし恋人が約束の時間になってもこなければ心配して探した……それだけですよ」
「秘密の恋人なんじゃなかったのかい?」
「言ったはずです。私は取り立てて秘密にしているわけではありませんし、そもそも前提として隠す意味などもうありませんよ。ダクリスへの信仰はこうして過去になったのですから」
「失礼を承知で話を遮りますが、アナイクス先生、その話はもう終わっていいでしょう。ほら」エフィメリアが空いている方の手でアナイクスの服を強く引いた。エフィメリアはアナイクスの前だと少女のようになってしまうようだった。つい先ほどまで持論を展開していた学者と同一人物には見えなかった。アナイクスはそれに機嫌をよくしたのが、見せつけるようにエフィメリアの頬を撫でる。目の前にはいまファイノンしかいないのに。
「……ふふ、エフィメリアが早く私とふたりきりになりたいようなので失礼しますね」
「先生!」愉快そうなアナイクスにエフィメリアが叫んだ。先ほどのアナイクスの声もエフィメリアの絶叫もしっかりと周囲にも聞こえていたようで、無関係の学者もアナイクスの発言に足を止めていた。そしてファイノンは奥に視線を投げた。礼拝学派の青年は真っ白で血色を感じさせないひどい顔色でエフィメリアとアナイクスの背中を見て硬直していた。
お気の毒に。ファイノンはそっと彼を拝んだ。