ひとに売る花はない

人通りの少ないオクヘイマの回廊を歩くアナイクスがエフィメリアの腰を引き寄せた。不慣れなピンヒールを履いたエフィメリアの足元が一瞬ぐらつき、体勢を崩しアナイクスの胸に倒れ込む。
「エフィメリア、そこに段差があるから気をつけなさい」
「今のはアナイクス先生のせいですよ」
抱きしめられたままエフィメリアが不満を溢した。
「このドレス、そんなに裾が長くないし足元が見えるのでそんな気にしなくても。先生の方がこけますよ、慣れないエスコートなんてしてると」
「はあ……おとなしくエスコートされておくのが礼儀ではないのですか?」
ため息混じりにアナイクスがそう揶揄すれば、エフィメリアは顔を近づけて応戦した。
「だって、アナイクス先生がエスコートってちぐはぐすぎるから……あ。」
エフィメリアがアナイクスの肩越しに向こう側をみて、中途半端な顔のまま硬直した。その視線をアナイクスが追えば、申し訳なさそうな顔をした教え子たちの姿があった。ファイノンは真っ白な顔をさらに白くさせ額に汗をかいていて、ヒアンシーは目を見開き口元に手を当ててこちらを興味津々に観察していて、キャストリスはみられた当人たちよりもずっと恥ずかしそうに俯きながら時折こちらに視線を投げてきていた。
三者三様の反応に、アナイクスはこめかみを抑えながらため息をついた。いくら盛装してめいめいに綺麗に着飾っていようといつまでも教え子というのは子供だ。そう痛感しながら。
「あなたたち、私とエフィメリアは見世物ではありませんよ」
アナイクスはそう言いながらエフィメリアの腰をそっと撫でる。恥じらうように俯くエフィメリアもアナイクスから見ればまだ少女のように見える。
「__このように見えるところで睦言を吐く方が問題なのではありませんか? 教育上避けるべきだとは思わなかったのでしょうか」
硬く鋭い足音がファイノンたちの背後から聞こえ。冷ややかな瞳をしたアグライアが現れた。
「随分ゆっくりとしたご登場でしたね」アグライアが諌めるように一歩前に出る。
「ええ。エフィメリアの支度に時間がかかったので、少し遅れました」
「嘘つき。先生がえっちなことするから……」
「なにかいいましたか、エフィメリア」
「はあ……なんでもありません、アナクサゴラス先生!」
自分を閉じ込め続ける腕から抜け出そうとエフィメリアが身体を捻ると、アナイクスは不服そうに、少しだけ不安そうに、微かに眉を歪めた。しかし、エフィメリアはそれに気づかなかったふりをして手を解いてしまった。アナイクスの身体に隠れていたエフィメリアの衣装が現れ、アグライアは静かに腕を組んだ。指先が強く彼女自身の肘を握っていた。
「エフィーたん、すごく綺麗です! まるで、夏の満天の夜空みたい!」
ヒアンシーがうっとりしたように微笑む。
「当然でしょう、私がエフィメリアのために作ったのですから」
その言葉にアグライアが金糸を張り詰めさせた。アナイクスはそれに気がつくと、愉快そうに口角を上げた。
「エフィメリアに似合うものは私が一番よくわかっていますよ」
「先生がアグライアの創ったドレスを送り返したんじゃないですか、わたしの知らないうちに……先生にもアグライアにも悪いけど、別にどっちの用意した衣装だってわたしは構わないし」
「あなたは私の味方ではないのですか?」
「誰の味方でもありません。だって、アグライアの味方をしたらアナイクス先生は怒るし、先生の味方をすれば調子にのるでしょ」
ふてぶてしく言い放つエフィメリアにファイノンたちは顔を見合わせた。拗ねている。エフィメリアのすこし乱暴に言い放つような口ぶりは初めて見るものだった。しかし、それと同時に、少女のようにアナイクスに当たるエフィメリアは、怒っているというよりも甘えているようにさえ見えた。
「ああ、あなたはまだ先ほどのことを怒ってるのですか?」
「怒ってない」
「ではなぜまだ拗ねているのですか。ああ、なるほど」
アナイクスはそっとエフィメリアの耳元に何かを囁く。それはファイノンたちの耳には入らなかったが、アグライアだけが右手で顔を覆った。
「はあ。では一応許可をもらいましょうか。アナクサゴラス、あなたのエフィメリアをお借りしても?」
「なぜです?」
「昔、エフィーから頂いた花が咲きましたから、彼女とふたりで話でもしようというだけのことです。あなたの弟子であるよりもずっと昔から、エフィメリアは私の大事な可愛い子です」
アグライアはエフィメリアの前まで進み出ると、拗ねた子供のように少し睫毛を伏せたままのエフィメリアの頬を撫でた。
「エフィー、いつでもこんな男を捨てて戻ってきて良いのですよ。あなたの部屋はそのままとってありますから。私も師匠も歓待します」
金色のネイルがオクヘイマの青空から差し込む光を帯びて光り、それを追いかけるようにエフィメリアの瞳が揺れた。怒られたあとのようにアグライアを瞳に映している。
「ありがとう、アグライア」
頬を撫でるアグライアの手におのれの手を重ね、一回瞬きをする。そして、アグライアの手を頬をから落とした。
「その気持ちだけで十分うれしい。でも、わたしも帰る場所があるから大丈夫。いま、アナイクス先生は焼き餅焼きでちょっと面倒なだけだから」
「……なるほど、あなたは随分私に思うところがあるようですが、この事柄については話を聞かせてもらいますよ」
「今じゃなくていいでしょ?」
「……はあ」
「それにわたしもあの花が増やせそうならうれしいし、一回温室へみに行ってくる」
「ふん、問題はありませんが。それには私も同行しましょう」観念したようにアナイクスはため息をついた。
「相変わらず、エフィーを縛り付けるのがお好きなようですね、さて、ヒュポクリテス__あなたに確かめたいことがありますから、ついてくるのはご自由にどうぞ」
「熱い歓待に感謝の念が止まりませんよ、アグライア……どうせあなたたちもついてくるのでしょう」
黙って話の成り行きを見守っていたファイノン、ヒアンシー、キャストリスの一瞥するとアナイクスが吐き捨てるようにいった。
「初めに話があると言っていたのはファイノンですよ」アグライアの言葉に、ファイノンはまっすぐと己の師をみた。
「そうなんだ、えーと、アナイクス先生。どうしても知りたいんだ。ダクリスについて」
ダクリス、アナイクスの隣でエフィメリアがそう繰り返した。
「ダクリスについて知りたいのであれば。それは私よりもエフィメリアに聞いた方が良いでしょう」
「アナイクス先生がそれでいいなら、僕もエフィーさんに立ち会ってもらうのがいいと思っているよ」
「実際に君たちはダクリスについては知識を身につけたと思うし…… 残っているのは実際にその目で見ることだけ。うまくいけば咲いているダクリスが見つかるかもしれない」
「咲いている? ダクリスの故郷は滅んだって聞いてたけど」
「あなたたち3人に足りないのは実地研修。ねえ、アナイクス先生! やっぱりフィールドワークって重要だと思うんだけど」
「あなたはまた碌でもないことを考えていそうですね」
「……どこに行くんだい?」
ファイノンの問いかけにエフィメリアは数秒考えてから、綺麗に微笑んだ。それは講義室の壇上で見せるような、美しい整えられた笑顔だった。
「秘密の花園、と言ったところかな?」

回廊のずっと奥、鍵があき、温室に入ると甘い匂いが立ち込めた。小さな木が世俗から切り離されるように立っている。
「これが、ダクリスですか?」ヒアンシーが呆然と呟いた。
「そう、これがダクリス。ダクリスの生き残りは私と末弟のアリストパネスだけ。これはその彼が故郷が暗黒の潮で滅ぶ前に、母樹から一本の枝だけ折って逃げてきたもの」
「一本の枝? 枝から接ぎ木してここまで大きくなったってことかい?」
母なる樹。その壮大な名前よりも大したことはなさそうな目の前の樹をファイノンは観察した。普通の樹だ。何か人の顔があるというわけでもなく、ただ、ざらざらろした木の表面を見せているだけだった。
「そうだよ」堪えきれないようにエフィメリアは吹き出した。馬鹿にしたわけじゃない、と弁明するようにエフィメリアは手を振った。
「いや……昔のことを思い出したの。接木したら他の土地にもダクリスが増える。そうしたらわざわざこんな僻地に枝を取りにくる人たちも減るのに、ってパルフォスの司祭に言ったことがある」
「どうなったの?」
「礼拝室から追い出されて七日間ご飯抜き。連続して何か質問をするとついに信仰心が足りないって叱られて毎朝掃除してた。うまくやる手法を生み出したらもっと怒られたっけ」
「……アナイクス先生にも似たような話を聞いたことがあるような気がしますね」
ヒアンシーの言葉にエフィメリアも同意する。
「それでもわたしは治らなくて……気がついたら司祭の姿は見えなくなって、彼が死んだことを聞かされた。……ファイノン、ダクリスはどのように増えるかしっている?」
「……アグライアから手記を見せてもらったよ」
答える声はとても小さくなった。エフィメリアは後ろめたそうなファイノンを横目で見て、樹に向き直った。
「実験をしたの。今では随分と昔になったけど……。見えるかな?あの木に咲いてるあの白い花……わたしは、ダクリスだけどあの花を咲かせたことがない。それも理由は書いてあるね、わたしが、黄金裔だから。わたしに流れる血が花を咲かすことを阻害してた」
エフィメリアは樹を撫でると、幹に額を預けた。
「わたしは物心ついた時からずっと疑問だった。どうして花が散ることが美しいなんてことが正しいのか。でもね、それに興味があったのは故郷でわたしだけで、みんな成長して、花を咲かせ、誇らしげに神前に捧げられ、ひとつに還ってしまう。あの頃のわたしは、自分が不完全なダクリスであるという劣等感にさいなまれていた……」
目を閉じ、エフィメリアはまだ細いその樹を抱きしめた。まだエフィメリアの体格と変わらない。若い樹だ。人ひとり抱きしめることと大差ない。
「この木はね、わたしの黄金の血を使って花が咲くのを阻害していたの。花が咲くことはいちばんエネルギーを使うから……ふふ、恨まれるかな。嫌われるのかな……」
エフィメリアは目を閉じたまま、細い枝に手を伸ばした。白い花が咲いている。
「これはね、わたしの家族なんだ。ダクリスは結局みんな姉妹だから……アリストパネスでさえもうこの中にしかいないの」
風で細い枝がしなった。白い花弁ははらはらとこぼれ落ちる。確かにそれは涙のようにも見えたし、春に空に浮かぶ小さな雲のようにもみえ、そう、とても美しかったが、エフィメリアは目を開かなかった。
「ダクリスは子供を作る過程でその樹の一部になるというけど、エフィーさんは違うんだよね?……黄金の血のせいで」
「そう。黄金の血のせいでね。でもそのおかげでまたみんなと再会できたから……それで十分だと思っているの。アナイクス先生にも合わせることができるし……」
ゆっくりとエフィメリアは目を開ける。先ほどまで咲いていた花がないことをみて、悲しそうに微笑んだ。