毒を食らわば地獄迄

「ファイノン様、大丈夫ですか? 顔色が優れないようですが……」
ヒアンシーがそっと、ファイノンに耳打ちした。
「もう講義は終わりましたけど、今日は随分と上の空ですね〜、いつものファイノン様ならもっと身を乗り出して受けていませんでしたか?」
「うん、今日は、ちょっとね。そういえば、ヒアンシーさんってエフィーさんとも付き合いが長かったと思うんだけど、その、エフィーさんっていつからアナイクス先生のところにいるんだい?」
「エフィーたんですか?」
首を傾げ、ヒアンシーはまだ教壇の上に残っているエフィメリアを振り返った。アナイクスとよく似た形の外套を揺らし、教材用具をしまう姿はごく普通の女性にしか見えない。
「そうですね……エフィーたんは、わたしが学生だった時にはすでに先生をされていましたよ。そう考えると本当に長いですよね、アナイクス先生のあしらい方も慣れてますし……先生の一番弟子ですね」
「一番弟子……僕は樹庭ではあまり話したことがないんだよね、オクヘイマでは親切にしてもらったんだけど。個人的な話はしない人だったし……樹庭とか、アナイクス先生といるときは印象がちょっと変わる気がするし。オクヘイマで見た時はアグライアもびっくりの孤高の花みたいなひとじゃなかったかい?」
「そうですか? それはファイノン様が周囲の評判に左右されすぎているだけだと思いますけど……ふふ、年上の方にいうことじゃありませんけど、エフィーたんは好奇心旺盛の方で可愛らしいというか、永遠の少女みたいな方ですよ、エーグルのこととかわたしたち天空の末裔についても関心があるようでした」
「そうなのか……てっきり研究以外に関心がないのが常なのかと思ったよ」
「講義中のエフィーたんは儚いとか孤高の花とは真逆じゃありませんか?言い方はあれですけど。今日なんてアナイクス先生そっくりじゃないですか」
ファイノンは思わずヒアンシーの無遠慮に言葉に吹き出した。確かに、一理ある。
「今日のタイタン観は正直肝を冷やしたよ」
「それは同意です。アナイクス先生が乗り移ったかと思う気迫でしたね〜、エフィーたんはいつもアナイクス先生が唯一の先生だから似てて当然とおっしゃっていますが……」
「そうなんだ」
「……ところで、なぜファイノン様の手元にアナイクス先生の外套があるのですか?先生から貸してもらったとか?」
ヒアンシーの視線がファイノンの傍らにある外套に注がれる。ファイノンは思わず片手でさらに奥へと外套を隠した。
「そうそう、そうなんだ!昨日興味深い虫を見つけて泥だらけになってしまったから、アナイクス先生が貸してくれたんだ。次先生の講義だから返そうかなって」
「そうですか〜、アナイクス先生が……。ふふっ、それならアナイクス先生の機嫌がいいといいですね〜」
ファイノンが苦笑しながらアナイクスの外套を持ち上げる。裾の端についた飾りが揺れた。その音はほとんど人のいない講義室に響き、ちょうど、その音を聞いたのかエフィメリアの視線が持ち上がった。
「ファイノン、あなたがアナイクス先生の外套を持っているだろうって聞いたんだけど……もらってもいい?外套なしのアナイクス先生ってちょっと寒々しくて」
「もちろん!」ファイノンのてからエフィメリアはアナイクスの外套を譲り受けると丁寧にたたみ直した。さっきまでの苛烈さは消えていた。
「ありがとう。アナイクス先生から伝言があったんだけど、少し耳を貸りるね?」
「え……ああ、うん」
「『研究室で見たものは忘れなさい』だって。何かしたの?」
「アハハ……胸に刻んでおくよ」
____忘れられるわけがないじゃないか!
叶うのであればファイノン自身、その瞬間ことは忘れたかった。今後すれ違うたびにあんな恥ずかしい気持ちになるだなんて心臓がいくつあっても足りないし、背中が変な汗で濡れることは勘弁してほしい。
「じゃあ、また次の講義でよろしくね」
「はい!サーシスがその思想を守らんことを!」
「ええ。ありがとう」
エフィメリアはアナイクスの外套を胸に抱えて、教材用具をしまったトランクを手にに講義室を後にした。
「ふふ。ファイノン様、なにか面白いことを隠していませんか?」
「う……」図星だ。言葉に詰まるファイノンを見てヒアンシーは楽しそうに両手を合わせた。
「せっかくですし、キャスたんも呼びましょうか!きっとお話ししてくださった方が楽になりますよ♪」
あの光のような笑顔にそうそそのかされれば、ファイノンはなすすべもなく頷くしかなかった。



講義室から人ごみを避けて歩き、一番北側の回廊まで来ると、お目当ての姿を見つけた。キャストリスは回廊の手摺りをぎゅっと握り、すぐ目の前に広がる芝生を眺めていた。そこにはキメラが同士が飛び跳ねるように遊んでいた。隣では生まれたてのふわふわとした毛並みのキメラが学者に抱かれてミルクを飲んでいる。
適度な距離を持ってキメラを眺めていたキャストリスの背中に、ヒアンシーが声をかける。
「キャスたん、ここにいたんですね!」
「ヒアンシー様、ファイノン様。はい……生まれたばかりのキメラがちょうどご飯を食べているところで……ふふ、とても可愛らしいです」
「ほんとうだ……あっ、あの子、なんだかアグライアに似ていないかい?金色の!」
ファイノンも追いつくと芝生の上でお上品に座っている黄色の毛並みのキメラを指さした。
「……ふふっ、確かに少し似ていますね」
「では、すぐ近くで楽しそうに遊んでいるのはトリビー様でしょうか?」
「あはは!確かに、綺麗な赤毛だしちょうど三匹いるし……ほんとうにトリビー先生たちみたいだね。アグライアとも仲が良さそうだ」
「じゃあそのお隣にいるのはアナイクス先生ですね! あ、アグライア様から距離をとっていますし、まさしくアナイクス先生……! びっくりするくらい皆さんに似ています」
「では、アナイクス先生のそばに寄ってきたのキメラはエフィーたんでしょうか?」
エフィー。ヒアンシーが何気なく口にしたその名前にファイノンは呼吸が乱れた。その様子には気づかなかったのか、キャストリスは同門の先輩とキメラを比較して、口元を綻ばせた。
「ああ……角に花が咲いているキメラでしょうか?確かに雰囲気は似ているかも知れませんね……ふふ、石ころで戯れていて可愛らしいです」
「エフィーたんらしいですねえ」
「そう、だね」
忘れなさい。と言われたが、逆にそう忠告されてしまうとそればかりが思考を埋めてしまう。考えたところで何かがあるわけでもなければ、彼らがそうであったところで問題があるわけでもない。しかしどうしても気になる。
「せっかくですし、ここでお茶会にしませんか? わたしちょうどザクロジュースを持ってきてるんです。昏光の庭で育てたザクロがちょうど収穫だったので〜」
「へえ、美味しそうだね。クレムノスの民も喜ぶんじゃないか?」
「はい! ですがお出しする前にみなさんに味見をしていただこうと思って。キャスたんもどうぞ!」
「ありがとうございます、ヒアンシー様。私も先ほど山羊学派の方からクッキーをいただきまして……よろしければこれをお茶請けに」
「素敵な提案ですね、キャスたん!」
女子というのはすぐにお茶会の準備をしてしまう。永夜の青白い光を浴びているというのに、明るいオクヘイマ顔負けの花畑に見えてくる。キメラたちから十分に距離をとってから、三人は芝生の方へ移動した。キャストリスはヒアンシーとファイノンから十分に距離をとり、太い木の根に腰をおろしてからから、両手でザクロジュースの入ったグラスを握った。ファイノンもジュースをグラスに注ぐ。ザクロ特有のあの甘酸っぱい匂いと、すこしどろりとした口触りが絶妙だった。
「!おいしいです……」
「それはよかったです〜、クレムノスの皆様も気に入ってくださると嬉しいのですが」
「きっと大丈夫だよ。ヒアンシーさんの真心ならきっと伝わるさ」
「ふふっ、そうだと信じておきますね。お二人に言っていただけると自信が湧いてきました。」
この空気感は心地よい。ヒアンシーがいるだけで空気は和らぐし、キャストリスが目を輝かせるのを見ると、ファイノンもつられて笑ってしまう。ファイノンも何が差し出せるものがないか、服の隠しなどをくまなく探してみるが、出てくるものは塵ばかりで何もなかった。
「あはは、ふたりには悪いけど、僕から差し出せるものは何もなさそうだ。かわりに踊ろうか?なんちゃって」
「では、ファイノン様。ちょうどお話の題材を提供してくださいませんか?」
「そうですね……この中でしたらファイノン様が一番そういうことには長けていらっしゃいますし……」
「こ、困ったな……僕はそんな面白い話はできないよ」
「え〜?先ほどエフィーたんに耳打ちされていたのはなんでですか」
「そっ、それは……」
「私も気になります。ファイノン様、ぜひお話してください」
「キャ、キャストリスさんまで……」
きらきら。少女二人の瞳はいつもの数倍ひかり輝いてファイノンを射抜いている。こうして場を整えられてしまうと、喉から勝手にあのことが出てきそうだった。飲み込んでも、噛み砕いても、うまくいけない。そもそも噛み砕けているのかさえ不明だ。「ファイノン様」ヒアンシーとキャストリスの声が混ざりながら、ファイノンの耳の中でこだまする。
「わかった……観念するよ……。その代わり絶対に、他言しないでくれよ?」