いくつもの嘘から見つけた本当

「エフィーさん、彼はいなくなったよ」
ファイノンは資料を積んだ机の下を覗き込む。鞄を胸に抱えてエフィメリアは座っていたが、ファイノンの顔を見て脱力した。
「ありがとう……助かった」項垂れる姿はなかなか新鮮でファイノンはただそれを眺めているだけだったが、ヒアンシーがエフィメリアの両手を掴んで机の下から引っ張り上げた。
「いや別にいいけど、なんでこんなことになっているのかだけは説明して欲しいかな」
「それはもちろん。彼は……わたしに研究に参加して欲しいみたいでね、わたしの弟子になりたいんだって。まあ光栄な申し出だけど……今日はどうしても彼の相手をしている場合じゃないから」肩を回しながらエフィメリアは苦笑した。
「弟子……エフィーたんって樹庭も長いんですよね。ひとりくらいとってもいいんじゃないですか?」
「わたし、弟子は取らないの。考えてもみて?わたしはまだアナイクス先生に師事している真っ最中で、今後数年変わらない。ならわたしがするべきは教え導くことじゃなくて自分の課題を実践することでしょう?」
エフィメリアが語ることは最もに聞こえた。しかし、エフィメリアにしてはどこかが抜けている理屈で、その抜けている部分は触れてくれるなと言っているようだった。
「彼もそうだけど『ダクリス』なんていう古代の生物ついて知りたい子がこんなに出てくるなんて……。ダクリスのことが完全に過去になったからこういうことも出てくるのかな。ともあれ。わたしからも、ダクリスについて知るなら確かにあの論文が一番だと思うけど……ここで見せてあげる権限を付与するのはわたしにもないんだよね?」
「そうですね、規則だとエフィーさんも講師であって教授ではありませんし。というか、無断で私が知種学派の学生に見せたなんて知られたら、礼拝学派の先生方から私が怒られてしまいます……」
どんどん背中を丸めて小さくなっていく司書をこれ以上責めるのもお門違いなことは明白だった。
「無理強いはできないね」
この論文にこだわらず関連する資料を探した方がいいのかもしれない。しかし、どうやって?その方法がわからなければ、アナイクスへの回答は全て印象論で作り上げるしかない。
エフィメリアが静かに手を上げ、三人の視線は彼女に集まった。学生のようなその所作にエフィメリア自身照れたように、耳をほのかに赤ながら咳払いひとつをした。
「……さっきまで匿ってくれた御礼だと思って聞いて欲しいんだけど、どうしてもその論文が読みたいならバルネア図書館に行ってみたら?オクヘイマにも論文集は送っているはずだから処分されていなければ普通に書架に並んでいるよ」
「そうなんですか?」
「少なくとも先月わたしが見た時には普通に並んでいたから、心配はしなくて大丈夫。まあ、ダクリスを知ることがあなたたちにどのような利益があるのかはわからないけれど」
「いいや、ありがとうエフィーさん!調べてみるよ。これで推論だけで挑まなくて済みそうだ!」
ファイノンはエフィメリアの手を取って硬く握手した。「アナイクス先生は一体どんな無茶を言ったの?」苦笑しながらエフィメリアはファイノンの握手に付き合った。
「いい時間だけど……今からオクヘイマに行ってみるかい?」
「そうですね……ちょうど卒業の宴のことでアグライア様にお話ししたいこともありますし、わたしは今からで構いませんよ」
「よし、じゃあ善は急げだ。本当にありがとうエフィーさん!」



友愛の館は樹庭、いやオンパロスで最も優れたの図書館である。それはある種、好奇心と知識欲、そしてサーシスへの献身と妄信による書物の独占が大きく影響している。オンパロスで最も優れ最大の蔵書数を誇るのが友愛の館であるならば、バルネア図書館は世界で最後の知識の砦だ。ここにはすでに滅びた都市国家のものが集まり、数多の思想と信仰が息づいている。書架に並ぶ資料の装丁や踊る言葉は目が回るほど鮮やかだった。
その中に並ぶと礼拝学派の論文集でさえも威厳はない。他の資料と同じく適切に、しかし、ごく普遍的に並んでいた。
「何が言いたいんだろうね、結構難しい論文に見えるけど……」
「《散ることをタイタンが望んだと物語ることは欺瞞であり、ダクリスがダクリスとして生きる上で存在証明を求めた結果である》ここが本題なんじゃないでしょうか」ヒアンシーが論文の一文を指でなぞった。
「そこはとても主観的すぎるから逆に参考にしたらいけないものじゃないかい?」
「いえ、むしろこの論文においてここまで感情的になっているところが気になる点ですね。感情的な反面、事実としてダクリスのもつ習俗を挙げられています。《ダクリスは種族として生命を繋いでいくことを第一義として、生殖活動を儀式として組み込んでいる。最も力を入れているのはシンシュポンと呼ばれる饗宴である》とか……」
「確かに……本人がダクリスではないとしても少なくともダクリスの集落に行ったことがあるとかでないと成立しないかもしれないね」
閲覧席に論文を広げ、眺めた時に真っ先に違和感があった。ファイノンは人差し指で著者名をなぞる。正しくは黒く塗りつぶされた著者名を。
何度も強く塗り重ねられたのか、凹凸がファイノンの人差し指に伝わった。
「『なぜモネータは花は散ることが美しいと定めたのか?パルフォス古代寓話集におけるモネータからの考察』……誰かが意図的に汚したように見えますが、誰から何を隠すために著者名を隠したのでしょうか?」
「……それは、礼拝学派から著者が決別をした証ですよ」
「アグライア!」
「あなたたちは本当にダクリスについて調べているのですね……一体どういった風の吹き回しでしょうか。いえ、愚問ですね。アナクサゴラス、彼ですね。こんなことを始める者は彼の他いませんから」
「それは……そうだね」
「アグライア様はダクリスについてご存じなのでしょうか?」
「ええ。私もダクリスと会ったことがありますよ。ダクリスが身を寄せる神殿へと立ち寄ったことがありますから、その論文に書かれているダクリスの風習や特徴を保証することができます」
アグライアは静かに顔を伏せた。「今はダクリスの里も滅びてしまいましたが」その言葉を聞いて、全員が暗黒の潮のことを想像した。もう存在しないとあればますます神性を見出されてしまうのも想像に硬くない。
「では今は礼拝学派にいらっしゃらない方、いえ、ひょっとするともう樹庭にいらっしゃらないかもしれませんね。ただ、わたしもキャスたんと同じことが気になります」
「……この評価の欄を見ても、センセーショナルな扱いだったようです。礼拝学派から追放された可能性は高いのではないでしょうか」
「あっ!見て、アナイクス先生も評価してるよ。えーと『花は散ることが美しい。かのようにモネータが定義したとするならば、モネータの神託とやらを聞いた者は誰なのか。聞いたことがないのにその前提を見過ごすとはお笑い種ですね』」
「……うーん、アナイクス先生ですねえ」
何もおかしくはないが、あまりの切れ味にファイノンは笑いながら深く頷いた。
「ここまで来ると、エフィーさんはダクリスなんじゃないか? ……アグライア、そうだとしたら道理は通ると思うんだけど、どうかな」
「なぜそう思うのですか、ファイノン」
「確証はないけど……エフィーさんはこの論文の存在を知っていたし、ダクリスのことを迷いなく『生物』といっていたよね。ヒアンシーさんの指摘の通りこれはかなりダクリスについて詳しい。そんなものをアナイクス先生が調べろというんだから何があるよ。一般的にはダクリスはタイタンが憐みから作ったものということになるけど、この論文は明らかにそれの認識に疑問を呈している」
「エフィーたんがダクリスであると仮定すると、わざわざこの論文の存在を知っていながら知種学派の学者をしているのであれば、エフィーたんはダクリスの伝承に否定的なのでしょうか」
「アナイクス先生の元にいるなら神の造物であることを否定したいんじゃないかな、と僕は思う」
ファイノンは腕を組み、紙面を見つめた。
「ああ、それでしたら理屈は通るかもしれません……やや屁理屈じみてはおりますが……」
「つまり、アナイクス先生とエフィーさんはダクリスという伝承に振り回されて秘密の恋人をしているってことになるというのが僕の根本的な理解かな」
最後まで口にすると自然と腑に落ち胃のあたりが熱くなるのを感じた。ファイノンは腕を組みながら頷いた。
「……あなたたちはエフィーとアナクサゴラスの関係を調べているのですか?」
「あっ。いや、うーん、そうだね」
「それでなぜダクリスを調べさせたいのかはいまひとつ理解ができませんが……そうですか、あのヒュポクリテスはようやくエフィーを恋人だと認めるようになったのですね」
「アグライア様はお二人の関係をご存じだったのですか?」
「ええ。彼らと私も知り合って随分と経ちますから……あの男は、あの子の純情をいつまで弄ぶつもりなのかと見ていました」
「も、弄ぶなんて……いくら何でもアナイクス先生でもそんなことしないよ」
「そうでしょうか? あの男は自分の目的のためなら何でも使うでしょう。エフィーのことも実験動物程度に考えていたとしてもおかしくはありません」
「あり得ないと思うよ、だって」
だってアナイクス先生は安心し切った顔でエフィーさんを抱きしめて眠っていたんだから____。
「だって、何ですか。ファイノン」
アグライアから言葉の先を催促されたが、ファイノンはその先を飲み込んだ。眼裏に映し出されたアナイクスの表情はあまりにもあどけなかった。甘えるように胸に顔を寄せて、それに応えるように名前を呼ぶエフィメリア。見ている側の肌が痒くなるような空気は忘れられない。けれど、それを語ってしまうことは憚れた。アナイクスでもかのアグライアに知られたとあれば、絶句するのは目に見えている。
「だって、エフィーさんは嫌なら嫌だっていうだろう?」
「……それが心配なのです」
「ともあれ、アナイクス先生に聞くしかありませんね!今日はもういい時間ですし明日、それぞれの意見をまとめてみるのはいかがでしょう?」
ヒアンシーが明るい声でファァイノンとアグライアの間に割り込んだ。
「なるほど、推理合戦ってことだね!アナイクス先生の前哨戦としてはいいじゃないかな」
「ふふ。そう決まったら実際に明日までにお互いの意見をまとめておきましょう」
「時間はちょうど今日の今頃でいいですか? 各自意見をまとめたり資料を持ってきましょう。待ち合わせはどこにしましょうか……」
「あなたたちが良ければ場所は提供しましょうか」
「そんな……いいのかい?」
「ええ。ちょうどこの奥の部屋をとっておきましょう。個室になっていますから、あなたたちも安心して話すことができるでしょう。これはアナクサゴラスの課題とのことですが、エフィーにも関連する個人的な話ですから、あまり他人の耳に聞かせたいものではありませんし」
そのままアグライアは鍵をヒアンシーに渡した。
「その代わりといっては恐縮ですが、私はその時間は別件が入っているので不在ですので、ぜひあなたたちの回答を聞かせてください」
アグライアは薄く微笑むと硬い靴音だけを残しそのまま去っていった。