愛してるを傷にしたい
ひとつしたの直哉くんはそれはそれはすごいのだと言い聞かされて育った。曰く、“外れ”なわたしと違って、直哉くんはそれはそれは立派で素敵で、これからの禪院家を背負っていく人だと。
そう語った母は禪院の本家筋の生まれで、呪いが見えた。禪院の術式を継いでいたから、京都の本邸にいるのを許されたの。それが口癖だった。わたしはとうの昔に母の顔などもう忘れてしまった。
けれど、母の肩越しに見た朧月がきれいだったことは覚えている。春になったばかりの薄寒い夜で、明日のことが怖いと泣いていたわたし。母は産めど産めど女の子ばかりで、わたしが五つの時に家を追い出された。女腹!あれは誰の声だっただろう。まあ、あくまでも本家筋というだけで、直系ではないのなら扱いは所詮そんなもの。
直哉くんの名前だけを知っていたあのころ、多分、わたしは毎日泣いていた。その隣にいてくれたのは決して母ではなく、兄だった。名前は、甚爾。わたしの兄はふたりいて、どちらも母は違うけれど、確かに彼だけはわたしの家族だった。甚璽くん、甚璽くん、小さなわたしは何度もその名前を読んでは煙たがられた。大晦日の生まれなのに甚爾。漢字は難しくてなかなか覚えられなかったけれど、そのおかげで、わたしは彼の名前を忘れずにいる。
直哉くんの話をする母と、腹違いの兄と、死んだ日常。あの日々のわたしの世界の全て。
あの人たちはどんな風に笑ったのだろう。あの人たちの手のひらの温度はどんなだったかしら。あの人たちはなぜわたしに会いにこなかったのだろうか。思い出せないままだ、兄のことも母のことも。けれど、多分わたしは、自分で思い出そうとすることはないだろう。
「巳晴いうんやろ、自分。にしても可哀想やなあ……お母さんにも置いてかれて、なんもできんしなんももっとらん」
砂利を踏む音。衣擦れ、舌ったらずの幼い声。反面、毒を孕んだ言葉。わたしからすれば母など朧月にすぎない。直哉くんは熱量を持ってわたしの前に現れたたったひとりの神さま。あの春の日がわたしの生まれた日。母についていかなくてよかったとすら思う、だって、よく見えない月なんてなんの足しにだってならないじゃない。だったらわたしは。
直哉くんは知っているかな。直哉くんがわたしを憐れむたびにそれはそれは幸せそうに笑うこと。小さな頃から同じ笑顔のまま。
御当主様にだって、乳母だったわたしの母にも、彼の母君である奥様にだって見せたことのないもの。世界で唯一、わたししか知らない笑顔。
ああ、わたしが側にいなくちゃ直哉くんは笑うことすらできない!わたしのすることなんて皆までいわずともわかった。気づいたとき、確かわたしの手のひらからはお茶碗が落下した。床にぶつかってそのまま弾けるように割れた。お茶碗のかけらを拾い集めるわたしの頭のなかは、直哉くんに傷なんてつけたくない。きれいなままでいて欲しい、そんなことしかなかった。ちまちまと欠片を集めるのを直哉くんは目を細めて見ていた。
「ほんとに巳晴はなんもできへんなあ、お茶碗くらいちゃんと握ってられるやろ?」
直哉くんがわたしの手首をつかんで、くるりと回して手のひらを見る。細かい傷からじわりと滲む紅色。直哉くんが無数の傷を指の腹でなぞる。
「巳晴は目ぇ離したらいつのまにか死んでそうやな。外では生きられんからここにいたほうがええよ」
「……じゃあ直哉くんはわたしの側にいてくれる?」
「勝手に巳晴が死んでも俺は困らんけど、万一、呪いにでもなったら祓いに行くの面倒やし……。ええよ。俺の側にいても」
「本当に?ずぅっっと?」
「俺が巳晴に嘘ついたことあったか?ないやろ」
「うん!これからも直哉くんの傷は全部わたしにやってね。わたしは世界でいちばん直哉くんが大切なの」
人生でいちばんの指切りだった。直哉くんのためだけに生きるのは幸せ。朧月よりも夜闇の方がわたしには必要だったというわけだ。
母のことを忘れたことを悔いたことがない。なぜなら母の不幸よりも己の幸福のほうがずうっと重かったからだ。直哉くんの側にいるだけで、わたしは心臓の音を理解した。わたしと直哉くんがが行動を共にする度、直哉くんが成長してもわたしを側に置こうとする度、周りの視線がわたしに突き刺さった。直哉くんの許嫁の視線はとびきり。けれど何も言わないし何のアクションも起こさない。直哉くんはわたしが傷ついたら烈火の如く怒ると思われているらしい。実際のところは直哉くんは全然気にしないのに。空気の入れ替えをしようと直哉くんの部屋の窓を開けた。障子の向こうは冬めいた夜が足を伸ばしている。月も丸い。
直哉くんの許嫁の帰り際、古めかしい手紙を渡された。書いてある内容は御察しだったけれど、朧月、脈絡もないその単語にわたしはふと視線を止める。
「朧月って春の季語なのよね。直哉くんは知ってた?まあこの手紙は例の許嫁さんからだけれど」
「そうなん?まあ古典にもあの女にも興味ないし、そういうのは巳晴に全部任せるわ。いまは平成やしなんの足しになるんアイツ」
あんな許嫁よりもわたしのほうが直哉くんを理解している。だからこういうことをいうときは、手元に落とした視線を元に戻す。直哉くんの目にはわたしだけが映っている。ふっと笑う。子どもとおんなじ笑い顔。
「にしたって巳晴はかわいそうや。俺がいなきゃこの家で窒息死やん。こんなべっぴんさんなら男のひとりやふたりいてもおかしないのになあ、かわいそうに」
「おもしろいこというわね、直哉くん。わたしにどこかいって欲しい?ううん、野垂れ死ぬならともかく、直哉くんの知らないところで幸せになっていいの?」
いつもは好まれない言葉。けれど、慣れないことで荒んでいる直哉くんの心にはちょうどいい。予想通りふて寝をかまそうとしていた直哉くんはムクリと起き上がる。
つい先月わたしが開けたピアスホールにはめられた金属が黒く光る。直哉くんが開ける!と最初に宣言した時は恐れ多くて首を横に振ってしまった。反射的に身についた術。
けれど、そのあと直哉くんが目をきゅっと狼のように、狛犬のように目を細めて「ほな、違う人に頼もうかな」なんて返すものだから、最初から選択肢などない。
直哉くんの身体に傷をつけるのには抵抗があったけれど、他の誰かに傷を付けられるなんて耐えられなくて、直哉くんの着物の裾を掴んだ。わたしをみて直哉くんは呟いた、巳晴はええ子やね、って。渡したくないから、わたしが頷くと直哉くんは分かっているのだ。
意地悪とは思わない当然だ、全ての選択肢は直哉くんにあるから。あれは、きっと回りくどいことがしたい日だったのだと思う。
「昔、約束したん覚えてるよな?……俺の傷は巳晴のもんやっていう」
ゆっくりと直哉くんの手がわたしに伸びる。直哉くんの手はわたしの意思など関係なく手のひらを上に向けた。そして、薄青く血管の透けた手首を通って、直哉くんの手がわたしの肩に到着する。言いたいことは全部目が教えてくれる、まるで脳に直接言葉を伝達するかの如く。
「今度は巳晴の番やろ?」
口をつぐんだまま瞼を閉じても直哉くんは怒らなかった。むしろ前髪を撫でてくれた。ええ子やね、穏やかな声。
「巳晴はよくできた子や。外では生きていかれへんやろうな、す〜ぐ俺が恋しくて泣いてるのが目に見えるわ」
耳たぶに触れる指は冷たい。わたしは直哉くんに痛い思いをして欲しくない一心でひたすら耳を冷やしたけれど、わたしにはそんなことはしなくていい。直哉くんが思うように、好きに穴を開けて欲しい。
「ん〜、ようわからんな。まあこれで開くんとちゃう?ええよな?」
「直哉くんの好きにして欲しい」
「流石。巳晴は百点満点を出せるって俺は思っとった」
軽い言葉が終わる前に耳元でバチン!という大きな音が鳴った。
「う……あああ、痛ッい熱いいたいあぁ……いたい」
痛くて痛くて痛くて、どうにかなりそうだった。耳を押さえたいのに直哉くんに手首を掴まれてそれも叶わない。目を開けていることすらままならない。それでも薄く開くと眼球を覆っていたらしい涙が重力に従って落下する。痛い痛い痛い痛い。
もうどうにかなってしまいたい。早く楽になりたい。
生まれて初めて直哉くんの手のひらを憎いと思った。これじゃずっと痛いまま。たすけて、掠れた音にもならない言葉がでる。でもそれは喉から辛うじて息がでただけで不発に終わった。
「かわいそうやなあ」
わたしの手首を離して、直哉くんはわたしの頭を彼の胸元へ寄せる。暖かくて安心した。いたい、いたい、いたい、いたいと呼吸と共に繰り返す。きっとわたしの血で着物が汚れてしまうのに、直哉くんの胸で啜り泣くのをやめられない。
「ここでやめとこか。巳晴もこのまま寝てええよ」
涙が止まらなかった。直哉くんがわたしの耳たぶを押さえてくれると少しだけ熱いのは収まった。それでも皮膚に穴が空いたという事実は変わらない。
着物から頬を浮かして直哉くんの顔を仰ぎ見た。笑っている。逆光を背負って黒くなっていたけれど彼は笑っていた。笑ってるならもう痛いのはなんでもいい。それでいい。直哉くんの奥に見える丸い照明が涙でぼやける。お月さまのようだった。
直哉くんの片手がわたしの涙を拭う。その手はわたしの痛みを生んだ犯人とは思えないほど優しかった。開けっ放しの窓から冬の風が吹き込んでくる。けれど、不思議なぐらい、直哉くんからはあの日の春の匂いがした。
「かわいいなあ。……ちゃんと泣くことできたやん」
◇
ゆっくりと瞼を開ける。泣きながら眠ってしまったせいで、上瞼と下瞼を離すのにささやかな抵抗が生まれた。次第に鮮明になる視界は徐々に天井を描き始める。直哉くんの部屋。真四角の3分の2程が部屋がぽっかりと影に覆い尽くされていて、部屋を割るように窓から月明かりがまっすぐ伸びている。
視線をぐるりと巡らせると、月明かりの道すがらに落ちている手のひらがわたしのものではないことに気がついた。
ああ、小さく息を吸う。わたしのものよりも角張っていて、爪は短く切り揃えられて、親指と人差し指だけが赤黒く染まっている。手を伸ばす。ひんやりと冷えた手のひらは一体どちらのものだろうか。幼子のように手を繋いで、わたしはひとり微笑んだ。ああ、これは直哉くんの手だ。
あったかくない、水仕事を知らない、わたしよりも大きな手のひら。
宝物のように両手をそっと直哉くんの手を包んだ。畳の上に布団も出さず肩を上下する直哉くんの顔を覗き込む。
ねえ直哉くん。さっきかわいいって、言ってくれたの?聞き間違いなんかじゃないよね、かわいいって、笑ったよね。たったそれだけのことがわたしの心臓全体に行き渡る。だいすき、直哉くんの目尻に指を伸ばす、なだらかな頰を通って、鼻筋、色の無い唇。ふ、と息が漏れる。ああ、なんて、なんて無防備なんだろうか。
「巳晴、何しとるん?寝込みを襲おうとでもしてたんか?そんなアバズレやとは知らんかったわ」
「……違うわ、ただ……ただ……」
「ただ?」
直哉くんがわたしの手首を捕まえて、ハリボテの笑みを貼り付けた。その顔が嫌いだ。まるで御当主様みたいで。御当主様は直哉くんの御父上だから表情が似ているのは当然ではある。
たとえ血がそうだと言っても、直哉くんにはあんな皺は必要ない。
「ただ、直哉くんが愛おしかっただけよ。寝顔が、昔とおんなじだと安心するものね」
「そういうもんなんか?」
「うん、わたしはそうみたい。直哉くんのことがだいすきなの、今日も明日もきっとずっと」
「じゃあ昨日は俺のこと好きじゃないんか。まあ、俺は巳晴のこと昨日はかわいいと思ったんやけど」
「そうね、昨日は甚爾くんのがすきよ」
ふふ、と笑いながら返すと「つまらんなあ」、と直哉くんが呆れた声を上げる。嘘、嘘、そんなのは嘘よ。甚爾くんが好きだったのは直哉くんに会う前のずうっと昔の話だから。直哉くんの目の中にわたしが映っていて、ただそれだけのことが嬉しくてたまらない。
おもむろに直哉くんが羽織を脱いで、横たわったわたしの身体にかける。脈絡がないし、こんなふうに優しく羽織りを貸してくれるなんて初めてのことだ。
「な、優しいやろ。甚爾くんも大概非情な男やったしな、そういうところはウチの人間らしいわ」
「珍しいね、今日は妬いてるの?」
「妬く、妬かないの次元の話ちゃう。今からでも巳晴の初めて全部俺のもんにしたい、て思っとるだけや」
背中に直哉くんの手が回り込む。ぎゅうと肋骨が粉々になりそうなくらいに直哉くんの胸に身体がおしつけられる。
今更、砂糖菓子や硝子細工みたいに扱って、なんて言えないからわたしも直哉くんの背中に腕を回す。筋肉質で硬い身体。このまま眠ってしまいたい。
「このまま眠ってたい」
「俺はずうっとこのままでもええよ」
「……直哉くんは嫌がるかと思ってた。だって、わたしと心中なんて御免でしょう」
直哉くんの顔を見上げる。直哉くんの角張った指が彼の耳に嵌め込まれた黒い石を取り外す。ピアス。ピアスはちょうど月光の下に飾るように指の中に収まっている。
「それもそうや。でもな、巳晴」
月光浴をした黒い石がわたしの耳元に運ばれる。冷たい指。手が冷たい人は心が優しいなんて希望論をわたしは信じていない。
けれど、逆に死んでいた日々は暖かければいい。
こんな格言が戯言だと願えば、顔も思い出せない人の手の温もりを追い求めなくてすむ。直哉くんの心は冷えていた方がいい。
「これでも俺は、巳晴を愛しとるんや。俺なりの方法で」
だって、心が優しくて、暖かい人はこんなことを言わないもの。
21.04.11