不定の春を並べて
「わ〜悟って手が冷たいのね。肌寒いこの時期には一番嫌な人じゃない!」
偶然掠めた悟の手は酷く冷たかった。わたしの反応にハ?と悟は不愉快そうに顔を歪めた。
「オメーはひとのこと言えるほどあったかいのかよ、ふざけんなばーか」
「事実を言ったまでよ、そんな突っかかることある?」
直哉くんの手がふと脳裏をすぎる。厄介払いのために入れられた高専は、存外、居心地が良かった。少なくとも明日を問題なく迎えられる。
直哉くんとの春だけではなくて、薬品の匂いでいっぱいの硝子の部屋とか、悟と呼びながら彼の長い影を踏むこととか、生きるのが下手な傑の観察だとか、そういうものが綺麗で苦しい。小さな水滴じみた日々が陽光で虹色に光ってあまりにも美しいから、わたしは困っている。ねえ直哉くん、わたしはどうすればいいのかな。会いに行きたいのに、御当主様からも、直哉くん本人からも、同じような指令が下っている。呼び出されるまで帰ってくるな。耳元で黒く光っているピアスを指で弄る。悟は悟でしかない。「悟だものね」小さく呟く。悟じゃ直哉くんの代わりにはなれない。
「ほんと突然なんだよ、好き勝手言いやがって……。いいもんね、手が冷たいのは心があったかい証拠だし?」
「へえ、そんな迷信を信じてるのね。ちょっと意外だわ、悟ってそういうの微塵も興味がないのだと思っていた」
桜並木が綺麗だった。ふわりと淡いピンクの木々から白い花弁が舞い落ちる。悟の白い髪と重なってさらに白く見える。どこでも目立つ髪色をいていると思っていたけれど、こうして桜吹雪の中でみると景色の一部みたいに美しい。ひらりと翻る花弁は金魚の尾びれに似ている。丸い金魚鉢のなかを泳ぐ、ひらひらとした淡い赤のグラデーション。視界の中にない色なのに。直哉くんに見せたくて見せたくて仕方なかった鮮烈な赤の金魚。
ぼんやりと考えていたら、悟が立ち止まってわたしを睨め付けた。その顔がなんとも言えないぐらいに荒れていて、夏の青空に悠々と浮かぶ入道雲にそっくりだった。「青天の霹靂?」そうやって揶揄うと悟は一歩足を前に出してわたしの旋毛を見下ろしてくる。
「は?オマエそれどういう意味だよ、喧嘩なら買うぞ」
「誰が好き好んで五条家の坊と戦いたいと思うのかしらね。ああ……直哉くんのなら挑みそう」
「まあた禪院直哉の話かよ、ほんとオマエはアイツ好きな」
「うん、だいすきよ。世界で一番、だいすき」
悟また、あからさまに口を歪めて、子供がするみたいに歯茎が見えるまでぐにゃぐにゃに変えた。五条悟らしいストレートな表現になんだか心があったかくなった。
「ちなみに俺はアイツのこと嫌いだから」
「じゃあわたしのことも嫌いね、ごめんなさいね、あと十分程度で硝子と傑と合流できるからそれまでの辛抱よ」
「そういう意味じゃねえよ」
「じゃあどういう意味なの?わたしは傑じゃないから悟的ボディランゲージには不慣れなの」
何枚も何枚もわたしと悟の足先に桜の花びらが落ちる。わたしも悟も何も言わずそのまま凍りついていた。心臓が肋骨を折ろうと暴れる。耳が熱くなる。あの夜に、直哉くんに開けてもらったピアスの穴がまだ熱を持ち始めているのがわかった。痛いぐらいに。
「……俺、意外と巳晴のこと嫌いじゃねえけどな。うるせえけど」
「ふふ、奇遇ね。わたしも悟のことは直哉くんと硝子の次ぐらいに好きだったりするよ」
そーかよ。悟の声はらしくなくくぐもっていて、さっきまで待っていてくれたのに、ズンズンと先を歩いていく。白い髪と淡い桜の花弁と高専の制服の黒。耳たぶを触る。硬い石が爪に当たって、ゆっくりと脊椎が冷えていく。直哉くんの耳で光る黒いピアス。
立ち尽くすわたしのポケットで携帯電話がバイブレーションを起こした。肩が跳ねて、慌てて出すと液晶には【五条悟】の文字が狭いパネルの中でくるくる回っている。前を見れば、こちらを見ている悟の顔。積乱雲を取り除いた空って、何色だったっけ。
『もしもし』
「もしもし、巳晴ですけど。……どうしたの」
『別に。巳晴はなにやってんの?傑達もう着いたってさ、いかねえの?』
「なんか、高専って楽しいし、生きてるって感じがしちゃうなって」
『……ハァ?なに、巳晴さんおセンチなの?』
「わたしね、直哉くんを愛していたいの。彼の少年の笑顔を守っていたいの。でもこんな幸せでいいのかな、直哉くんわたしが幸せだったら……」
桜を見れば嫌というほどにあの春の日を思い出してしまう。初めて会ったのはあの春の日で、ずっと聞いていた神さまが人間だったと知った大切な日で。いやでも思い出す。直哉くんはわたしの前で笑った。笑ってくれた、それだけの事実がわたしの心臓なのに。
わたしの視界に影が落ちる。悟の顔がわたしを見ていた。サングラスの向こう側も昼間なのがすごく不思議だった。悟の周りだけが夜に区切られているように見える。黒。悟の手がわたしの頭に伸びる。暖かさを覚える術を持っていないのに、冷たさだけは覚えてしまう。直哉くんは悟の手よりもずっと暖かったのか。
「禪院とかいうクソ家にいたんなら、そりゃ天地の差があるしそりゃビビるだろ。オマエが幸せになったってダメなんかじゃねえだろ」
「……優しいね、悟。直哉くんとは違うや」
悟の青い目がぱちりとひとつ瞬いた。その青は熱を孕んでいるのだろうと空想する。それはきっと青い炎の方が温度が高いことと同じだったらいいのに。どこか懐かしいその色を意識だけが追いかけて、瞼を下ろす。青い目。悟のものより夜めいた色だった。
「おい、置いてくぞ馬鹿!」
振り返った悟の顔は逆光で黒く塗りつぶされていた。甚璽くんの顔をもう思い出せないのとおんなじ。だから、寂しくないよ。
◇
綺麗な春はどこにあるのだろう。春を迎えることができなかった金魚を見てわたしはそう思った。たくさん泣いた。人生で一番、あんなに涙が出ることがあるのかと思うぐらい。直哉くんはわたしに対していつも泣かない、なんでや!と口をへの字にしていたものだけれど。理由はとても単純で。きっとあの日に使い切ってしまったからだ。使い切ったわけでないのなら、甚璽くんがわたしの全ての涙を持っていってしまっただけだろう。赤い金魚との思い出と一緒に。
初めて夏祭りに連れて行ってもらって、色々なことをした。わたあめを食べたし、花火も見た。石段に腰掛けてラムネだって飲んだ。その中でも未だ、鮮明なのが金魚すくい。最初で最後ね、と母と指切りして挑戦したもの。高専に入学してからまた夏祭りへは遊びにいっても、今も金魚すくいはしていない。
「すぐ死ぬぞ、出店の金魚なんて。こんなもん見ればわかるだろ」
そう言ったのは甚璽くんで、直哉くんに見せれるといいね、と言ったのが母だ。当時のわたしにしてみれば直哉くんは『会う』という概念の外側にいる人だったから、夢物語のように聞いていた。
そして実際直哉くんに見せることは叶わないまま金魚は冬、死んだ。甚璽くんの言っている通りだったわけだ。けれどもわたしは泣いた。気がついたのは夜で、部屋の角で泣いていた。ぐすぐす鼻を鳴らすわたしの手を取ってくれた甚璽くんは、本当の兄のようだった。
それでも体温だけが思い出せない。
「出店の金魚にしては往生だろ」
甚璽くんはわたしの手を引いて、大きな木の下まで連れて来てくれた。多分、わたしが大泣きしてうるさかったんだろうと思う。その時の甚璽くんのことはよく覚えている。どこだったとか、どんな木だったかとか、わたしがなんて言ったかとかそんなことは全く記憶にないのに、その日の甚璽くんは特別だったことだけを覚えている。
「そもそもみんな死ぬし気にしなくても慣れる。あーほら、泣くなようっせえな……」
あの日のわたしはどうして泣いていたんだろう。どうしてあんなに涙が出たんだろう。あれほど泣いたことなんて人生で指折り数えるほどしかない。
街灯もない真っ暗闇の夜。わたしと甚璽くんの影も全部地面に飲み込まれている。小さなわたしはそれには全く恐怖がなかったのに。
「巳晴。何もしないなら電気消すけど、いい?」
ホットミルクの入ったマグカップを抱えたまま物思いに沈むわたしに照明のスイッチに手をかけた硝子が声をかける。廊下で行き倒れているわたしを拾ってくれたのが最初だ。たしかに直哉くんの言う通りわたしは一人では生きていけないなあと思っていたからちょっと安心した。あったかくて、穏やかな硝子。朧月のような母よりもあったかい白熱電球のような硝子のことが大好きだ。でもわたしは夜が怖くない。
「……いいよ。むしろ暗い方がいいなあ、安心するから」
「あー、いつものか。なに?今は何を悩んでるわけ?話してみんさいよ」
「昔、夏祭りで金魚すくいをしたの。まあそこそこ長生きしたけど死んじゃって、金魚の死体を埋めたんだけど。……わたし、どうして泣いたんだろうなって」
「あはは、巳晴らしいガキっぽい話だね」
「それ褒めてる?」
「褒めてるよ。巳晴のそういうところ私結構気に入ってるんだよ。まあ多分あのクズふたりも」
そう笑って硝子は照明を消す。当然、黒がどっと押し寄せて足首まで影に浸かる。マグカップに残っていたホットミルクを一気に飲み干す。机にマグカップを置いてベットのほうまで歩く。
硝子は硝子で部屋の窓を開けて、萎びた箱からタバコを取り出した。その横顔はどこからか伸びてくるオレンジ色の光に照らされてどこか色っぽかった。
百均で買った蛍光色のライターをカチカチを指先で弄るその所作に吸い寄せられるようにして枕を放り投げる。わたしの視線に沿うように硝子も視線を上げる。タバコの先だけが赤く色づいていて、それ以外は全て色を失っている。金魚の尾ひれのように紫煙が硝子の周囲を漂う。わたしの手は真っ白な硝子の手首を掴む。
「硝子、わたしにも一本ちょうだい」
「え〜やだよ。だってあと2本しかないし」
「二本もあるじゃない、いいでしょ?今更年齢の話なんて野暮でしょ」
すきと言う気持ちはよくわからない。直哉くんのために生きていて、それが幸せだった。直哉くんがいなくなったら呼吸の方法すら忘れるのが一番。わたしは直哉くんのあの笑顔を守りたい。なのに、わたしは硝子の部屋に入り浸って硝子と同じように服に紫煙を吸い込ませることばかりしようと思うのだ。
月夜のなか、一瞬のうちに粉々になってしまいそうなほどに弱いのに、決して硝子はそうならないという立ち姿をしている。紫煙を燻らせて、まつげをふせて、死を纏いながら生きている。そんな人、わたしは硝子しか知らない。
「硝子」
焦ったくて名前を呼ぶ。障壁ともいうかのようにとぐろをまく煙の中に入って、顔を寄せる。それから、やっと、硝子は口からタバコを離して、わたしを横目で見た。
「ねえ、硝子ったら、え、わ」
答えのかわりに硝子は息を吐いた。タバコの煙が顔にぶつかってくる。顔にかけてくるほど鬱陶しかったのか。思考がまとまらないまま、煙が晴れる。ごめん、謝るために用意した言葉は音にしたつもりで、終わった。
ああ、キスだ。わたしの視界は全て硝子で塗りつぶされ、ゆっくりと硝子の顔が遠のいていくのを眺めて、やっとわたしは何をされたのか理解した。キス。なんとなく生まれて初めてのキスは直哉くんになるのかなあ、なんて漠然と考えていた、けれど。
「あはは、巳晴。嫌なら嫌って言ったほうがいいよ?五条におんなじことされたらどうすんの」
「……嫌そうな顔に見える?」
逆光の中で硝子は今にも消えそうに笑う。みんなはわたしを子供だというけれど、わからないほどに幼くない。
硝子の輪郭だけがぼんやりと光っていて、鼻筋や目尻や二重の線や長い睫毛はより暗くなっていた。
窓の隙間から風が吹いてわたしの髪と硝子の髪を揺らす。花びらのようには散らない。立ち込めていた紫煙が消えていくような錯覚がする。ああ、これは、春の匂いだ。
ねえ直哉くん。
これこそが恋だというのなら、きっと死ぬまで、わたし硝子の手を握らないわ。巳晴、硝子がわたしを呼ぶ。世界で一番がふたりいるなんておかしいかな、それでもそう思ってしまった。
「嫌じゃないよ、ねえ、もういっかいしよう」
「……いいよ。一緒に大人にでもなる?」
21.04.11