綿菓子の呪い


「硝子、おはよう」
硝子の名前を呼ぶときの声が一番わたしらしい声だと思う。わたしの声を受けた硝子は早々にベットからでていて、細く開けた窓の前で紫煙を燻らせている。
 まっすぐ朝日を浴びた横顔は夜の面影などどこにも無かった。同じ場所で同じ人間が同じ煙草を吹かしているのに、まるで違う印象を持つ。淡い光の中で法律違反を堂々とする硝子の横顔が愛おしい。
 硝子はキスはするくせに、わたしに煙草を吸わせない。どうして?その問いはわたしの脊椎に隠した。聞きたいけれど、きっとそれの答えはわたしから硝子を奪っていく気がした。わたしだって硝子に手を繋がない理由を聞かれたらもう二度とこの部屋に来ることはないだろう。だからわたしと硝子はふたりで一緒にいるのに、いつだって孤独だった。肩の体温。およそ36度。半分こされて色が薄くなるルージュ。硝子の剥き出しの背中をなぞるわたしの手。布団からはみ出す踝。
 ねえ直哉くん。きっと、わたしと硝子のふたりきりじゃ、きっと幸せになんかなれないね。
 直哉くんが知らないわたしなんてあってはならないのに、わたしは硝子との日々を手放せない。不幸せを望むから、創り出すから、必ず直哉くんのところで帰るから、だから、いまはまだここにいたい。夜なんか来ないで平気だよ。わたしは直哉くんに願う。わたしの声が届いたことがあるとかないとかそういう問題じゃない。緩やかな、数値の狂った信仰だとしてもわたしはこれしかもたない。そうして生きると決めている。
「台所借りるね。あ、硝子もなんか飲む?」
「コーヒー」
「わかった、インスタントでいいよね?朝だし」
 いいよ、というように硝子は視線をこちらに一つよこした。昨日机に出しっぱなしだったお揃いのマグカップを水で濯いで並べた。一つにはホットミルク。もう一方にはコーヒーの粉。たった一つだけのコンロに銀色のヤカンをおいて、わたしは伸びをした。朝の背筋が伸びる感じは昔から好きだ。わたしがそういうたびに、直哉くんは信じられへん、と眉根を寄せるのだ。
「……いつも硝子ってコーヒーばかり飲むけれど、そんな美味しいの?」
「コーヒーくらい試してみれば?今は実家じゃないんだから自由は利くでしょ。……ナオヤ、だっけ、そいつに飲むなとか言われてるわけじゃないなら別に」
「それはそうだけど……」
「飲んでみなよ。おもしろそうだし」
「もう、なにそれ。わたしで遊ぼうとしてるでしょ!遊ばれるのは御免だからやめておくわ」
 硝子が立ち上がる。膝にかけてあったブランケットがするりとフローリングの板間に落ちる。夜にはいつもふたりでくるまっている小さなブランケット。それはわたしたちにちょうどよかった。大きさとか触りごごちとかだけじゃない。だって、身体が冷え切らないよう肩にかけることが目的だったから。わたしたちは温まりたくなんかない、冷たいままでいたい。
 前から入る他人行儀な空気はわたしの足の裏を冷やす。暖かさでいうならば、直哉くんに彼の羽織をかけてもらったときの方が暖かった。それを望んでいた。結局、ただくっついているだけでなにも生み出しはしない。たったそれだけなのに、それだけが愛おしくて。ああでも!直哉くん、どうか……怒らないでね。
「……巳晴、今日は夏油と一緒の任務でしょ。充電しとく?」
「する!でも朝から硝子が優しいのは空から槍でも振りそうで不安ね」
「そんなこといわれんなら、前言撤回しようかな」
「ごめんなさい何でもないです調子のりましたもうしません」
「ならばよし」
 ん、と両手を広げた硝子の胸に飛び込む。柔らかくて、細くて、肋骨は痛くない。硝子の匂いを胸いっぱいに吸い込む。石鹸の爽やかな匂いと煙草のキツイ匂いが混ざって混沌としている。硝子は砂糖菓子で直哉くんは綿菓子に似ていると思う。直哉くんは側から見れば美しいけれど、食べていくうちに全くイメージと違ったと思い知るのだ。小さなザラメから糸をひいて、それから綿になる。ねえ直哉くん、いつか、いつかでいいから一緒に夏祭りにいけるといいね。
「……ねえ、巳晴」
 硝子の手がわたしの首筋を撫でた。首の骨の形を確認するように幾度となく皮膚の凹凸を往復した。世間話のように。内緒話のように。
「いま、誰のことを考えてる?」



 胸騒ぎがした。
 第六感と呼ぶにはお粗末で、虫の知らせと呼ぶには甘すぎる唾液だった。喉がおかしくなってしまったのかもしれない、と思った。朝に起きたなら誰かに声をかけてもよかったが、あいにく今は真夜中。どうしたものか、と喉の甘さと格闘する。
 真っ白な白い箱を手に取る。
 『特別』
 その漢字2文字しか当てはまらないもの。恋人ではないし好いひとというわけでもないけれど、形容できないほどに、特別だった。代わりなどいない。きっと周りが聞いたら呆れて見せるだろうか、その感情は信仰によく似ていた。いや、偶像だったのかもしれない。
 ああそうか、いちばん近いとするなら。春。あれは春なんだ。



「巳晴。巳晴、起きとるか?」
 直哉くんがわたしを呼ぶ。ハッとして窓の方を振り向く。もう夜と呼ぶには薄明るい時間に直哉くんはわたしを訪れた。あまりに早い「おはよう」を告げ、呑気に欠伸をかます直哉くんに呆然を見る。ぴょこんとはねる寝癖を見つけてしまって、思わず手が伸びる。寝巻きのまま立っている直哉くんは手を擦り合わせると、窓に足を引っ掛けてわたしの部屋に乗り上げる。
「なにかあったの?」
「ん〜ん。なんもないよ?あかんかった?」
「いや、直哉くんがこんな時間にくるんなんて珍しいから……。すこし身構えてしまって」
「巳晴が心配することなんもあらへんよ」
 けらけらと笑う直哉くんの表情は奥様によく似ていた。嘘くさい笑みを見ていられなくて、畳に落ちた影法師の鼻先をつついた。見てられない。わたしはその笑顔が嫌いだ。秋と同じぐらいに、大嫌い。
「いいもんあるんやけど、手ぇ出してみ」
 声に振り返れば直哉くんがわたしとの距離を詰める。鼻先が掠れそうなくらいに近い。言われるがまま、ゆめうつつで手を差し出す。畳に落ちた影は真っ黒に塗りつぶされていて、夜の遺骸のようだった。直哉くんはわたしの手のひらを丁寧に掬い上げて、何を思ったのか、彼の手のひらとぴったりと重ねた。直哉くんの指は一本一本が角張っていて、わたしの手とは全く異なっている。別の生き物なのだという理解が直哉の成長の感動を追い越していった。
 これからもっと直哉くんの身体は大きくなるし、ますます立派になるのだろう。今よりももっと力がついて、品格と教養をみにつけていく。直哉くん、直哉くん、お願いだからわたしをひとりにしないでね。わたしよりも先に死なないで。神さまなんか信じてないのに、直哉くんをわたしの神さまを取られなくて、わたしは願う。偽者の仏像へ手を重ねる。地蔵の雪を払う。思い込みでキツネを撃つ。
 直哉くんの唇から言葉が落下した。
 きれいな手やな。
 耳が拾い上げた七音は柔らかな音をしていた。朧月が纏う白い絹のような。指と指の間をサラサラと通っていく、あの感覚。
「……巳晴はそのままでいてええよ。世間知らずで、呪いのことなんか何も知らんままで問題ない」
 なんの言葉も出ない。こういう時に限って喉は乾燥した空気ばかり吸い込んで喉に引っかかって、痰がせり上がってくる。口の中が甘くなる。わたしの知らない直哉くんの声、言葉。どうして?ねえ、なんできれいだなんていうの?今まで一度だってそんな声を出してくれたことなかったじゃない。『べっぴんさんや』そうやって褒める声はいつだって録音のように注意深くて、振っても空っぽ。ゆえに、意味をなさない。
「これは御守りや」
 直哉くんは満足そうにわたしの耳たぶを掴む。ピアスを開けてもらったときのことがふと脳裏を巡った。反射的にぎゅ、と目を瞑る。当然ながら、痛みが走ることはない。直哉くんがあはは、と笑った。わたしの挙動不審具合が面白かったようで。
「俺の見立て通りやなあ、似合っとる」
 満足そうにわたしの耳を見てから、直哉くんはわたしの手のひらになにかを握らせる。直哉くんの手のひらが離れて、わたしの首裏を撫でる。ゆっくりと力を抜いていく。手のひら。生温い。硬い。皮膚に引っかかってくる感覚。真っ黒な無機質なピアス。
「気づいたんか?さっきも言ったけどそれは御守りや。これがあれば巳晴がどこ行ってもどこいるかわかって便利と思ってん」
 白い箱を揺らす。中身は皆まで言われなくてもわかった。力の抜けた手を耳に運ぶ。カツン、と爪とガラスの音が鳴る。
「……どうして、今日だったの?」
「そんなことどうでもええねん。なあ、桜って、巳晴に似てると思わん?」
「それは……褒め言葉って受け取っても構わない?」
 春なのは直哉くんの方じゃない。薄情で、世界で一番色鮮やかな。桜吹雪に埋もれて神様が連れていく。
「さあ?でも見た瞬間巳晴やと思ったんや、それ。春といえば巳晴やろ?って。こういう淡い色も合うしな。ウチの人間にしては珍しく」
 昔から直哉くんは思い出したかのようにわたしの容姿をウチでは珍しい、と評する。わたしも禪院家の人間らしく黒髪で同じような彩度の肌色なのに。わたしの容姿は甚璽くんや扇さまのところの双子と大きな差はない。直哉くんはそれでも言うのだ、巳晴は違う。それが不思議で仕方なかった。
「今日は何でもない日でしょう?」
「そうやね。なんもない、でも、ちょっとな言っとこかと」
 決まり悪そうに視線が泳ぐ。いつもの直哉くんと違って、微かに睫毛が震える。生理的な瞬きというよりも、何か感情を隠すような所作。
「特別。巳晴は特別や、思っとる。好きとか愛してるとかそういうのじゃなくてな」
「わかってる。わたしにとっても直哉くんは特別な人だよ。そうじゃなければ、きっと、体温だって覚えていられないもの」
 ねえ直哉くん。心の中で直哉くんを呼ぶ。願うように、信仰するように、愛するために。きみは呪術を知らなくていいというけれど、禪院なんて呪われた血に呪術を知らず生きる術があるものなのかしら。きっとそんなこと、一片の雲を掴むのと同じだわ。
「巳晴がどこで死んでも、俺だけはぜったいにわかる」
 愛とは即ち呪いだ。しかしこの感情は恋でもないし愛でもない。桜の散らぬ春を夢想する部屋の住人。それがわたしと直哉くんだった。ただ同じ屋根の下にいると言うだけで、お互い、心のつくりを全く理解できていない。
 次の春はいつ来るだろう。四季があるのに、いつだって意識が春だけに向いている。
「じゃあ、ずうっと大切にするわ。ずうっっとよ」
 ねえ、直哉くん。



 胸騒ぎがした。
 それは第六感と呼ぶにはお粗末で、虫の知らせと呼ぶにはあまりに甘すぎた。鏡に映るわたしの顔色は悪くなかった。けれども次から次から喉からせりあがる痰は甘いまま。
 喉がおかしくなってしまったのかもしれない。きっとそうだ。首、硝子の触れたのと同じところをなぞる。ああ、どうすることもない。清潔で健全な皮膚。
 真っ白な白い箱を手に取る。『特別』、その漢字2文字しか当てはまらないもの。恋人ではないし好いひとというわけでもないけれど、形容できないほどに、特別だった。ああそうか、いちばん近いとするなら。春。あれは春なんだ。

 禪院直哉は、わたしの知る唯一の季節だった。

 桜を形どったガラス細工のピアスは、普段使いにするには少々重たい。だから胸騒ぎが取れない日だけ使っていた。奇しくも、今日はそうらしかった。傑と悟と京都で任務。その条件から導かれる答えはひとつしかない。
 直哉くんの言葉が脳内で鈍く響く。たくさんあるはずなのに、頭が割れそうなぐらいにたったひとつの単語が鳴っている。特別、特別、特別、特別、特別。
 ああ。せめて、せめて直哉くんへの感情が恋であったなら、わたしはあの春の明朝に死んでしまえたのに!愛しい人が首をなぞる所作に瞼を下ろせたはずだった。わたしは正しい唯一の意味を知ることなく死ぬ。けれど、それでいいのだ。直哉くんのために死ぬことを神さまに願ったのはわたしだ。
 わたしはピアス穴に春を固定した。

21.04.11