手放すまでの長い話


「よるさん、起きてるならちょっと付き合ってください」

疲れた顔をした恵ちゃんがわたしに、小さな箱を突き出した。時刻は午後11時過ぎ。こんな時間になんの用事だろうかと恵ちゃんの翡翠を見つめるけれど、痺れを切らした恵ちゃんが「よるさん」と眉根を寄せる。子供っぽいその所作がなんだかかわいくて、ふふ、と笑って恵ちゃんを部屋に招き入れた。

「よるさん俺の部屋をシンプルだなんだっていいますけど、先輩の方がなにもないですよね」
「寝に帰るだけだしね。いやでも一応、写真と紅茶のはある」

天井を指差して、ちょっと誇らしげにいって見る。フローリング剥き出しの床に胡座をかいた恵ちゃんの視線も天井に向いて「そうですね」と目を細めて相槌を打つ。備え付けられた換気扇とカセットコンロを回しての火をつける。さっき恵ちゃんが手渡した中身を開けようと、指をかけると、ふわりとバニラの香りがした。

「手伝うことありますか?」
「あ、じゃあ包み開けてくれると嬉しい。中身はケーキ?」
「……まぁ。先輩、今日なんの日だかわかってます?」
「今日?」

恵ちゃんの問いも気にはなったけれど、コンロにかけたやかんを確認する。まだ時間はありそうだ。ひと安心して、茶葉とカップをふたつ取り出そうと、高い位置にある棚を開く。
少し背伸びをしているわたしの後ろから、恵ちゃんが「よるさん」と呼んでくる。正直今はそれのかまっている余裕はない。わたしだってそこまで究極のチビというわけではないけれど、瀬戸物のカップをふたつ取り出すのはちょっと怖いのだ。

「俺がとります。これでいいんですよね」

大きな手がひょい、とわたしの手を追い越して目的のカップを掴む。わたしのものよりも骨張っていて、爪が四角い。恵ちゃんってこんなだっけ。もっと、もっとかわいい子だったような気がする。でも変化なんてするほど時間は経ってない。ほんの数日前までかわいい後輩だったのに。なんで。
どくどくどくと心臓は早鐘を打っている。これ以上打ったら壊れてしまいそうなのに、背中にあたる恵ちゃんの温もりが心地よくて、ああ、幸せだなぁなんて思うわたしもいる。

「……なんかすごく今日は大人しいですね、いつもの威勢はどこやったんですか」
「わたしがいろいろやると怒るのに……」
「よるさんは両極端なもんしか知らないんですか?バランス覚えてください」

「無茶振りするなぁ」とひとりごちるわたしに恵ちゃんは「俺の前だけでいいですよ別に」と優しく囁く。いつもわたしには恵ちゃんは優しいし、甘い。その甘いところはわたしにだけ見せてね。と言おうとして、その言葉だけは飲み込んだ。とっくのとうに春が来るのを認めたはずなのに。

「ごめんだけど、ちょっと離れて。お湯沸騰しちゃうから」

振り返ってわたしの背後に立つ恵ちゃんに、さっき座っていたあたりを指差す。瀬戸物のカップをわたして背中を押すと、面倒くさそうな顔をして、わたしから離れた。

「よるさん、今日は3月14日ですね」
「あ」

カップにお湯を注いでいる手が、一瞬静止する。恵ちゃんが「危ないですよ」と冷たい目でこちらを見て、顎で手元を示した。ヤンキーか。恵ちゃんに言ったら間違いなくキレられてしまうことを思いながら零すことなくカップ二つにお湯を注ぐ。

「あと、1分半ぐらいだけ待ってね」
「よるさんは、紅茶すきですね。ほんと」
「うん。……恵ちゃんのこともすき」

自分の方にカップを動かしていた恵ちゃんがなにかを呟いたけれど、生憎わたしには聞こえなかった。でも、多分、なんとなくわかる。

「わぁ……!バームクーヘンだ。わたし初めて食べる」
「そうなんですか?」

こくり、と頷くわたしを横目に恵ちゃんは、そっとプラスチックのナイフを取り出す。どうやら一緒にもっと来ていたらしい。器用に切り分けていく恵ちゃんにの手元をじっと見つめる。

「……いや、そんなみられるとやりづらいんですけど」
「記憶違いならあれなんだけど、わたし、バレンタイン恵ちゃんに何かあげた?」
「いえなにも」

即答する恵ちゃんにだよねぇ、と同意すると呆れたような溜息がつづいた。

「もらってませんけど、まぁ、あげたいと思ったんで」
「お菓子を?」
「いや、バームクーヘン」

はて、と首を傾げた。取り分けたバームクーヘンの切れ端をさらに取り分けて、恵ちゃんがこちらに差し出す。翡翠の瞳をじっと見つめると、気恥ずかしそうに揺れて、それからぼそりと言った。

「幸せが続くようにって、贈るらしいです」
「……そういうのさ、わたしにだけいってね恵ちゃん」

目の前にいる恵ちゃんが愛おしくてかわいくて、でもかっこいいと思うけれど、これこそわたしのうちに秘めておこう。

20.03.14