春が来るのはあなたのせいです
春が来る。もうそこまできていて、いまかいまかとその青でわたしたちを包み込むのを待っている。包み込んだって、風のように髪を乱して去っていくだけのくせに。結局わたしはひとりで砂浜で朝焼けを見るだけなのに、時間はいつだって進んでいて、わたしの掌から落ちていく。砂時計を発明した人はなかなか洒落がきいている、ほら、わたしにとって時間は砂のようで、空間は砂浜だったから。
「もう春が来ちゃうね」
わたしの左側でコーヒーを呷る恵ちゃんが「そうですね」と睫毛を伏せた。紅茶に角砂糖を入れたわたしは、ははと笑ってアンニュイな恵ちゃんの肩にぴったりとくっつく。いつもならやめろだの、揶揄うなだの文句をいう恵ちゃんは近頃わたしになにも言わなくなってしまった。なにも言わない代わりに、わたしの前髪を指で梳く。理由は聞いてもはぐらかされてしまう。
「春は嫌いですか?……よるさんにとって季節の変化ってどんなもんなんですか」
「それはわたしの情緒的な話?」
「アンタにそういう風情のある話ができるとはおもってません」
「じゃあ術式的なやつ?」
仏頂面で恵ちゃんは頷く。結えたわたしの髪に手を伸ばして、丸まった毛先を弾いて遊び出す手を払う。今まではわたしがちょっかいをだす側だったのに。恵ちゃんの部屋はものがあまりない。ベットと、本。クッションだって二個しかない。最初にここにきたときはクッションはひとつだったなぁ、なんて時間の移ろいを感じる。膝の上の淡い紫色のコットン生地のクッションを撫でながら、恵ちゃんはらしくないというだろうロマンチックなことを思ってみる。口に出しはしないけれど。
「ん〜、術式っていってもね。季節の変化は全く関係ないかなぁ」
クッションを濡らさないように、伸ばした足の膝小僧のあたりまで除けてから、マグカップで揺れる琥珀色の液体をゆらゆら揺らす。春は、あまりすきではない。理由は、なんだろう。
「そういうもんですか?」
「うん。あくまでも……砂みたいな、小さなものが積み重なって道のようになっているものが時空なの」
「普通は前にしかいけないみたいな感じですか」
「そうそう。よくわかったね?」
「見てればわかります」
いつだって、春はわたしを置いていく。
「わかります」なんて、前は絶対言わなかった言葉を吐いて、いつもどおりコーヒーを飲む恵ちゃんの横顔に、わたしは言葉を失った。きっと恵ちゃんがわたしの顔を見たのなら「なんて顔ですか」とため息をつくだろう。
変わったねぇ、とふとこぼれた言葉は恵ちゃんに届いただろうか。変わらないはずはない、だって、ほら。恵ちゃんがわたしを部屋になにも言わずに入れてくれるようになった。わたしが恵ちゃんにくっついても当然だろ、と言わんばかりの視線しかくれない。
「なんでわたしの術式ことをそんなに知りたいの?」
恵ちゃんもわたしを置いていくの?重たい言葉の代わりに、下手くそな口は三日月みたいに弧を描いた。恵ちゃんは自分のマグカップを見下ろして、そのままぐい、と一気に飲み干す。そして、マグカップをローテーブルにドン、と音を立てて置く。ゆらりと立ち上がって翡翠の瞳が、テレビの報道番組ように事務的にわたしを映している。わたしは一連の動作をただ見守るばかりで「恵ちゃん?」と名前を呼ぶのでいっぱいいっぱいだった。
「……あのですね。すきなんですよ、俺は。よるさんが」
まっすぐ。一直線。どこからでも綺麗に半分になる。いつだって歪んだ正しさを追い求めている正方形。4つの角は全部同じ度数を持っている。なのに、だれかを傷つけることは宿命づけられている。はじめて見た時から、わたしは恵ちゃんがそれにしか見えなかったの。
「だからなんで」
「アンタがなにを考えんのか、俺は全くわかんねぇ。……それが嫌だし、よるさんに聞かなきゃ一生見つかんないです」
「恵ちゃん」
「いつだってよるさんはのらりくらりとかわすし。なにが俺は正方形だ。意味わんねぇっての!」
「恵ちゃん」
紅茶も、クッションも、もうどうだってよかった。全部放り出して、今にも泣き出しそうな恵ちゃんを抱きしめる。泣かないで、置いていかないで。自由のきく腕は恵ちゃんの背中をゆっくりと撫でる。肩口に顔を埋める。とくとくとくと耳に反響してくる心臓の音は、ふたつとも早かった。
「泣かないで。お願いだから、泣いたら困る」
「泣いてません」
「嘘だ。泣きそうだったじゃない」
心臓の音が重なって、もうどちらのものがわからない。ひとつの生物になったみたい。そのまま恵ちゃんの腕がぎゅうと、わたしを優しく包み込むものだから、もう、ほんと、困った。ああもう。春が来るぐらいなら、わたしを恵ちゃんが置いていくぐらいなら、一緒こなくていいのに。
「わたし、男に最期を決めてもらうほどヤワな女じゃないの」
正しさなんてわたしにはもうわからない。ほんとはきっと恵ちゃんが泣くことよりも、部屋を汚さないことのが正しいのだろうと思う。けれど、そちらを選ぶぐらいならわたしは悪役でいいし、間違えていても構わない。
「知ってますよ」
落ち着いた声が返ってくる。上等だ、さすがはわたしのかわいい後輩。わたしのすきな人はいつだってこうなので、今更ときめくことも、呆れることもない。わたしはもう春が来るのが怖くないよ。
「春が来る責任とってよ、恵ちゃん。わたしひとりだけ、群青色のなかに取り残されるのはちょっと無理」
「遠回しすぎて微塵もわかんねぇ」
ひっぺがされて、最初に目に入ったのは恵ちゃんの細められた翡翠色の瞳だった。それを縁取るように長い睫毛が影を作っている。綺麗とは、きっと相手の睫毛の1本1本まで余すことなく愛せることなのかもしれない。
「……恵ちゃんがすき」
恵ちゃんの左手をたぐり寄せて、ギュッと握りこむ。部屋にはほのかに春摘みのダージリンらしい甘い香りが漂っている。普通の部屋なのに、雨上がりの屋外のようにすっきりとした香りが鼻をくすぐるのがおかしい。わたしたちを取り巻く色、群青色もなんでもが美しい色でありますように。ここに春色が広がるのはあなたのせいです。
20.03.07