マリア様は眠いらしい
「青い鳥って知ってる?」
わたしの唐突な話題に、真希は顔をしかめた。メガネのレンズの向こうで切れ長の目が、すっと細まりわたしを見下ろす。だからなんだよ、という視線に首を竦めて、逃げるようにホテルのベランダに逃げ出した。
雨上がりの空気が肌にまとわりつくような気がする。少しだけ昔のことを思い出して悲しくなる。そこそこな高さに位置する部屋であるけれど、目の前はオーシャンビューでもなければ山が鬱蒼と覆い尽くしているわけでもない。見えるのは街灯とほのかな月明かりで暴かれるグレーの駐車場ぐらいなもの。手すりに肘をついて、わたしは左手の時計に溜息を溢す。
時刻、11時28分。約束の時間は11時。けれども待ち人からの電話は来ない。焦ったくなって、わたしはスマホの電話帳の『伏黒恵』の文字を睨む。
電話をくれる?と聞いたときのめんどくさいと眉根に寄ったシワを思い出す。けれど、恵ちゃんは素直じゃないから、だから、そんなのは照れ隠しだってことも知っている。だから彼は電話をくれるはずだ。
もし、もし。電話をかけたら恵ちゃんはどんな声をあげるだろう。こんな時間になってもかけて来ないってことは、任務が終了してないかもしれないし、疲れ果てちゃったのかもしれない。結局は迷惑をかけるだけな気がする。でも、でも。もし、よるさんと恵ちゃんが呼んでくれるなら。
まるでスマホの画面からなにかの波動が出ているかのように、触れそうで触れないような距離で爪先が漂う。偶然に期待するなんて恵ちゃんには呆れられちゃうかな。後ろからカララと軽い音がして、ベランダに続く窓が開く。振り返れば、髪を下ろして眼鏡を取った真希が、わたしを呼ぶ。
「よるも早く寝ろよ」
「はーい」
間延びした返事に「つきあってらんねぇ」とだけ呟いて、真希はわたしを置いてベッドへ潜り込む。真希の切れ長の目を見たおかげでわたしはどうしようもなく、恵ちゃんが恋しい。あいたい。明日は恵ちゃんも帰るって言ってたし、会いたい。ほんとは今すぐ会いたい。
散々迷っていたのが冗談みたいに、するりとわたしの指は動いて、数列タップした。プルルルル、電子音。この電子音が、留守電を入れるか聞いてくるまで、それまで待とう。いち、にい、さん、よん。
「……もしもし」
だいすきな人の声が電話口から聞こえて、わたしは反射的に姿勢を正した。携帯を通して聞こえる恵ちゃんの声は恵ちゃんの声のようで恵ちゃんの声ではない。確か、電話から聞こえる声は電話会社が似たもの用意しているだけで、本人のものではないんだったか。昔どこかで読んだ小説を思い出して、口元が綻んだ。
「もしもし、よるです」
「……」
「も〜、電話での決まり文句じゃん。スピーキング!」
「ここは日本なんで最後いらないですよね」
中学の英語の教科書にあった電話での決まり文句を口にすれば呆れたような声が返ってくる。例え、声が借り物でも恵ちゃんと私は話している。
「で、なんかありました?」
「それはこっちのセリフ。もうそろそろ日付変わるのに連絡ないし」
「まぁ、そうですね。いろいろあってちょっと手間取ってます」
恵ちゃんからそんな素直な言葉が聞けるとは思ってなかったので、ふふ、と声が漏れる。なんですか、と不満げな声が上がって「かわいいなぁって」なんて返せばいつもどおり子供っぽ恵ちゃんは言葉に詰まる。
「何かあったの?先輩に相談してみなさい」
「アンタにいっても」
「ひど。これでも一級推薦もらえそうなのに」
「……やっぱいいです」
「ええ。なに?また死にかけたりとかした?」
沈黙。こういう時の恵ちゃんの沈黙は100%肯定だ。またか。悟が一人で任務に行かせるのを不安がるのももっともだ。理解するのに時間がかかる、というかわたしも恵ちゃんが何の任務で仙台へいったのか知らないというのはある。あるけれど。
「恵ちゃんはさぁ、直さないとだめだよそういうところ」
「毎度毎度傷だらけの先輩がいえますか」
「ごもっとも」
疲れきった声にお疲れ様と声をかけると、ありがとうございます。と随分と素直な返答が聞こえた。恵ちゃんが帰ってきたら存分に抱きしめようと決めた。多分嫌がられるけれど。
「ところで、恵ちゃんは青い鳥って知ってる?」
「よるさんっていつも突然ですよね。知ってますけど」
「ふは。ま、否定はしない」
「それで青い鳥がどうしたんですか?呪術関係ないでしょ」
「いやぁなんでチルチルとミチルは家にいる青い鳥がホンモノって分かったんだろうね?」
「そういう話だから」
即答されてしまってはつまらない。恵ちゃんの答えが聞きたかった。聞かなきゃいけないような気がした。
「ほんとうのさいわいそのものであった青い鳥を恵ちゃんならどうする?」
「違うはなしになってますがそれ」
「いーのいーの。似たようなもんでしょ」
「宮澤賢治とメーテルリンクに謝れ」
恵ちゃんのツッコミが思いのよらぬ方向からきて、笑いがこみ上げて肩を振るわせた。一方で恥ずかしかったのか恵ちゃんはシン、と沈黙を図る。そんな逃げないでほしい。だた聞きたいだけなのに。
「……青い鳥とかほんとうのさいわいは信じてないのでなんとも」
「まぁそうよね。でも、ほんとうのさいわいはあるでしょう」
「ありませんよ」
「どうして?」
「むしろ逆に、呪っておいてどうやって幸せになるんですか」
当然のように続いた言葉にわたしは眼下に広がる広い駐車場の、取り残されたみたいにポツンと立っている電燈を見下ろす。たかだか半径10数メートルしか照らせない。夜になれた目ではむしろ目障りにチカチカと白く光っている。星空よりも強い光を感じるのに、けれど、やっぱり機械のそれは寒々しいものだった。
「むしろよるさんにはあるんですか、ほんとうのさいわい」
「どうだろう、わたしもとてもじゃないけれど触れられないかも。そのままで幸せであって欲しいなぁ」
電話口から「他人事かよ」とぼやく声にそっちこそと言葉を重ねるのはやめにした。わたしのしあわせは、恵ちゃんが幸せを享受できることだ。嫌ってほどに、頭の先から爪の先まで全部幸せの中にいることだ。彼の手が、ふしくれだっていて、大きくて、綺麗なあの手が、ただ印を結ぶだけじゃなくて、闘いのためじゃなくて、幸せを得るために何かを抱きしめることをわたしはずっと。
「俺は」
ふっ、と。恵ちゃんが笑ったのが、微かな息遣いで分かった。
「よるさんとなら青い鳥探しでも、銀河鉄道に乗ってでも、どこかに行きたいですけどね」
「……恵ちゃんってほんと、かわいいね」
何かを言われてしまう前に、わたしは電話を切る。瞼のうらには鮮明に、恵ちゃんがわたしの手を引いてくれるいつかの夜が、待っている。黙りこくったわたしを呼ぶ声がする。きっとわたしは逡巡する。迷って、恵ちゃんの手を振り払おうとする。でもね、きっと、わたしはきみの手を取ってしまうんだ。
それが最期にきみを不幸にするのだとしても。
20.03.20