ワンルームの天国

「わたし、夏って嫌いなんだよね」

扇風機を独り占めして目を細めるよるさんがぼそりと呟く。嫌い、という言葉に相応しく呪いの篭っていそうな屈折した声だった。

「なんでまたそんなこと言い出したんですか」
「いやぁ、暑い日が続くから」
「それは理由ですか?それとも動機ですか?」

麦茶を入れたグラスをよるさんに差し出す。返ってきたありがと、は扇風機の風のせいで声はたわんでいた。俺も暑いからそうやって独り占めされるのは良くねえな、とよるさんの方へ身体を寄せる。

「そこいると俺の方まで風が来ない」
「ダメ、無理、ここから退いたらわたし、溶ける」
「そんなんで本格的に夏きたらどうすんだよ」

うう、と情けなく唸るよるさんの背中を軽く膝でつつく。力の抜けているよるさんはパタリとフローリングに倒れる。俺とよく似ている家着を身につけた背中を見落とす。

学生時代と比べて、俺の前では肩の力がずいぶん抜けているのがやっぱり嬉しいと思う俺がいる。例えば『弱いところを自己申告してもらえるようになる。』そう、かつての俺に言ったところで一ミリたりとも信じないだろうが。

「なんで嫌いなんですか?」
「……夏ってさぁ、昼が長いじゃない」
「まぁ」
「どこにも行かないで部屋に篭ってるのって辛いんだよねぇ。なのに、なんでも出来そうな気だけはしてくる」
「じゃあ今年はなにがしたいんですか」

よるさんの隣に座って、背中に広がる雑に解かれた長い黒髪を掬って、毛先をいじる。細くて柔かい髪は指を通すとすぐ指の隙間から落下していく。どんなに丁寧に乾かしても、少しの水分でも跳ねる俺の髪とは全く違う。他人の、けれども他の誰でもないよるさんの黒い髪。扇風機の風にのって薫ったものは俺がいつも使うシャンプーボトルと同じだ。思わず口元が緩む。
いつもならすぐに揶揄うよるさんは暑さに目を細めるばかりで見えていない。暑さ如きで隙だらけになるのはどうかと思わなくもない。が、まあ、ある意味この人らしい。

「恵ちゃん、脈絡」

髪を耳にかける。影の落ちた部屋の中で、よるさんの首が白かった。

「アンタがいうか、それを」
「ごめんね?」

むくりと起き上がったよるさんが俺の顔を覗き込んでくる。緩んでいる口元を見られるのが嫌で、よるさんと逆サイドの方向を向く。そんな俺の様子をみたよるさんは笑う。すすすと俺の顔を追ってくる。

「見んな」
「ふふ」
「見るなって」
「かわいいねぇ」
「うるせぇ」

そのまま頬に伸ばしてくる手を掴む。よるさんは幸せそうに笑っているから、俺の文句は喉の奥で消える。惚れた方が負けだとは聞く。聞くが、あまりにも俺に負が悪すぎる。

「よるさん」
「わたし恵ちゃんとならなんでもしたいよ」

細い手首は昔からで、白い肌もしかり。昔と同じのくせにずっと綺麗になったと思う。綺麗だとかかわいいとかそんなストレートな言葉はよるさんに言ったことはない。言ったら多分すっげぇいじられる。かわいいという言葉はむしろ向こうが言ってくることばっかりだ。

よるさんの手は俺からひらりと抜けて、そのまま俺の背中に回る。ため息を一つ。そのままよるさんの身体を俺の方に引き寄せる。ぴったりと隙間なくくっつく。

「俺、よるさんて大概ばかだなって思いますよ」
「なにそれ。じゃあ恵ちゃんはなにしたいの?」
「ずっと一緒にいたいですけど」

かわいい、よるさんがそんなことを言うまえに顎を掴んで唇にひとつ、キスを落とす。視線が合う。目が大きく見開かれていて、本当に気が抜けているよるさんは普通に、まぁ、かわいいだろう。
細切れに角度を変えてキスを繰り返す。いかにも経験豊富です、みたいな澄ました顔をするよるさんがいっぱいいっぱいの表情するから止まらなくなる。

「恵ちゃ、ちょ、まって」
「なんですか」
「…………そういうのは真昼間からすることじゃなくない?」
「そういうのってなんですか」
「うっわ、そういうこと言っちゃう?本当に?ムッツリじゃん」
「うっるせえ」

息を整えた瞬間捲し立てるように、俺に突っかかってくるよるさんの耳は赤い。必死に余裕を取り戻そうとしているよるさんの肩ををそのまま押す。大した抵抗もなくよるさんはフローリングに倒れる。
よるさんがくれたものはたくさんある。愛おしいような、幸せなような、端的に言ってしまえば激情だとかそういう。

「ねぇ、だから……昼だし暑いんだけど」
「フローリング冷たいでしょ」
「そういう問題じゃないんだけど」
「好きですよ」

文句も何もかもを遮るように「好きです」と繰り返しでよるさんの上に覆いかぶさった。いくらよるさんが優れた術師といえど、力勝負では俺の方が圧倒的に有利だからよるさんは「恵ちゃんさぁ」とだけ零す。その先に続く言葉はわからない。閉じられた唇を見るに教えてはくれないのだろう。

「来年もその次の夏もずっと一緒にいてください」
「ふふ、まだロクに夏も始まってないのに?」
「……結婚してくださいってことなんですけど」

よるさんの左手がそっと俺の輪郭を撫でる。まだほんのり赤い耳もそのままで「うん、しよっか」と目を細めた。目尻のシワまで美しかった。愛してるとか、綺麗だとか、すきだとか。そういう甘いものをたくさん与えられない俺だけど。

「言質とりましたよ」
「わたしそんな信用ないの……」

そういう問題じゃない。口で言うのも億劫になって、俺の頬に当てられた手に俺の左手をそっと重ねた。
愛してるとか、綺麗だとか、すきだとか。そういう甘いものをたくさん与えられない俺だけど。大人しく受け取ってくれないアンタだけど。

きっと今までの人生で一番、幸せな日々になるだろう。

20.05.30