ここは呼吸をするところ


こつん、と肩に頭がぶつかってくる。
またよるさんがちょっかいでもかけてきたのか、とひとつため息が漏れた。反応してもめんどくさいし、反応しなくても面倒くさい。
そっと横目で隣を見ると、よるさんが左右にぐらふらと頭を揺らしている。いわゆる『船を漕いでいる』状態に、珍しいこともあるもんだと数回瞬きを繰り返す。
よるさんは警戒心が強い、とまではいかないが、ここまで隙だらけになることは滅多にない。いや、むしろ俺もこんな状態のよるさんを見るのなんてはじめてのことだ。
どれだけよるさんは多忙でも、うっかり寝てしまうことなんてなかった。よるさんはよく術式の操作ミスで気を失って高専に現れることもあるが、それは命の危機であったり失神であったりしてきた。こんな、穏やかな心持ちでよるさんの顔を覗き込むなんて信じられない。
そっと、よるさんの黒く細い髪に指を絡める。そして、よくよるさんが俺にしてくるように、鼻の頭まで伸びている前髪をすいてみる。俺の髪とはまったく違う指通りに少し頬が緩んだ。「お疲れ様です」とよるさんを起こさないように注意しつつ小さく呟いてみる。しばらく髪の毛を撫でていると、よるさんが眉間にしわを寄せて唸り思わずびくりと肩が跳ねた。ああ、そうだ。相手はただの年上のよるさんではなくなんといってもあの、よるさんだった。
「よるさん、眠いなら部屋連れて行きますよ。寝ないならしゃんとしてください、調子狂います」
高専の生徒の中で誰よりもよるさんにからかわれがちだという自覚はさすがにある。というか恵『ちゃん』なんて呼ばれている時点でわかれ、という話ではある。どんなひとのことも気軽に呼び捨てにしてくるよるさんは、俺だけ下らないあだ名で呼んでくる。やはり、超えられないなにかがいつも俺とよるさんの間には横たわっている。
「どうするんですか、どうせ聞いてるんでしょアンタ」
この前の病室でもそうだったなと記憶をたぐる。よるさんはうんともすんとも言わないで、ただ呼吸をくりかえしている。こうなったら仕方ない。あとで五条先生や日下部先生によるさんのことを伝えるとして、この人を寮へ連れて行ってしまおう。それだけをきめて、一回立ち上がろうとした俺の手によるさんが頭をこすりつけてくる。猫か。髪に勝手に触っていたなんて知られたら死ぬほどからかってくるに違いない。そのくせ、かわいいとか思ってしまう自分が腹ただしい。よるさんにいろんな方向で揺さぶられる感情を、一旦リセットしようと目を閉じて、左右に首を振る。頼む、一回いなくなってくれ煩悩。
「恵ちゃーん」
「……絶対に起きてんだろ、アンタ」
う〜と子供っぽく唸ったよるさんの頭は肩からずりずりと滑り落ちて、勢いよく俺の膝に着地する。流石に起きそうな衝撃ではあったと思うが、よるさんはなにも言わず俺の膝に収まっている。どうやらよるさんは寝起きが悪いタイプらしい。いや、この人で考えると諦めが悪いというのが正解な気がする。これじゃ起こすにも忍びない。妙な体勢で寝息を立てているよるさんには本当に呆れる。こんな散々な目に合わされてもよるさんと関わってしまうであろう自分にも、だが。
「そんな体勢だと腰痛めますよ」
背中を軽く叩いてみる。今度はよるさんはうんともすんとも返すことはない。まじでこのままだと腰を痛めて、俺が真希さんや五条先生から白い目で見られる。真希さんは最終的に手合わせに焔々と付き合わされるだけで済むとは思うが、五条先生はやたら下世話になるだろう。腰が痛い、で現に一度大盛り上がりしたことがある。最低な気持ちだった。
顔が歪んでいるのは誰に指摘されなくともわかる。あれの再来だけは避けたい。だがよるさんは起きそうにもない。クソかよ、せめてここで楽に寝かせる必要がある。……いや、ほんとにその必要はあるのか?
「よるさん、ちょっと起き上がってください」
ほら、と俺より細い肩を掴んで揺するが、よるさんは俺の腰に腕を巻きつけてくる。無理やり剥がそうとするとよるさんのほうも粘ってくるせいで膠着状態に陥る。だめだこれは。よるさんがぴったりとくっついていて、いやでもその柔らかい女性特有のそれの感覚に背中が反り返ってしまう。この人、ほんとに寝てるんだよな?俺をからかって反応をみてほくそ笑んでるとかそういうやつじゃないよな?ぐるぐると疑心暗鬼になる俺に「なにしてんの?」というあっけらかんとした声がかかった。
「……五条先生、早かったですね」
「そーそ。たまには早くきてあげようと思ったんだけど……お取り込み中だった?」
「早くよるさんひっぺがしてくれますか」
「面白いから一回写真とってからね。あとでみんなにみせてまーわろっと」
ポケットからスマホを取り出して、すぐに写真に収める五条先生に一周回ってもう無の境地までたどり着く。どう転んでもからかわれるのは決定事項らしい。ただし絶対に目線はそっちへやってやらない。
「恵〜、こっちに目線やってよ。これだと僕が盗撮したみたいに見えるじゃん。ねぇ恵、このままだと僕、真希に殴られちゃう」
「許可してねぇよ」
どうせ術式のせいで殴れないからもっと精神にくるようなことを真希さんならするだろ、という言葉は飲み込んだ。そこまで親切にするつもりはない。反応の薄い俺に「恵ってほんとつまんないね」と一言評して、俺の腰にしがみついているよるさんの頭を人差し指で突つく。
「離れないって言ってもどうせたぬき寝入りでしょ。眠り浅いしコイツ」
「そうなんですか。まぁ、たしかによるさんが寝てるの失神以外で見たことありませんけど」
考えることは同じか、とため息をつく。よるさんの寝息だけが規則的に聴こえてくる。たぬき寝入りとしては技術が高すぎる気はする。
「まじか……寝てるよコイツ。考えてみれば、クソたぬきはコイツのジジィでお腹いっぱいかぁ」
「クソたぬき?」
「そ。恵は知らないだろうけどね。僕との秘密さ」
意味不明なことばかり吐く五条先生は、的確に俺の神経を逆撫でしていく。教えて欲しいならよるさんに直接聞けという姿勢が腹正しいことこの上なくて舌打ちを打つ。そんな俺と、ひっついて離れないよるさんを見下ろして、五条先生は口で弧を描く。三日月のような笑み。真っ黒ななかで嘲るようでいて、群青の空に浮かぶ月が見守るようでもある。
「すっかり、絆されたね。ここまでになるとは僕にも想定外だよ」
「……悪いかったですね」
「いや、ふたりはとてもお似合いだっていう褒め言葉さ」
五条先生の言葉は無視して、よるさんの前髪をそっと梳いた。よるさんの長い睫毛がぴくりと震えるのなら、あと何千回だってみて入れられる気がした。

20.02.27