ドーナツの輪の真ん中から考える
くぐもった視界がまるで古い映画フィルムのようだった。他人事だった。視界は一部塗りつぶされている。しかし、それでも目の前に誰かがいることはわかった。暗闇に浮かんだ唇がゆっくりと沈黙を破る。
「ごめん、全部忘れて」
言葉と同時に頬に涙が落ちた。暗い部屋ではなにも見えない。それでも泣いている彼女を放って眠ることができないことだけを理解していた。
「怖くないよ。大丈夫、安心してね」
目があったはずだった。優しく微笑まれ、今度は両目から涙が落ちる。拭おうと指を伸ばした。動かない。全てに動きを飲み込むように、彼女が俺の首に指を回した。僅かに、圧力がかかる。
「君が……恵ちゃんが忘れても、わたしが全部覚えてるから。それにね、恵ちゃんがわたしとのことを何一つ覚えていなくても、わたしは何も怖くない」
君が幸せに生きられるのなら、何も怖いことなんて。
自分に言い聞かせている声に反発しようとした。そう、俺はこの人のこういう年上ぶった態度が嫌いだった。嫌いで、不快感を感じるのに、いつだってため息をついて、それでも最後は観念してついていった。彼女を姉のように思っていた、ような気がする。津美紀とは全く異なる意味で。頭の一部がクリアになるが、麻痺したように俺の口は開かない。彼女は寂しさに満ちた声で、繰り返し「忘れて」と唱えている。まじないのようだった。俺の不甲斐なさも未熟さも意地も全部抱きしめようとする。その人に思い当たる節なんて、重たい思考回路でも一人だった。いまも呑気に、なんでもないかのように眠りこける姉貴。でも、この女は津美紀ではない。津美紀は笑いながら俺の幸せを願う人だから。記憶の中で輪郭をなぞる。プールの底に足がつかないときに味わう浮遊感を思い出した。アンタは他人じゃない。他人だったら、俺はこんな苦しくならない。そんな優しく作られていない。俺は、俺は、きっと、俺は。
「やっとわかったの。恵ちゃんがあの日言ってたこと……わたしも君も正しくないね」
朝日が差し込むように、淡く白く光る視界。溺れるように足掻く。それでも意識が遠くなる。瞼を下ろす。冷たくも、硬くも、痛くもなかった。
ただ、あの人の顔は全く見えなくなって、声が薄れる。鼓膜に張り付く。心臓に根を張る。きっとこの夢はまたいつか見るだろう。胃液の溶けずそんな予感が沈殿した。知らない人なのにすすり泣く声が寂しそうで痛い。恵ちゃん。ふざけた呼び名だって嫌じゃなかった。
背中が底についても、水の中でもがくように呟く。「泣かないで、ください」それが届いたのかを知るより先に、さらに重たい海の底に引き摺られた。
「おやすみ、恵ちゃん」
◆
目を開ければ当然、上に人などいない。
そこまで気づいて、いつも夢の中で会う人だったか、と結論づけた。夢占いなんて信じていない。だから、ああ、またあの人が出たのか。というところで思考は終わる。背中はこれでもかと汗をかいていて、春の朝には不釣り合いだった。
自室を見渡す。何も思い出せないまま、ベットサイドに置いてあった箱を手に取る。
「要らねえな、コレ」
新品らしい青いマグカップの側面を撫でた。五条さん、もとい五条先生が押し付けたとか、どうせその類のことだろう。マグカップを元に戻して、箱に封をした。夢は何も思い出せない。だが、ただ、忘れろと懇願されていることだけを覚えている。そのまま膝に置く。今日捨てる理由がなかったから、クローゼットの奥に仕舞う。
布団を整えるとき、花の匂いがした。
「あれ、花なんて育ててました?」
「しゃけ、すじこ」
「へえ。狗巻先輩がやってるんですか?マメですね」
「ツナマヨ」
勿体ぶったような口調に、狗巻先輩以外の管理者の存在を予想した。でも、こんなマメなことをする人が他にいるとは思えない。三年か?会ったことはないが、五条先生から聞く限りではあり得ない。
わからない。考えても無駄だからそのまま花壇に背を向けた。どうせ明日には忘れている。
2年と手合わせしておいで。五条先生の適当な指示にため息をつきながら廊下を歩いた。窓ガラスから差し込む日差しは、春のくせに随分と熱かった。春なんてあっという間に過ぎる。正式な呪術師として過ごす繁忙期は尚更。何かが欠けているなど、昨日今日始まったことじゃない。
すれ違ったとき、知っている柔軟剤の香りがして立ち止まった。高専の黒い制服。一目で呪術師だとわかる背中。ここではなにも珍しいことはないのに、それが引っかかった。
「恵、なにこんなところでボケっと突っ立ってんだ。次の授業はウチらとだって聞いてたけど?」
「先輩、あの人って誰でしたっけ」
「誰ってオマエ……アレはよるだろ。私らの同級生。……恵はよるに会ったことあったよな?」
「いや……2年は4人って言いませんでしたか?禪院先輩、狗巻先輩、パンダ先輩。それから、乙骨先輩……残りひとりは知らないです」
そうか?と禪院先輩は流す。ちょうど俺達の近くを通りかかったパンダ先輩に確認を取る。確認されなくとも自分が会ったことある人ない人の区別ぐらいつく。
「よるが帰ってきたのって一昨日だろ?だったら恵は知らないんじゃないか?どうせアイツ帰った翌日ずっと寝てるし」
「そうですね、知りませんよ。あの人も二年生ですか?」
「……そ。んで、オマエと同じ二級術師」
パンダ先輩からの紹介が終わる。それだけかよ。狗巻先輩が彼女、花壇の順番で指差す。成程、もう一人の当番はこの人か。
先輩らしいそのひとは振り返った。視線を向けても俺の方を見ようとはしない。禪院先輩はパンダ先輩の言葉を引き継ぐ。
「名字は……あー、まあいいだろ。基本誰も名字で呼ばねえし問題はないな」
「フルネームぐらい教えてくださいよ」
「ま、いろいろ情報仕入れるより直接話したほうが早いしな。よる、恵が呼んでるぞ〜」
「いや、別に……呼んでいるわけでは……」
その『先輩』と目が合った。淡い色素の目が俺を見て微笑んだ。以前からちゃんと準備されてきた、そんな印象を持つ笑み。
問題がそうじゃないかは禪院先輩が勝手に決めるべきじゃないだろう。とはいえ、彼女は名前を名乗る気配はない。とりあえず『先輩』に軽く頭を下げる。
「悟から話はよく聞いてるよ。優秀なんだって?」
「……はじめまして」
「で。君、名前は?初対面なら名乗るものじゃない?」
不自然な会話だった。リズムも定型も無視した様子に、状況を理解する。例に漏れずこの人も手放しで尊敬できないタイプの人だ。初めから呪術師に期待なんてしてはないけれども。それ言うならアンタから名乗れよ。言葉を飲み込んで代わりに自分の名前を告げた。
「……伏黒恵」
「そ。じゃあよろしくね、『恵ちゃん』?」
23.01.17