そろそろさよなら
すみません。背後から殊勝な声がかけられた。少しだけ迷って、振り返りその人に向き合った。どうってことない学校からの帰り道ではあったが、道案内くらいならどうとでもなるだろう。振り返って視界に映ったその人も左目は白い眼帯で覆われていた。顔が近づくと理科室のようなあの苦い匂いがしてきたので、痛々しいファッション、というわけではないようだった。
「何か用ですか?」
「…………駅ってどちらの方向ですか?ちょっといま怪我をしていてよくわからないんです」
「駅はこっちの方向じゃなくて全く反対ですね」
「あはは、そりゃ大変なことですねえ」
あっけらかんと笑うその人が、顔に垂れてきた髪を耳にかける。その仕草がなぜか頭に引っかかった。
「よかったら案内しましょうか?」
親切で言った。邪な感情は一切なかった。ごく普通の言葉だろう。彼女だって口頭で言われるよりは案内してもらえた方が楽なはずだ。だが、帰ってきたのは噛み殺したような笑い声だった。
「はー、面白すぎる……ねえ、わたしと君、どこかで会ったことあると思いません?」
さっきまでの丁寧な言葉とは打って変わって、チャラチャラした軽薄な男が使うような誘い文句を繰り出す彼女と目が合う。左目は白い眼帯で覆われ、片目だけが露出している。黄色い丸い月のような右目が細まる。あはは、と笑いながら俺に小さく手を振ってくる。その笑い方には心当たりがあった。
「や、元気?」
大ヒントでーすとふわふわとした言葉を使いながら、左にかかった眼帯を外す。
「あー、前髪も戻したほうがいい?でもなあ、それだとヒントっていうかもはや答えだよね」
「…………よるさん?」
「あはは、なにそれ、わからないのは流石にどうなの?」
「逆に聞きますけど、その格好でわかるわけがないでしょ」
長い前髪を横に流して額が露出しているし、淡いブルーのシャツと白いデニム。長めの前髪と黒い制服の要素が何一つとない。服装や髪型を抜きにしたって眼帯をされて丁寧に話されたらわかる物もわからないのが当然ではないか。眼帯をつけて不器用に笑う。よるさんの左目の傷跡から目をそらす。
「まーま、ちょっと付き合ってよ」
右、とか信号渡ってとか、左とか、よるさんの指示を聞きながら歩く。いつもならもう既に放っておいている。でも、怪我をしていることも事実だったから。
テラス席で秋の日差しを浴びてよるさんの片目が細まった。何をどう切り出すべきか、お互い模索しているらしかった。手持ち無沙汰でコーヒーを一口飲む。注文したばかりのブラックコーヒーはもう半分ほど飲んでしまった。
「じゃんけんで真希に負けたの」
「はあ」
「だから、ついでにしょぼくれてそうな恵ちゃんでも一日連れ回そっかなって」
「なんの因果関係が?」
「なーに、恵ちゃんはわたしに寮でひとり寂しく一ヶ月過ごせっての?」
「俺には迷惑かからないんでそっちの方が助かりますね」
「かわいくなーい」
いつもの言葉を聞き流しながら、黄色に色づき始めた銀杏並木を眺めた。その先にあるはずの小さな公園がここからは見えない。
「落ち着かない顔をしてるね」
「……まあ、いつもと全然違いますから」
たしかに服装で印象とは変わるものだ。私服と制服で大きく印象に差がある同級生なんて男女問わずいる。それと同じだ。合わない視線を笑いながらよるさんがグラスに刺さった赤いストローで、アイスティーをかき混ぜる。氷がぶつかりあって夏のような音を鳴らした。
「いま制服クリーニングにだしてるの。血がすごかったし土埃まみれでね。寮の洗濯機使おうとしたら猛反対されてクリーニング出して」
「そうですか」
「って言っても血の匂いがひどくてさあ、当分かかるし、いっそ新しいの買った方が早そうなんだよね。うわ、このスコーン、ジャム、このジャムとつけるとおいしい」
いつも落ち着いているとは言えないが、ここまで忙しくあっちへこっちへと動くタイプではない。怒りとかそういうものよりも先に呆れがでた。
「落ち着きないのはどっちですか」
「わたしもなんの話すればいいかわからないから」
「そっちから来たんでしょ」
んー、と眉間に皺を寄せて険しい顔をしながらよるさんが唸る。うんうんうるさい目の前の人に「唸ってるだけじゃ何も思いつきませんよ」と言ってみればよるさんは「まあそうかも」なんてふにゃふにゃした応答を返してきた。なんだそれ。
「恵ちゃんはああいう格好が好きなわけ?」
「は?」
よるさんが今度はほら右の、と小さな声を加えた。色素の薄い髪を、高いところで髪を一つにまとめている彼女と一瞬目があった。彼女は少しだけ視線をぐらぐらと彷徨わせると、俯いてほんのりと頬を染めた。おずおずと目線を合わせ良いとする彼女から思いっきり視線をそらす。ああ、面倒臭いことにならないといいが。
「やっぱりひらひらしたフツーの女の子っぽい格好がいいんだ。特にレースとかついててフワッとしたスカート」
一連の様子を見ていたらしいよるさんがしたり顔を見せる。何もなかった空間に何かあったとこじつけるのは無理があるだろう。
「何がやっぱりなのかさっぱり。あの一瞬で全貌なんてわからないですよ」
決めつけられる感じがして、眉根に力がこもる。
「え〜かわいかったよ。純真さを寄せて集めてリボンで結んだみたいだ」
「なんですかそれ」
「津美紀さんもあんなイメージがあるよ、わたし」
もう一度横目で件の彼女を見る。淡い色でまとめられた服装。ああいうのを着る津美紀を想像する。似合うものを見繕えばあるし、感謝はするだろう。でも、多分。
「……津美紀は、ああいう格好するよりスーパーの特売セールの文字に喜びますよ」
残っていたコーヒーを飲み干す。
「あはは、本当に素敵なお姉さんだね」
同意の言葉をいう資格が俺にあるのか、自信がなくて俺は、ああ。とも、うんとも言えない母音で曖昧に濁した。
「逆に聞きますけど、よるさんは好きなものとかないんですか」
「それさ前も聞かなかったっけ?」
「……そうですか?でもよるさんが答えたとは思えないんで改めて聞きますけど、何かありますか」
「ええ………そうだな、じゃあ誰かとご飯食べること、とか」
頭の中をなぞるようによるさんが言葉を探す「真希とか、棘とかパンダとか憂太と一緒だと結構なんでも楽しいから」
「そういうの以外ではないんですか。もっと狭いやつ」
「そんなの聞かれでもなあ……考えたことないし」
よるさんの手がストローに向く。よるさんのアイスティーももう三分の一くらいしか残っていない。でも手持ち無沙汰なのかよるさんはまたくるくるとかき混ぜる。
「……ここでいま食べたスコーンは美味しい、から好き……かもしれない。ジャムがいいのかな……恵ちゃんも食べる?最後のひとつ」
ほら、と皿が俺の方に向けられる。
「いや、俺、甘いのあんま得意じゃないんで」
「えー人がせっかくなれない質問コーナーしてるのに……じゃあひとくちだけにする?」
「…………まあ、それなら。いただきます」
よるさんが摘んで俺の口元に寄せる。赤いジャムが控えめについている。一瞬、考えた。俺たちなんなんですか。でもよるさんが笑うから、目を閉じて一口だけ口に入れた。
「どう、おいしい?」
「まあ悪くないんじゃないですか、女子が好きそうな味がします」
「あはは、なんじゃそりゃ。あ、このジャム売ってるって、美味しかったし買おっかな。一年以上保存できるっていうし、恵ちゃんも津美紀さんにどう?」
俺が一口齧ったスコーンの残りをよるさんが咀嚼した。よるさんの注意はメニューの最後のページの宣伝という全く別方向へ向かっていて、少しだけ助かったと思った。
「寝たきりなんですけど」
「間に合わなかったらまた買えばいいよ」
「付き合ってくれます?その時は」
よるさんが言い出したことなのに、痛いところをつかれたみたいに眉を下げる。どうかな、と呟く唇は僅かに震えていた。
「君の子守もこれでおしまいかなって思うし。まあ高専で待ってるよ」
「会いたいときには合えばいいし、行きたいところがあれば言えばいいでしょ。俺は、少なくとも俺はそのつもりなんで」
「身勝手〜……」
もしこれが恋でないなら、この人に抱くこれはなんだ。
「よるさんだけにはいわれたくないですね」
「信頼ないなあ。じゃあ、そうだね、じゃあ君が高専に来て、気が向いたらこのジャムをお裾分けしてあげるよ」
よるさんの爪が瓶の蓋をはじいた。約束ね、よるさんが噛み締めるように、その言葉を呟いた。
あ。
よるさんの小さな声と共に、べろんと靴の底が剥がれる。「そんなことある……?」と小さく呟くよるさんに思わず吹き出した。この人でも、こんな情けない声を出すことがあるのか。
「うわ、種類いっぱいある……」
靴底を気にするように片足だけ地面を擦るようにして歩くよるさんの手を取る。片目が覆われていて、逆足を引きずるとかなかなかみていられない。
「大丈夫ですか?」
「いや流石に大丈夫ではないんだけど、でも裸足になるわけにも行かないし……今日に限って薄いレギンスだし……」
駅と連結しているショッピング街があってよかったと思う。とりあえず一番初めに見える靴屋に飛び込んでしまったが、これでよかったのかはわからない。それにしても全国展開している店というのはどれも同じ印象を抱く。流行りのポップスを聞き流しながら店内を見回した。スニーカー、ブーツ、メンズの革靴、それからレディースコーナー。俺の隣でレディースコーナーの棚を端から順繰りに眺めているよるさんの横顔を眺める。新鮮、という顔をしているのはなんとなくわかった。呪術師というのは無駄に金を持っているので、よるさんくらいになるとこういう店で買うこともないのだろう。
「なんかもう、正直履けるならどれでもいいなあ」
「でも何か判断基準ないと絞れませんよ」
「えー、そんなこと言ってもなあ……そうだ、恵ちゃんが選んでよ」
「人に丸投げですか」
「いいじゃん、さっき好みの話はぐらかされたし」
大事なことは答えてくれないくせに、そういうことだけ覚えていて、最悪のタイミングで投げてくる。
「そんな俺の好みが知りたいですか?」
「知りたいよ」
視線が真っ直ぐ突き刺さる。ふ、と緩く微笑んで俺の言葉を待っている。
「じゃあ、これ」
「……結構ヒールあるね?」
「文句言うなら初めから聞かないでください」
「ごめんって。ふーん、5センチヒールかあ……じゃあこれちょっと試そうかな」
タグを見て勝手に納得したらしい。すみません、とよるさんが店員に声をかけようとする。結局なあなあで別なものを選ぶだろうと思って適当を言っただけだ。本気にされても困る。
「なんで止めるの?」
「……いや、普通に考えてみて任務にあんなヒールあるパンプスなんて不向きでしょ」
「でもなあ、せっかく恵ちゃんが選んでくれたし」
「俺に責任押し付けないでくださいよ……今履いてるようなのと似てるのを探すんじゃ駄目ですか」
「えー、どうしようかな」
煮え切らない態度のよるさんと、必死に止める俺の様子を伺いながら店員が声をかけてきた。
「何かお探しですか?ご試着でしたら承りますが」
「試すだけっていうのも有りですか?」
「はい、もちろんできます。よろしければサイズをお伺いしますね」
「じゃあこちらの……24cmってありますか?」
端末を操作しながら、店員が在庫を確認する。もう俺にできることも言えることもないらしかった。また一つ諦めを胸に、試着用の椅子に腰を下ろす。俺は選んだパンプスを見る。ガラス棚の淡い色を反射しながら置かれている。淡い青いパンプス。青とラベンダーの中間くらいのその色はよるさんに似合わなくもないだろうが、別にあれでなければならない必要はない。当然俺だって、別に深い考えがあっていったわけではない。それでもなぜだか、そういう話になってしまった。
「在庫あるから持ってきてくれるって」
隣によるさんが腰を下ろした。肩、というか腕が触れ合う。隙間がないくらいに。
「別にアレにこだわる必要はないんじゃないですか」
「どうしたの、いきなり。あー、テキトーに選んだの後悔してるの?」
「わかってるなら自分で選んでくれます?」
「決められないから恵ちゃんに頼んだの。流石にこんなに種類があるんじゃあ鉄砲打ったって定まらないよ」
物騒なワードに呆れてしまった。その空気を感じ取ったらしいよるさんが、あれ、と首を傾げる。
「知らない?どれにしようかな、天の神様の言う通り、ってやつ」
「知ってますけど、そんな物騒じゃないでしょ」
「ええ〜……どれにしようかな天の神様の言う通り、鉄砲打ってバンバンバン、もひとつ打ってバンバンバン、てやつ……地域性があるのかな?」
「そうかもしれないですね」
「恵ちゃんはなんて言ってた?」
「別に」
「そっちが言い出したんじゃん、そんなにアレなの?逆に気になるやつだ」
黙っていれば押し切れないだろうか。黙秘を貫こうと腹に力を入れた。入れた瞬間頭をよぎるのはこの人に散々振り回されてきた自分のことだけだった。僅かに、一ミリ、二ミリ程度視線を横に向ける。にっこりとよるさんが綺麗な微笑みを作った。あー、面倒くさいやつだ。
「ところで、小さい頃はなんてやってたか悟に聞く手もあるんだけど」
「…………あべべのべ、柿の種、アイスクリーム、玉手箱、天の神様の言うとおり」
「あはは、なんかかわいい」
「津美紀のが移ったんです」
言い訳にしたってできが悪いその言葉をよるさんは「いいなあそういうの。なんか家族っぽくて」とだけ言った。珍しいこともあるものだ。茶化したり、必要以上に囃し立てたりしないとか。
「大変お待たせいたしました。こちらお試しください」
「あ、ありがとうございます」
よるさんが右足を受け取る。軽くからぶってからようやく受け取って、右足を入れる。察したらしい店員がよるさんの左足の前にもう片方を置く。
よるさんの手をとって立ち上がる。ごめんね、と謝ってからよるさんが掴む。
「サイズ感はいかがですか?横幅や甲周りに圧迫感とか」
手が離れて、よるさんが歩く。さっきはよろめいたくせに今度は真っ直ぐと立って歩いた。
「サイズ感は問題ないですね。ちょっと履き心地だけ確かめてもいいですか?」
「はい、大丈夫です」
棚の周りを一周してくるよるさんに「立って」とせがまれて立ち上がる。背を比べる小学生のように垂直にした手のひらが俺の生え際の辺りに触れた。
「あ、5センチヒールでも恵ちゃんってわたしより身長高いんだ」
「……まあ成長期なんで」
「憂太とか棘はこれはいたら抜かしちゃうね。あ、真希よりも大きいかもしれない」
楽しそうに同級生の名前を出すよるさんに少しだけざらりとした感覚がした。同じ場所で過ごしてるわけじゃないからそういうずれはあって当然だ。津美紀とだってそうだっただろうに、俺はよるさんのことを何も知らないと見せつけられるたびに、どうすればいいのかわからない。
「まあこれはこれでいい気がする」
よるさんがどうしてそんなに嬉しそうなのかとか俺には何一つわからないから。
「買ってくるからちょっと待ってて」
会計を待つ間、サンプルを戻しにきた店員と目があった。ひとつ会釈をされて、そのまま軽く会釈を返した。
「履いてきたんですね」
「そりゃあダメになっちゃったから買ったんだから履き替えなきゃ」
会計を終えてビニール袋を下げたよるさんが戻ってくる。
「にしても、つくづく恵ちゃんの前では気兼ねなくものが選べるな」
「選ぶの苦手って言ってませんでした?」
「選択肢外を持ってきてくれたのは恵ちゃんだよ。わたしひとりじゃこれを選ばなかったもの」
その言葉を聞いた時に迫り上がるものを俺は何か知っている。口の中が乾燥していた。ああ、これは優越感だ。
◇
スカートはひらひらしてなくてもいい。目線が近くなるヒールの高いパンプスだって嫌じゃない。茶化してこようが、自分勝手だろうが良かった。いや、良くはない。良くはないのに、今の生活からよるさんがいなくなったらきっと何も無くなってしまうような錯覚がある。でも眼帯姿はあまりに痛々しいから嫌だった。あの日見た光景が俺の中にも焼き付いているからだろうか。
俺とよるさんがこのまま今生の別れになったらどうなるのだろう。俺は喧騒を差し出す代わりに、この人に阻害されない安寧を手に入れる。それは魅力的だ。でも、この人を無くした無常感を抱えろというのはなかなか酷だ。知り合う前に戻れるならいざ知らず。
よるさんの髪を耳にかけて、その耳に引っかかった紐をゆっくりと外した。ヒール分身長が近づいていたから、触れるのはとても簡単だった。
「……そんなに寂しい?」
「傷が見えてる方が痛々しくなくていいです」
「えー、普通の人は驚くよ」
「眼帯姿の時点でどっちもどっちでしょ。だから……どっかの他人より、俺を選んで欲しいって、いま、思いました」
無機質なプラットホームは良くも悪くも生活感溢れている。金網の向こうの学習塾の看板。数人の子供がはしゃぐ公園。地平線は見えない。それでも地上を這うように燃えるような茜色が広がっている。
よるさんが眼帯を外す。光を素直に受け入れ反射する瞳と目があった。夕暮れ一番に瞬く一番星のような、昼間の紺碧に浮かぶ半月のような、黄昏に孤独に佇む満月のような。よるさんが「恵ちゃん」そう、俺を、呼んだ。
特急電車が過ぎ去って、俺達は正面から風を受ける。よるさんの前髪もぐしゃぐしゃになる。あはは、とひとりで笑い転げるよるさんの前髪に触れた。梳いて、その瞬間硬直する。
「あはは、恵ちゃんひっどい顔。怒ったりしないよ」
「そう、ですか」
またゆっくりと前髪をゆびに通す。細くて、つるりと指通りがよかった。よるさんが俺にもたれかかる。よるさんが目を閉じる。とじると瞼の上にできた傷跡が目立った。手からよるさんの髪が滑り落ちる。
「約束、覚えてますか」
「気の長い話?」
「違いますよ、花火とかそのあたりの」
よるさんの目が大きく開く。月のような目があって安心した。もしこの目が無くなってしまったら、それ以上を考えるのはやめた。
逃げるように視線を黄色い点字ブロックに落とした。経年劣化で黒くくすんだ凹凸。これを黄色の線と呼ぶアナウンスはいつだって誇張解釈ばかりしていると思う。
「好きなものとか見つけたら教えてください」
よるさんの青いパンプスが目に入る。コンクリート剥き出しのプラットフォームの上のその鮮やかな色を見て、純粋に綺麗だと思った。説明できるほど大した理由はないが、きれいだと思った。この朧げな空気に包まれた時間がよるさんにはしっくりくるから、常に足元はその時間で覆っていて欲しかった。どこにだって、行きたいところへ行けるように。
「今日、気に入ったものの話する?」
「聞きますけど、どうせロクなもんじゃないんでしょ」
「ジャムと、青いパンプスと、恵ちゃんをあちこちに連れ回すこと」
全部が全部、すごく楽しかったよ。ドアが閉まる直前、よるさんが笑う。きれいに、微笑んだ。ガラス越しによるさんが唇を動かす。さよなら。間違いなくそう動いた。約束の話をしたその口で。
23.01.17