どうして石ころに生まれなかったのか
はじめまして、を省略してくるやつにロクな人間はいない。例に漏れず、彼女だってそうだった。返事をする気なんてさらさらなかった。
「津美紀さんはそんな簡単に目覚めないよ」
淡々とした声。狭い個室の病室に俺以外の呼吸が割り込む。俺は振り返らず、津美紀の額を見つめたまま彼女へ「うるせえよ」と吐き捨てた。見知らぬ声ではない。お互いに素性をうっすらとしっている、名前を呼ぶ義理もないような薄っぺらい関係。
「その額の印、どういう意味か検討がついたの?」
彼女は俺の背後に立つ。俺の言葉は聞こえなかったのか、聞こえないふりなのか。どちらにせよ何か実力行使されるような気がした。膝で握りしめていた右手を宙に浮かせ、左手を添えようとした。印を作るより先に、牽制するように知らない人の手が触れた。
「君、何がしたいのさ」
視線が合う。反射的に睨みつけた。薄い色素の瞳が余裕そうに細まる。品定めでもするかのような視線が気に食わなくて、彼女の手を払い除けた。
「またアンタですか。俺が何しようと関係ないですよね?手退けてください」
「病院の中で使うつもりなんだ?いい度胸してるね」
「…………突然出てきて、突然教師気取りですか。そっちこそいい度胸だと思いますけど」
「教師って......悟じゃあるまいし」
視界に割り込んでくる彼女は何が面白いのが口角をあげた。愛想笑い。吐き気がする。そんなもの、なんの意味があるんだろう。確かに出来が悪いわけではない。
それにしたって意味のない愛想だ。津美紀だって誰にでもヘラヘラしなきゃよかったんだ。もっと自分のことを見れば、きっと。
「本当は君の後悔に付き合う義理はないんだけど……。まあ、悟に頼まれちゃったし、仕方ないね。とりあえずここから出ようか」
「は?」
「コーヒーと紅茶どっちが好き?君より年上だからね、奢ってあげる」
腕を掴まれて、廊下まで引き摺られる。勝手がすぎる。五条さんが紹介した時点で理解はしていたが、本当にこの人も身勝手な人でしかない。離してください。形だけでも口にする。立ち上がって、一歩足を踏み出した瞬間、脱力感に襲われる。
何も考えず足だけを動かすのが楽だ。その疲れすら見抜かれているようで、形だけの文句を口にした。勝手にどこへ行くつもりですか。抗議は受け入れられずそのまま病院から出た。
久しぶりに出た外は、病院と同じかそれ以上に薄暗い。空気だって不味い。室内よりは空間が広いというだけだ。
「外にでた感想は何かある?」
「……曇ってますね」
「そうね。室内でも室外でも大差ないね」
「息抜きしろって五条さんに言われたのかと思いました。残念でしたね、失敗ですよ」
左腕を引っ張っていた彼女の手を振り払う。放っておいてほしい。
薄暗いが歩道に立つ街灯はひとつも電気は灯っていない。まだ昼間だから、当然だ。塞ぎ込むような曇り空を睨むほど子供ではない。だから俺は、目の前の彼女を睨んだ。
彼女は俺の視線に答えない。わからない人だ。わからないのも当然ではある、この人だって俺からすればどうせ他人でしかない。彼女から見た俺だって他人だ。他人を理解できるなら、もっと早くにやっている。自由になった左手を握りしめた。見失わないように。忘れないように。
彼女の横顔を見た。どこからどう見ても、呪術師の女に違いなかった。冷たくて、無機質で、死んでいると錯覚しそうな女。津美紀とは真逆。
善人らしい微笑みを浮かべたって、違う。善人なんて生きにくい生き物じゃない。幸福も痛みも何もかもを満足に理解できないくせに、人の事情に首を突っ込んでくる。これが善意なら、素直に手を取れたのだろうか。津美紀のような善人はわざわざ俺を選んだりなんてしないか。そんな物好きがごろごろいてたまるか。
「あそこにコーヒーショップあるね、こんなところで立ち話もなんだし行こうか」
「行きません。行かないと五条さんに言われて困るなら、いったことにしておけばいいでしょ」
「君、名前なんだっけ」
初めて目があった。今までだって視線は俺を向いていたはずだが、この瞬間が初めてだった。冷たくて無機質。彼女に適した形容詞。それを撤回する気なんてないのに、その表現には不釣り合いな目だった。白熱球のような、紅茶の水面のような。今まであってきたどの呪術師よりも人間らしい目をしていた。
関心なんてないくせに。愚鈍なふりをする目の前の愚かな女に名前だけを口にした。
「伏黒恵」
ふしぐろめぐみ、彼女が俺の名前をなぞる。
「ねえ、君さ、ずっと理屈ばっか捏ねてるクソガキっていわれない?」
「アンタだっていうほど大人じゃないでしょ」
「あはは、そりゃ15歳の君よりは大人だよ」
「年齢は覚えてるんですね」
「……1つ下だっていうことで覚えてたの、それだけだよ。それで、伏黒恵くんはコーヒーショップに来るの?それとも来ない?」
彼女は愛想笑いに似た曖昧な笑みを浮かべたきり、何も言わなかった。先を歩く彼女の背中と、店と、横断歩道それぞれを見比べる。観念して彼女より2歩下がったところから歩き始めた。
◇
地面を睨む。頭が痛い。寝不足か低気圧か、原因を突き詰めようとしてやめた。呪いなんてもの、不条理の極地だ。
「改めて聞くけど、君はコーヒーと紅茶ならどっちがすき?両方買ってきたから、好きな方選んで」
「……じゃあ、コーヒーで」
隣の席に腰を下ろす彼女から、コーヒーを受け取る。冷えた指先に暖かいコーヒーは熱かった。口をつける。暑すぎて何の味もしない。となりから花の匂いがした。
「匂い苦手だった?」
「べつに」
強引な人かと思えば、特に何も語らず口をつぐむ。無口なのかやかましいのか、よくわからないひとだ。呪術師なんてどいつもこいつも身勝手だ。コーヒーで火傷でもしたのか、舌が痛かった。
何を話せばいいのかわからない。津美紀のことを聞かれても答えられないし、原因がわかるならとっくの昔に終わっていることだ。
津美紀が寝たきりになってもう3ヶ月。
わからない。
わからないとたったひとつのことだけがわかって、津美紀は今日もあしたもずっと眠っている。
本当は俺はこんなところにいていいわけがない。細い湯気が上っているコーヒーを強く握りしめた。チェーン店の、見慣れたロゴだけが少し歪になる。劇的なことなどひとつもなく、たったそれだけだった。
彼女はそれを視界に留めただけ。いや、もしかしたら見てもいなかったのかもしれない。
「じゃあね、伏黒くん。また来るから」
「もう結構です」
「結構しないで。これ、一応わたしにとって任務のひとつだから、結構されても意味ないの。そういうわけで、恵ちゃんは文句あるなら悟に言ってね」
じゃあと、簡素な挨拶だけして立ち去ろうとする彼女の腕をつかむ。呼びかけるよりさきに身体が動いた。彼女は俺の右手を見て、コーヒーこぼれるよ、と場違いな指摘をする。
「今更、津美紀に何の用ですか。わからないって匙投げたのはアンタたちでしょ」
「知らない。確かにわたしは呪術高専の人間だけど、理由なんてわからない。末端の人間が全て理解しているわけないでしょう?」
「……だから、津美紀の護衛なんて、今更すぎる上に意味わかんねえことに派遣されたアンタはなんだって話です。目的もわからない、素性もわからない人に……家族を預けるのは無理でしょ、だから素性を開示してください」
「……わたしのこと厄介なんだと思ってたんだけど」
彼女の口ぶりに反射的に「違います」と口にした。多分また彼女は薄っぺらい愛想笑いを浮かべているんだと思うと、反吐がでそうだ。アスファルトをにらみつけて、彼女の影を踏色の薄い踏みつける。
「ただの善意なんて、一銭の価値もないって思いませんか?」
「心配しなくても、善意なんかじゃないよ」
善意じゃないだろうとは考えていた。善意がある振りをする人は珍しくもない。けれど俺は彼女の目を見たまま動けない。その先の続く言葉を待っている。善意を否定する目が、あまりにも不純物がないから、かもしれない。俺や、街路樹の緑や、曇った空が映り込んでいる。
答えを知っているんじゃないのか、何も知らないくせに今更何をしようっていうんだよ。俺だって何も知らないくせに。立ち尽くす無力な俺が現実を呪う。何も知らないクソガキ。何もできない弱い俺。
「そうね、じゃあこうしようか。伏黒津美紀さんの護衛任務を君に引き継ぐ。でも、高専自体からの依頼で、君はまだ高専の人間ではないから、その仲介役になる。津美紀さんのことで、詳細を知りたいなら、悟に申告する。わたしだってよく知らないから」
決めたことを押し付けられたという不快感を覚えた。でも、それを突っぱねる気にはなれなかった。
「呪術師ってどいつもこいつもこんな奴らばっかりだな」
俺のその言葉なんて面白味もない。つまらない。駄々っ子と形容されても否定できない情けないものだった。けれど、俺と目を合わせた彼女は、楽しそうに目を細めた。
「なーんだ、呪術師にお似合いじゃない?」
「……余計なこといってないで、早く帰ってください」
手首を解放すれば、彼女はそのまま踵を翻していった。ガードレールに寄りかかったまま、気の晴れないままアスファルトを睨んだ。自分の影を見つめる。どうすることも何もなく。何もしない。何も考えない。俺がすべきことはなんだ。
『もしもし〜、恵ィ元気してる〜?』
「……五条さん、普通に電話かけてくれますか」
『落ち込んでると思って。アレ、そう、よると会えた?』
「名前は覚えてませんけど、高専の変な女呪術師は来ましたよ。あの人は一体なんなんですか?」
『え、恵にちょうどいい相手だと思ったんだけど』
スマホを握る手に力がこもる。馬鹿も休み休み言ってほしい。
五条さんの考えていることを探ることは随分と前にやめた。
『悪くないんじゃない?よる馬鹿だしひとりでやらせんの不安だったんだよね〜、恵も同世代と交流しなよ』
「…………高専の人ですよね?」
『そ、とはいえマジで同級生以外と交友ゼロだからさ。恵みたいな異種族との交流が大事なの。わかるっしょ、ほら〜その辺は空気でさ』
「あの人から盗めるだけ盗んだだらって言うか、気が済んだら終わりでいいですよね」
『めんどくさいしそれでいいよ。終わりの合図は恵が僕に言ってくれればいいから』
選択肢が俺の手に押しつけられる。好きにしろ、と語る五条さんの言葉に大きくため息をついて電話を切った。馬鹿馬鹿しい。呪術師になるしかない俺の人生も、呪術師をしているあの人も。
端末を適当にポケットにしまう。手を握りしめた。誰を助けることだってできないに決まっている。そもそもたった一人の家族すら守れない人間に、誰を救えっていうのか。
22.03.08