永遠を捧げる時間がない

優しくて悲しい夢を見た。寂しさを埋めたい。そう思った時にはもう既にここにいた。呼び鈴を鳴らす。ブーッという短い音とともにドアが開いた。
「なに見てんですか」
まず初めに映った顔は、不愉快を塗りたくった愛想のないひとだった。来月から正式に後輩になる男の子。夕方の茜にそまった斜陽のせいで、彼の眼は翡翠のような緑色に反射していた。瞬きをひとつ。生理的な規則周期。生きているし、良く語るし、クソガキ。開口一番、「アンタ」と彼の口からかわいげのない単語が飛び出た。
「恵ちゃん、今のヤンキーみたいだよ」
「わざわざそんな話をしにきたんですか……?」
「ごめんね、世間話に飢えてて。今朝見た夢の話してもいい?ここ最近どこもかしこもいそがしくてさ」
「……なんで俺がそんなことを」
「百鬼夜行の事後処理が際限ないんだもん。わたしは京都にいたからみんなからちょっと蚊帳の外でさあ、なんかしきりに慰めてくるけどね」
お邪魔します、という言葉で押し切って恵ちゃんの家に上がる。荷造り中の部屋はいつもより少し雑然としている。けれど、この前よりもものが減っている。テーブルやテレビのような大きな家具が片付けられたからだろうか。
「顔色良くないですよ」
「そうかなあ」
「マジで体調悪いなら寝ててください」
恵ちゃんが制服のブレザーをこちらに投げた。部屋の隅に丸くまとめられたマフラーが目につく。見慣れたもの。「恵ちゃんさあ、」思わず言葉が出た。でもその先の言葉を見失って、わたしはおとなしくマフラーを抱えて、借りたブレザーを羽織った。横になれる場所なんてないんだけどなあ。
「そうだ。恵ちゃんさ、あの鉢植えはどうするの?」
「津美紀のですけど」
「……病人に鉢植えとか悪い冗談が過ぎるけど?」
「持ってくわけないでしょ。縁起でもない」
「何の花?」
恵ちゃんが畳のヘリを踏みつけた。
「しりませんよ、そんなこと」
枯れかかってる花から恵ちゃんが視線を外す。寂しい背中だった。雄弁とはいえないとても静かな背中だった。何も聴きたくないし、知りたくもない、見たくないと主張する仕草。ふ、と口元が緩んだ。別に、津美紀さんのことは君に罪なんかないのに。
迷子のように立ち尽くす恵ちゃんの背中に頭を預ける。薄手の靴下一枚で踏みしめる板間は、ふゆみたいにひんやりしている。平熱くらい、三十六度程度の熱を持ってわたしは恵ちゃんの方に手を伸ばす。避けられなかった。
「早く荷物詰めちゃいなよ、悟は明日来るんでしょ?」
「…………さっきまで寝てただけの人には言われたくないですね」
「いいじゃないそれ、恵ちゃんっぽい。その調子、その調子」
背骨に頬を当てる。心拍。体温。片耳が塞がれているから、声は篭って聞こえた。向こうからふ、と吐息が落ちた気配がする。
「よるさんのいう『俺らしさ』がわかりませんけどね」
「クソガキでしょう、君は」
「その形容詞気に入ってんですか?」
「そうね、とても。君素行不良だけどヤンキーとか不良ってわけではないからさ。全く、分類の難しい少年しちゃって」
「…………よるさんのいうことはマジでだるいんですよ」
わたしはどうかしている。こんな、厄介で面倒なクソガキのことばかり考えて、勝手に満ちて欠けて。名前を呼んでもらった瞬間幸せになるんだから。
この感情につく名前があったとして。わたしの推測する名称が適しているとして。彼がわたしの感情を受け止めてくれるとして。いくつもいくつも仮定を重ねる。
わたしたちはくっついているだけで何も話さず、茜色の薄くなる六畳間で呼吸だけしていた。冬が褪せて、春になっていく。わたしたちを置き去りにして。
眠くはなかったけれど、瞼を下ろした。
「立って寝るのはどうかと思いますけど」
「寝ないよ」
恵ちゃんはため息をついた。目を瞑っていてもわかるくらいに大きなため息。
「よるさんは割と強がりいうだけ言って結構寝てること多いですよ。どうせ寝るならせめてあったかくして寝てくださいよ」
「恵ちゃんってさ」
少しだけ長い瞬きの間に茜は消え去り、深い藍色に染まっている。彼が振り返る。わたしは床に手をついて体勢を正した。
姿勢を崩した恵ちゃんの顔は、西から差し込む茜色に照らされている。斜陽に形取られる中で、青い目がわたしを見ている。それは、夜になる色であり朝になる前の色だった。

恵ちゃんは、特別だ。幸せになってほしい。本当は今すぐ、呪術なんて関係ないところへ逃げてほしい。君が望まないとしても、そうだとしても、幸せになってほしい。
恵ちゃんの緩い襟ぐりを掴んで、唇を重ねた。最初にしたのはそっちなんだから、いいでしょう。このぐらいならきっと、言わなきゃ誰もわからない。
今日は雨は降っていない。だから何も言い訳が思いつかない。あまりにも艶やかな夕景を睨む。電線にとまっていたカラスが弾かれるように飛び去った。
恵ちゃんからの連絡を逐一気にするわたし。無意味に増えるリップだとかマスカラだとかアイシャドウだとかそういう類のもの。意味がない。恵ちゃんが気づいていても知らなくても、それでも。
「変なところで言葉止めないでくれます?」
「ごめんて、なんていうか……君は」
キスをしたことも、君に会いに来たことも、呪術師になったことも何も後悔していない。ただ、ひとつ後悔することがあるとするならば、きっと恵ちゃんのことを好きになってしまったことだけだ。好きになんてならなければよかった。好きだと言われても、好きだと答えなければ変わらない。最低だって罵っていいよ。でもきっと、わたしは君から奪うことしかできない。
「恵ちゃんはほんと、やさしいよ」
暖房をつけ忘れた。けれど重なっている手だけは冷たくはない。12月の真っ直ぐで喉を裂くような空気が6畳に満ちていた。暖かいわけではない。麻痺しているのだ、わたしも彼も。間違いだとかいけないことだとかそういうものではなくて、ただ間違えただけ。間違えちゃったと手を放して、忘れてしまえばそれで終わり。
12月25日なんてなにもなかった、そういうことになる。雪は降らない、木が揺れる音と呼吸音ばかりが耳についた。冬の日差しは弱い。それでも、恵ちゃんの目は翡翠のような硬くて緑っぽい色をみせた。どうか、君だけはきれいなままでいてほしい。でもきっとそうはいられないのだろう。
「だから、優しくなくてごめんね」
視界に高専の制服を入れないようにしながら懺悔する。そう遠くない日、消えてしまう。君の頭の中の最下層に押し込む。
「君の思うような優しい人間じゃないの。ニセモノだよ」
やさしくなりたかった。
正しくありたかった。
津美紀さんのような善人にはなれなくても良いから、君が無防備に微睡める場所があることを願っている。
「暖房ついてませんね、つけますか」
「いやそうじゃなくて」
「別にアンタがそうじゃないことぐらいわかってましたよ。正しくあれなんていえるわけないでしょ」
恵ちゃん。声にならない。
「そんなことはもう気にしてませんよ。……よるさんだから、俺は家に呼んだんです」
「ごめんね」
「どうして今謝るんですか?今じゃないでしょ」
仮定することすら馬鹿げていて、きっと全てを書き換えなければいけないくらい果てしないことだけど。この先、恵ちゃんの手を取るのがわたしなら、よかった。
君が、幸せと安らぎだけを抱えて生きていく夢を見ている。
「そうだよね、ごめんね」
君に好きだと言えるくらい、強くなりたかった。恋だとか愛だとかそういうもので全てを捻じ曲げる力を持ってなくてごめんね。否定することしかできないし、きっとわたしは君から奪って隠すことしかできない。
でも、奪って隠すことで君が幸せになるなら、それでもいいような気がするの。
「だからそうじゃないでしょ……。何かありましたか?」
灰色の空。空っぽの六畳間。ダンボールに詰め込んだ日用品。恵ちゃんが隠す紙袋。全部に気づかないふりをして、わたしはフローリングの傷を撫でた。今日を何一つ忘れてしまわないように。
「大丈夫だよ、ちょっとだけ、哀しい夢を見ただけだから」
「なんですか、それ」
「恵ちゃんと会えたからもう平気だよ」
「……特に何も答えたくないことは分かりましたけど、いつか教えてくださいよ」
次を語る恵ちゃんは何を見ているのだろう。
君と生きることなんて出来やしないけど、でも、君のためになら生きてもいい?
かなしい夢でも君がいるだけでやさしい夢になるよ。ゆっくりゆっくりと雪が溶けるように、世界が終わっていく。美しい時間はどんどん混濁して、混沌になる。もう二度とこの日の夢を見れないような気がした。手を離す。指先に名残り惜しさだけが生々しく残り、君の体温は消えてしまう。夢なんて、過去の繰り返しだ。過去だってきれいに過去を謎ってはくれない。願望と現実とありもしないイメージが混ざり合う。恵ちゃん。世界で一番好きだった彼の名前。
恵ちゃん、ごめんね。わたしじゃなければいつかは来たかもしれなかったのに。


ああ、まただ。深い黒色のビロードが見えた瞬間ため息が漏れた。カタカタと揺れる車内。知らない景色が流れる車窓。隣にある温もり。
ふと隣に恵ちゃんが見えて、少し微笑みが漏れた。彼に触れようと、手を伸ばした瞬間、弾けるように、これは夢だと理解した。
なにも、夢だと見せつけてこなくてもいいのに。せっかくなら出来のいいものを見せて欲しい。夢を夢だと気づかせないで。
恵ちゃんに差し出そうとした手を引っ込めて、隣にある窓を眺めた。小刻みに揺れる列車の小さなボックス席と、角を丸く形どられた窓。窓にもたれかかっても振動は伝わってくることはなかった。そりゃ、夢だから当然だ。夢。車窓を流れる景色は子供がクレヨンで塗りたくったようなデタラメ具合で、座っているのか立っているのかの感覚だって曖昧だ。何もかもが信じられない。

突然列車が大きく揺れて、わたしと恵ちゃんの身体も揺れた。どうやら恵ちゃんは眠っているようだった。ぐらり、と重心を崩してわたしの肩に着地した。それでも彼は眠っている、無防備にもわたしの肩に頭を預けて。子供みたいな顔で眠っている。15歳みたいな顔。疲れたよね、とわたしは微笑む。
返事が帰ってくるより先に、座席はいつのまにか消え失せて、わたしは十字路に立っていた。古い民家。どこからか香るカレーの匂い。白線の部分が割れたアスファルト。緑色の生垣。標識を見上げる。真っ白。指示は何もない。無という指示。
よるさん、と恵ちゃんに呼ばれたような気がして道の先を見た。
遅れますよ、恵ちゃんの口がそう動く。なんの約束をしていたんだっけ。修学旅行の自由行動に似ているな、と曖昧に思った。知らないくせに。そうだ、知らない。
それが夢だということが分かるぐらい、わたしの立っている地点も、信号機も、修学旅行なんて記憶も、頓珍漢だ。
知らないのに、知っている。
知らない感覚だった。夢というものが記憶の集積だというなら全く知らないものが出てくるのはどうしてだろう。
アスファルトを確かに踏みしめているのに、首から下は落下していく。眩暈。背中が遠ざかった。歩き方。歩幅。背中。制服。平面はいつしか斜面に変わる。転がり落ちることもできない。頭が痛い。色がついていたはずの空間は白い殺風景な部屋になっていた。目が痛くて、わたしは手で顔を覆った。「恵ちゃん」呼ぶ。恵ちゃん。繰り返す。まるで呪いのようだった。わたしは現実で失敗した。呼び止められなかった。正直に言えなかった。逃げた。目を開けている事すら耐えられず、瞼をおろす。目を開いても閉じても空間ばかりがわたしを責め立てる。
「よるさん」
声がして、瞼をひらく。指の隙間から裸足が見えた。砂浜の上。聞いたこともない波の音が追いかけてくる。
「ねえ、全部忘れていいから。いいから……恵ちゃんって、呼んでもいい?」
恵ちゃんがわたしに近づく。これは夢だから、返事はなかった。冷静な思考が片隅にいる、馬鹿だねって呆れている。それでも、それでもね。一度でいいから、尋ねてみたかったの。
今思えば許可を取っておけばよかったなあ。わたし、君が思うよりずっと君のことが大切だったみたいでさあ、笑っちゃうよね。こんな悲しくなるなら、愛称なんてつけなければよかったのかもしれない。恵ちゃんの手がわたしに延ばされる。
これは夢だから、わたしも恵ちゃんの背中を抱きしめた。
「ねえ恵ちゃん、このまま夜が来てもそのままでいてよ」
砂浜が崩れ落ちる。世界が終わった。ねえ恵ちゃん、愛してる。誰も聞いてはいない独白。幸せになってほしい。そのためならわたしの全ての居場所を、力を、心を、あげたいね。

23.01.17