幸福実験

一番好きだった人の夢を見ていた。優しくて、悲しくて、幸せな夢。恵ちゃんの横顔が視界の端に映りこむ。残念ながら、夢の中の彼と記憶の彼と目の前の彼に違いはない。記憶がないから君じゃない、と否定できるほどわたしは一途じゃなかった。
「あー、寝落ちするところだった。これ難しくない?」
「完全に寝てましたよ」
「そうかな……て、あれ、悠仁は?」
恵ちゃんがマグカップに残ったコーヒーを飲み干した。特に感情を波立てることもなく、平坦な声で「アンタが俺に寄りかかって寝始めたところで焦ってと出ていきましたよ」と答えた。「悠仁には悪いことしちゃったかなあ」
「枕にされた俺にはなんの謝罪もなしですか」
不満そうな顔をする恵ちゃんに向き直って、わたしはとびきりの笑顔を浮かべる。恵ちゃんがボロクソに言ってくる方の笑顔。
「気持ちよかったよ」
「言い方どうにかならないんですか」
「いい夢見れたよ、わたしが今度は膝貸してあげようか?」
恵ちゃんはわたしの誘いを完全に無視する。これ、と目の前の液晶を指で指す。話を逸らす。わたしを脈絡ないと叱責する割に自分だって都合が悪くなったら同じことをするんだから。
「これ見るって言ったのよるさんですよね。前から思ってましたけどあまり映画に興味ないくせに何でこんなの選んだんですか」
「まあ、映画はあまり好きじゃない。全部が嫌いってわけじゃないんだけど」
背中しか見えなかったけれど、恵ちゃんが面倒くせえ、と顔を歪めたことはわかった。忘れても同じことをする彼が愛しい。でも、同時に虚しかった。床に放り投げたDVDを拾う。オードリー・ヘップバーンと目があった。
「なら興味ないもんじゃなくて、その好きなやつを持ってきてくださいよ」
見たってよかったけど、見ようと声をかける勇気はなかった。最後にさよならするラブロマンスは好きになれない。映画の中でくらい幸せな物語がみたい。ありきたりだって映画ファンが呆れるような、映画館を出た後には忘れてしまうようなそんなありきたりなロマンス映画でいい。ふたりは幸せなキスをして終了、いいじゃない。わたしだってそれがよかった。
「あ、恵ちゃん。今日すごく月が綺麗」
カーテンの僅かな隙間から、ポッカリと月が光って見えた。カーテンを掴んで、窓を開けた。テレビの画面は相変わらず黒を背景に白い文字で人名を流していたけれど、もう未練はないから背を向けた。流石に慣れてきたのか恵ちゃんもわたしを咎めたりしない。
「…………今日満月らしいですね」
「お、詳しいね」
「今、調べたんで」
「あはは、恵ちゃんってすぐスマホで調べるよね。そういうところなんか妙にマメというかなんというか」
恵ちゃんがわたしの隣に並ぶ。秋の風だ。高専といえど虫の声は聞こえてはこない。逃げも隠れもしないで恵ちゃんに隣に立つ。月を見上げる。少しだけ頭痛がした。
「一年で一番明るい月らしいですよ」
「へえ、詳しいじゃん」
隣に並んでも手を繋ぐことはなかった。恵ちゃんの手の甲とわたしの手の甲が意味深にぶつかった。それでも繋がれない。これでいい。何度も何度も何度も唱える。繰り返せばそれが当然だって理解できるようになれる気がして。
「……や、俺は別に。どっちかというとこういうのは津美紀の領分だったんで」
「そうなんだ。まあでも星の見方くらいは覚えておいて損はないんじゃない?呪術でも参考になるよ天体って」
「別に、俺には必要無いんで」
「それもそうね、恵ちゃんは時期に一級推薦の話くるんじゃない?」
先日の一年3人の特級各個撃破は高専内に留まらず、呪術界全体にじわり広がりつつある。悠仁も、野薔薇も恵ちゃんもすごい。強くなればなるほど、いいことなんかないような気がする。それでも、弱いままでは生きていけない。
「よるさんにはこないですよね」
「まあわたしは将来高専の術師になる予定じゃ無いし、その辺は恵ちゃんとは違うよ」
恵ちゃんが息を呑んだのがわかった。ねえ、いま同時に何か言葉を噛み殺したでしょう。指摘したらきっと最低な先輩になれる。それでも、やっぱり恵ちゃんが傷つくのは見たくない。
「大変ですね、家が立派だと」
「立派かなあアレ」
「聞かれても俺が知るわけないでしょ。まあ別に今は必要ないですけど」
何もかもを忘れてしまった君が、何もかも知らないまま終われることをわたしは祈っている。
「……月、綺麗ですね」
恵ちゃんが唇を舐める。わたしも月を見上げる。大きい、今にも覆い尽くしそうな月だ。「そうだね」とだけ相槌を打つ。乾いた声になった。きれいだけど、あまりにも近く思えて怖かったから。
「…………あんまそこに突っ立ってると冷えますよ」
恵ちゃんの横顔を眺める。わたしの視線には答えず、恵ちゃんの目が月から外れた。わたしは少しだけ安心した。満月の日はいつもより怖いから。頭の中で喧騒が激しくなる。わたしは聞こえないふりをして、恵ちゃんの表情を伺った。
「……らしくないことなんてしない方がいいですね」
冷静な表情の奥に、呆れが滲んでいる。いつもと言えばそうだけど、少し照れるようにわたしの視線から逃げる。顔を逸らす時は何かを誤魔化したい時。
「えっ。何、もしかしてなんか風情のあること言ってたの?」
「アンタは俺より情緒がないことは確かですね」
「酷いな〜、じゃあ調べようかな、なんて調べればいいの?」
「調べなくていいです」
調べないで欲しいと言われると調べたくなる。恵ちゃんはわたしの思考に気がついて「調べてもいいですけど、わかったら返事くださいよ」と言うだけいってわたしから視線を逸らした。返事なんてできないから、スマホを持ったわたしの指は止まる。横顔は落ち着いていたけれど、あまりいい表情はしていなかった。
ねえ、恵ちゃん。本当のことを言ったら君はなんて言うかな。君から奪ってしまったものをひとつずつ語り聞かせたら、君はそれでも、いつかのはなしをしてくれる?好きだからで正当化できることなんて、大概最低最悪って決まってるでしょう。君に隠れて、自分の手のひらを捻った。自傷行為に満たないくらいの、ささやかな抵抗。君が愛したわたしの腕はそのままだった。君の記憶から出てきた時のまま、そっくりそのまま肉体はそこにあった。
「あれ、花壇、もうなんか植えたの?」
「アンタがちょうど帰ってくる前ですよ」
「なにを植えたら当ててもいい?」
恵ちゃんはあまり関心がなさそうに目を伏せる。どうぞ、と小さな声でつぶやいた。
「住職からもらったチューリップでしょ」
「あってますよ、よかったですね」
「反応にっぶいな……棘も教えてくれていいのにね、ケチだなあ」
白々しいことを言いながら、恵ちゃんの青い目を覗き込む。なにを思っているのか知りたくて。恵ちゃんの視線が、わたしの指、肩、首の順番に撫でていく。
「……よるさんは、白いチューリップの花言葉って知ってますか?」
「それも調べた方がいい?」
わたしの言葉に少しだけがっかりしたように、長い瞬きをした。何かを試すように手を伸ばされて、わたしは曖昧に笑って首を振った。
まだ乾き切らない土の匂いが、秋の冷たい風に乗って香る。
「恵ちゃんさ、知ってた?わたし結構最低なんだよ」
「知ってますよ、嫌ってくらい」
「酷い女だって覚えていてね。もしも近い将来本当に会えなくなっても、わたしのこと好きでいてね」
緩やかな、さよならだった。君がくれたものをどうしたら大事にできるだろうか。命も、恋も、幸せも、好きなものも、ポストカードも、スマホの写真フォルダに仕舞い込んだ君の寝顔も。どうすればいいのかな。
「よるさん、どこか行くんですか」
花に嵐のたとえなんてことを言い始めた人はどうかしている。さよならだけが人生だとしても、やっぱりわたしは幸せなキスをして終わる物語がみたい。ほつれた袖の糸を引っ張るような虚しさなんて要らない。
数センチだけ距離を空けたわたし達は、多分神様に見放されている。宿命論なんか馬鹿みたいでしょ。
「大丈夫、明日はどこにも行かないよ。でも、もし会えなくなったら、の話」
恵ちゃんは口をつぐむ。君が何を押し殺したのかはわからない。手が落ちた。
「ばかいわないでくださいよ」
「あはは、ご存知の通り馬鹿なの」
だから、ごめんね。君と『いつか』なんて来ることはないよ。死んでも星になれないわたし達は、後世の誰かに赤い糸はおろか、星座線だって結んでもらえっこない。
中途半端に開いたスマホの検索タブに、月が綺麗ですね、と打ち込んだ。出てきた文字列に乾いた笑いが出た。恵ちゃん。
「君のためには死んであげられない」
少しだけ息を呑んで、それから恵ちゃんは知ってますよ、と答えた。

22.09.10 作成 / 23.01.17 公開