エルマ
その日は異常に寝つきが悪かった。眠った方がいいのはわかっている。眠りに落ちる直前のあの、生ぬるいところまで辿り着くのに、最後まで意識が冴えている。何もすることもできずに、外から微かに聞こえる雨の音を数えていた。だから環境の変化に機敏になっていた耳は、微かに軋む床も控えめに回されるドアノブが擦れる金属音も全て聞こえていた。
「恵ちゃん」
先輩の声がした。鍵を閉め忘れたのをいま思い出しても遅い。寝返りをした、というふりで壁側に顔を向ける。
「恵ちゃん、本当に寝てるの?」
起きてますよ。答えたってよかったが、なんとなくそれを避けた方がいい気がした。答えを求めているようには聞こえなかったから。先輩はゆっくりと髪を梳き始めた。
暗い部屋の中で単調な雨音に向かっていた意識が、手の動きに向かう。冷たい指先がこめかみに当たる。芯まで冷えた指。けれどもそれは錯覚だったのだろうか。
「全部忘れていいよ」
それに黙っていたら「ごめんね」なんていう、何も悪いと思っていない声が返ってきた。ごめん、ごめんね。捉え所のない謝罪が繰り返される。
「恵ちゃん、忘れてもわたしが全部覚えてるって言ったでしょう?」
大丈夫だよ、なにが、と問うより先に、俺の頬から指が離れる。最後まで指は震えていた。
「これを最後にするから」
脈拍が速くなる。実は狸寝入りに気づかれてるのではないか、とすら思う。指先ひとつ動かせない。背中に冷たい汗が一筋伝った。
あの人が離れる瞬間、花の匂いがした。いつもの夢の中と同じ香りだった。
俺は今までなにを忘れてきたのか。これもまた夢のひとつなのか。先輩が部屋のドアを閉める音を聞くことしかできない。いつかにもたげた言葉が喉の奥に溜まる。あの夢に出てくるのは先輩なら、どうして。
「先輩、なんで」
こじあげた瞼の隙間から、天井を仰ぎ見た。身体を捻るようにして先輩に向き直る。肩甲骨に走る痛み、肌に張り付く湿度の高い風がこれは現実だと訴えている。
「……ああ、起きてたんだ」
先輩の手が離れた途端に硬直が解け、一気に汗がふき出した。
「まだ喋んないでね。ひとつ、勝手に部屋入ってごめん。鍵かかってたら諦めようと思ってたんだけど、空いてたから。不用心だから明日から気をつけてね」
一度言葉を区切ると手元で何か紙を破った。
「ふたつめ、今度は質問。恵ちゃんはどこまで覚えてる?」
「…………泣きながら謝られるところ、ですけど」
「他には?場所とかやりとりとかなにかある?」
「他?」
俺の言葉に先輩があからさまに安心した顔を見せた。
「忘れても仕方ないから。恵ちゃんにはそこまで背負わせらんないしね」
「それでも教えてください。巻き込んだなら責任持って情報を共有して貰わないと困ります」
「話せることはあまりないんだけど……そうだね、次に会った時、恵ちゃんが私の名前を覚えてたらなんかひとつ教えてあげる」
「理由くらい聞かせてもらわないと割にありません」
「何言ってんの、呪いなんて割に合わないことばっかりじゃん」
「だからです。あくまでも俺達は呪術師であって呪いそのものじゃないでしょ」
先輩は「恵ちゃんさあ」とだけ言ってまだ黙ってしまう。何かを堪えるように瞬きを2回繰り返す。堪えて飲み込んで、目が合った。月の光を全て集めたような色だった。
「じゃあ、ヒントあげるよ。照れるから耳貸して」
渋々先輩の口に顔を寄せた。一回しか言わないからね、と前置きをされる。
「わたし、恵ちゃんのことが好きなの」
これ以上なにもいえなくされたのだ、ということに数秒たってから気がついた。
朝、頭痛がして瞼を細める。カーテンの隙間から白く発光する日差しが斜めに入ってきて、壁に激突している。
頭痛がひどい。今日は任務も入っていないから、真希さん達の扱きにさえ耐えればいい。カーテンを開く。百日紅の赤い花が咲いていた。
「先輩?」
真希さんでも、狗巻先輩でも、パンダ先輩でも乙骨先輩でもない。恵ちゃん。そうやってふざけた名前で俺を呼ぶ、迷惑で面倒臭い人。西日に飲まれてから先輩の顔が思い出せない。先輩はどんな顔をしているのか何もわからない。鼻筋ひとつ、風に揺れる前髪ひとつ、浮かび上がらない。
「恵、やっほー。元気してる?」
頭痛が酷いのを奥歯で噛み殺す。呼び止められて振り返った。「なんかアッチ楽しそうじゃん」言葉を浴びせられる。五条先生の意味深な声。その人差し指で示された方向にいるのはあの人だった。毎朝、教室の中で顔を突き合わせては、開口一番表情筋が死んでるだの、もっとフレッシュになれだの意味わからないことばかり言ってくるくせに。五条先生がまともな言葉を言わないのはいつだってそうだから、俺は別にどうだっていいかと聞き流した。
「」
俺の前で先輩が笑っていると、周りが皆楽しそうだと口を揃える。何が楽しいものか、と釈然としない感情ばかり胃液に浸していた。でも、もし万が一に、あれが俺に向けられた形容詞じゃなかったとしたら。
「恵、アイツは明日いないけど。せっかくだし最後に挨拶してきたら?」
「……まるで永遠のお別れみたいに言いますね」
「恵にとってはそうじゃない?」
「は?」
思わず五条先生の顔を見上げる。アイマスクのせいで表情なんてわかるわけがない。ただ、口が三日月のように弧を描いた。趣味の悪い微笑。
「アレは、本当に性質の悪い呪いだよ」
「……呪いが優しいわけないでしょ」
「恵はわかってないねえ。恵だって好意に気づいてないわけじゃないくせに」
恵ちゃん。
持ち主を失った声が可視化される。脳内で不自然に四文字が漂っていた。そんな呼び方をしてくる人なんていはしないのに。
「そうだ恵、ひとつヒント出してあげるよ」
「なんですか唐突に」
「今年の2年は何人いるかわかる?」
ほらほら、と突かれて渋々答える。
「ほらほら、指を立てて数えてみなよ」
指を立てて数えるほどいないだろうに、五条先生は隣で指を立てろと囃し立てる。早く終わらせようと、一本ずつ指を立てながら先輩達の名前を上げていく。禪院先輩、狗巻先輩、パンダ先輩、乙骨先輩、それから。それから……?指は4で固まる。それを見た五条先生は、小学生同士の言い合いに買ったように「正解は5人でした〜!」と俺の親指を無理矢理開かせた。
「何やってんですか」
先生の手を振り払う。手をゆるく握りしめる。
俺は、先輩の名前を思い出せなかった。
23.0622