足跡だらけの白昼夢
思えばその日は朝から可笑しかった。梅雨の束の間の晴れ間で、嫌になる程暑い日だった。そう、先輩と夏は似合わない、そう思った。そうだったはずだ。
咄嗟に手を庇ったから、目尻からこめかみにかけて一瞬、何かが掠った。なにが、と特定するのも馬鹿馬鹿しい。どうせ落ち目の都市伝説だ。もう大した火力などない。血の出る気配すらなかった。恵ちゃん、先輩が俺を呼ぶ。手が差し出されて、その先を追う。
へらへらとした表情のまま「恵ちゃん」とただ繰り返す。その手を払って立ち上がる。
「え、なになに!恵ちゃんのくせにナマイキ〜」
「ごちゃごちゃ言ってないで終わらせてくださいよ。これ俺関係ないんですから」
「悟に付き合ってやれって言われたんだから付き合ってよ」
「…………先輩はこういう時ばっかり頭回りますよね」
嫌味。それを嫌味とみたのか、どうでもいい言葉だと流したのかわからないが、先輩は何も言及せず「じゃ、わたしがとどめ刺してくるから」と制服を翻した。
「終わりました?」
先輩がピースサインを向けた。呑気な人だ。先輩の右手と俺の両手を見比べて、先輩が笑う。
「恵ちゃんの手ってさ、きれいだよね。まあ商売道具みたいなもんってのもあるんだろうけど」
「いきなりなんですか」
「ちょうど目に映ったから?前から思ってはいたよ。きれいだけどちゃんと男の子の手だよね」
ほら、と先輩が俺の手をとって、先輩の右手の手のひらをつける。
「ちょっと骨っぽいし大きい。でも皮膚は柔らかい。……面白いね?」
「面白いのはわかったんですけど、俺は今すぐ帰宅したいですね」
「あはは、正直だなあ」
補助監督との合流地点へ足を向ける。先輩が先行する。頑丈に覆われた左手が見えた。手袋。腕が揺れるだけで指先はぴくりともしない。
「…………十分、先輩もきれいですよ」
ゆび、とつづける。
「あはは、ありがとう」
先輩が左手を隠す。その行為へなぜか無性に腹が立った。だから、隠そうとした手を掴んだ。包帯こそ取れたが、それでもまだうまく動かない。だからついてきた。指を噛まれて、切り落とさざるを得なかった、らしい左手。握りしめても、同じ力は帰ってはこない。一方通行。
「手、気になる?」
「気になると言えばそうですけど。……治らないんですか?」
「流石に生えてはこないかな。くっつけるぐらいだったら硝子さんに頼んだけど、今回は指に毒素回りきってたからなあ」
落としてきちゃったし。そう、どう考えても一大事なことを平然と語るこの人が信じられない。死ぬ直前まで平然とへらへらと笑っていそうだ。心臓のあたりがざらりと痛みを訴えてくる。先輩にはわかりっこない感覚だろうが。
「先輩、いつでも死んでいいみたいな戦い方やめた方がいいんじゃないですか」
「や〜……いくらなんでもわたしだっていつ死んでもいいとは思ってないね」
「……その割には命がいくつあっても足りないレベルの無茶貼りますよね」
語尾に力が入った。先輩は横目で俺をみてご機嫌に、「誰しも心臓はひとつって決まってるじゃない」と返してきた。そうじゃない。俺に説教ができて少しご機嫌らしい。ため息が自然と出る。結局今日だって先輩は何もわかってない。
「わたしからすると恵ちゃんの方がポンポン命を投げ捨てようとしてると思うけれど」
「話逸らさないでくれます?」
「逸らしてないよ。わたしはね、いつどこで死ぬかは決めてあるの、生まれたその日からね」
子供みたいに大袈裟な単位を使う。相手にするのも馬鹿馬鹿しくて、足元に転がったコンクリートの破片を蹴った。
「新田さんちょうどいないですね」
話題をすげかえたことに気がついたのか、それとも全く気がついていないのか先輩が駐車場の側のベンチを指差す。
「よし、ちょうどいいから恵ちゃんそこのベンチ座って」
「何がちょうどいいんですか?」
「いいからいいから」
俺の腕を掴んで、そのままベンチに座らせられた。なんですか、と反抗するより先に、先輩が頬、目尻の少し下あたりを指差した。
「はあ」
「恵ちゃんさっきケガしてたでしょう。一応呪いが掠ったんだからちゃんと処置しないと」
「いや、二級程度でそんなことには」
「万一があったらわたしが嫌」
先輩が制服の上着を脱いで、内ポケットから小さな容器を取り出す。
「傷口に染みても泣かないでね」
「俺のことなんだと思ってんですか?」
あはは、と先輩が笑いながらガーゼハンカチに容器を傾けた。薬特有の苦い匂い。似た匂いには覚えがあるが、どこか甘味も感じるこれには心当たりがない。
「それって、なんですか。……あの、傷なら家入さんに直してもらえますけど」
「ん〜?これはね、薬。薬塗った上で痛みあったら硝子さんに治してもらうといいよ」
「なんの答えにもなってませんよ」
目尻の傷にガーゼを押し当てながら先輩が、あー、と煮え切らない声をあげた。
「うちの家の薬……?うちは呪術で治療行為してきたからさ、あとはまあ、呪いとか毒をこう……こう……」
「……毒を薬になる程度に弱めてるってことですか?」
「さっすが恵ちゃん、ものわかりがいいね」
「誰でもわかりますよ」
「そんなことないよ」
絆創膏を目尻に貼る。指で絆創膏を確かめたが、それはどこにでも売っているものだった。
助けられたのか、実験台にされただけなのか。先輩は伸びをして、「新田さんどこいっちゃったんだろうね」とぼやいた。
「明日なんか用事あります?」
「ないよ、多分。なに、なんかしてくれるの?」
「さあ」
何も思いつかない。この人を誘う言葉がひとつくらいあったっていいはずだった。少なくともこの人にされていることを思えば、もっと、何か。だが、屁理屈のひとつだって捻り出せない。確かめたいことはある。でも、どう言葉にすればいいのかもわからない。
「……まあ、でも、さっき庇ってもらったんで」
口の中で言葉を転がすように先輩の方に向き直る。行き当たりばったりで言葉が出る。
「この前の約束は反故にされましたけど」
「あ。そういえばそんなんもあったね。針千本飲んだ方が良かったりする?」
「重病人にそういうことする趣味はありません」
「冗談じゃん」
先輩の冗談はどこからどこまでが冗談なのかがわからない。
「恵ちゃんも恵ちゃんじゃない。わたしに何かして欲しいのか何かしてくれるのか、どっち?」
「とりあえず先輩に借りを残しておくのは面倒くさいんで、先にこっちですけど。なにかあります……?食いたいものとかでもいいですけど」
「なにそれ。まあ、仕方ないから、アイス一個で許してあげましょう。今日あっついしね」
「今からですか?」
「明日とか悠長なこと言ってる場合じゃないよ」
行きに見かけた交差点の先にコンビニがあったはずだ、とふたりで来た道を辿る。新田さんに連絡を取ったところ、彼女もそちらを目指しているとのことだった。
先を歩く先輩の背中に何度も念を押す。
「これで貸し借りゼロですから」
「はいはい」
生返事に「本当にわかってます?」と追いかける声は険しくなった。
「わかってるって。執念深いねえ恵ちゃんは……」
「この二ヶ月のことを考えれば厳しくなるのも当然だと思いますが」
「細かいこと気にしてたら呪術師やってけないぞー」
「アンタらが気にしなさすぎるんだよ」
それには応答せず、先輩はコンビニの自動ドアを通り抜ける。聞き慣れたメロディが流れて、冷房が汗で濡れた身体をくすぐっていく。
「まあ、みんな考えることは同じって感じがするね」
先輩の言葉の通り、コンビニの冷凍棚にはかなり隙間があった。この付近に他に店がないからどうしてもこの店頼りになるのだろう。
「どれにするんですか」
「正直どこまでありなの?上限てないの?300円でとか言っても許される感じ?」
「なにさらっとダッツにするつもりなんですか?」
「例えばって言ったじゃん」
「…………いや別にそれでもいいですけど、金はありますし。でも先輩自分でも買えるでしょ」
「まあね……金払いだけだもんねこの仕事は。わたしも遠慮してるとかじゃないけど、ほら恵ちゃんだって悟相手なら高いお店連れてってもらうじゃん。寿司とか」
「それはまあそうですけど……」
五条先生と同列と言われるのは正直納得がいかない。咀嚼が追いついていないのは表情にだろう。先輩は俺の顔を覗き込んで「なんかごめんね」と曖昧な謝罪をした。
「何への謝罪か聞いてもいいですか」
「いやあ、流石に悟と同扱いは酷かったなあ……って」
「皆まで言わなくて良いんですよそういうの」
「言えっていったり言うなっていったり忙しいね恵ちゃん」
人を散々おもちゃにして満足したのか先輩が冷凍庫の中からパピコの包装を手に取った。
「ひとりでふたつ食べるんですね」
「わたしそんな食い意地張ってるように見える?」
「普通に嫌味ですけど。これでいいんですか?別に払えなくないですけど他のも」
「いいよ」
「それならいいですけど」
「だってさあ……こんなクソ暑いなかわたしだけ良いもの食べてたら、新田さんに幻滅されちゃうじゃん。平気で後輩をパシる横暴な奴だと思われたくない」
「既にそれ事実だと思いますけど」
「細かいことはいいの。高いものは、ほら、恵ちゃんが一級とか特級になってから奢ってもらうし」
「本当に良い性格してますね……」
「ありがと」
「この際もう良いですそれで」
明確な敗北宣言。受け取った半分はまだまだ硬く凍っていて、よく冷えた容器を握る手は悴みそうだった。アイスの上の部分を舌に乗せる。味よりも冷たさを訴えてくる。外側だけではなく中身もまだまだ凍っているらしい。
「本当はね、この辺に変な自販機とかあれば良かったけど」
「ああ、色々ありますよね」
「面白いよね。ほら、こういうの」
先輩が嬉々としてスマホの画面を見せてくる。
「……好きなんですか、そういうの撮るの」
「出張先からみんなに送ると、反応面白いんだわこれが。あっ、これは棘と憂太が送ってきたやつね」
「……なんで狗巻先輩そんなポーズしてるんですか」
「知らない。フィーリングじゃない?」
「適当すぎるでしょ」
あはは!先輩が笑う。気になるならちゃんと聞けば良いのに。軒先の淡いグレーの地面に、溶けた氷が黒い染みを残していた。
「恵ちゃん、恵ちゃん、あれ。新田さんの車じゃない?」
先輩に肩を叩かれて道路を見る。黒い車がこちらへ向かってきている。向こうもこちらに気がついたように、運転席の方が軽く手を上げた。
「そうみたいですね」
手に持っていた水滴だらけの容器を逆さまにして残りのアイスを口に流し込んだ。
23.0622