祝福は春の底より


「このノート配っておいてくれないか」
 なぜ、先生という奴は依頼のくせに最後にクエスチョンマークをつけないのだろうか。全員が全員そうという訳ではないが、圧倒的にそういう奴の方が多いと感じる。ひとりきりの教室のなかで俺は息を吐きながら机に潰れた。穏やかな先生だが流石に、たったひとりの教室というこの状況で無視したら眉を歪めるだろうな、とぼんやりと考えながら、教卓に置かれたノートの束を眺める。
 電気の消えた教室は、夕方というのも相まって暗い。カーテンが風で膨らむとさらに光は僅かになっていく。俺は起き上がって腕を組んで顎を乗せる。冬でも夏でも学校はどこか湿っぽいような感じがする。家や寮、体育館とは空気が違うのはおもしろい。基本的に体育館で過ごしているからか、ひとりでいると教室って変なところだよなと思いがちだ。どうでもいいことで思考を埋め、時間を潰していたが、教室へ近づく足音は全くないし、ここで潰れていても終わる気配もない。どうやら、俺がやらないといけないらしい。だる、と呟く。ひとりきりの部屋にはより虚ろに響いた。
 腹を括れども一々座席に置いていくのはかったるい以上のなにものでもない。苦肉の策として、それぞれの列の先頭座席に置くことにした。こいつは窓側、こいつは廊下側から二番目、こいつはどこだっけか。教卓に貼られた座席表で表記された文字と同じものを探す。どうやら窓際の一列にいるらしい。分類、分類、分類。機械のように黙々とうごがしていく。順繰りにやっていくと思いの外早く終わった。なんというかこれ、アレだな。100数えるのに1から数えると面倒でやりたくないが、1から10を10回やるとするなら早く感じるアレだ。脳内の白布が「それはちげぇだろ」と呆れ顔をしているが無視だ無視。先頭に置いたノートと座席表とを睨めっこしながら、それぞれの机の上に戻す。よかったな、持ち主の元へ帰れて。心のなかでそっと声をかけながら次の列へ移動する。そして俺は左手に座席表を持ち、先頭からノートを回収し、以下略。
 廊下側の最後の一列に取り掛かるべく、後方の座席から先頭へ向かおうと方向転換を、したかった。失敗した俺は机の角に腰を強打して、その場で腰を抑えて硬直する。脳内のイメージよりも狭い通路だったな。強打したところをさすりながら、教室を見回す。今日初めて、誰ひとりとしていない教室に感謝した。いくら机の角が丸いつっても結構痛い。近くの机に寄りかかれば、俺の体重で揺れて机の中から滑るようにノートが落下した。拾い上げるも、名前はない。座席表で確認すればいいわけだがあいにくと左は腰に当てている。要は、誰のものかはわからない。とはいえ、この状況でもかなり絞る事ができる。まず、ピンクの表紙というところから判断するに、持ち主は女子。後はまぁ、本人には悪いが中を見ればわかるだろう。
「なんじゃこりゃ」
 いや、まじでなんじゃこりゃ。思わず俺はノートを蛍光灯にかざすように持ち上げた。先生に命じられた仕事は俺の頭からするすると消えていく。そんなことよりも目の前の生命体の方が俺の好奇心をくすぐってくる。ノートの中には、ウサギのように耳が長く、加えて先端が三角定規のごとく尖っている。いやよく見ると、ウサギにしては尻尾が長い。見たことある気がする、なんていうかキツネに似てる。あの、キツネに見えないキツネ。サンテグジュペリの、星の王子さまの、あのヘッタクソな絵。だがキツネと断定するのも厳しい。よく見ると腹の方に模様が入っている。
 ……キツネって、模様が入っているもんか?首を傾げる。いや、模様だけに関していうなら、俺、コイツを見たことある気がする。なんだったっけ、と首をひねっていると背後からドアが開く音がした。不意打ちのそれに俺の手は大きく跳ねて、ノートをくるりと足元へひっくり返す。顔を上げればみょうじが僅かに目を開いて立っている。
「川西?そんなとこで何やってんの」
「…………ノート配ってる、先生に頼まれて」
「おー、大変じゃん、おつかれ」
「俺しかいなかったから、仕方なく。みょうじの方はどうしたの?」
「忘れ物しちゃって……。そこ私の席だからちょっと頭下げてもらえる?」
「あ、そういうこと。了解」
「ありがと……あった。じゃあまた明日ね、川西。お疲れ様!」
 言いたいこと、やりたいことだけやってみょうじの足音はあっという間に遠ざかっていった。自由なやつだな、と圧倒されながら机を支えにして立ち上がる。さて、このノートはどうしたものか。残りのノートを配りながら考える。これがみょうじの席から落ちたということから察するに、限りなくみょうじの持ち物である可能性が高い。みょうじ自身、はたと気づいて忘れものを回収していったわけだし、もしかするとこのノートは大切なものかもしれない。届けられるなら届けてやりたいが、残念ながら俺はみょうじの家も知らないし、所属している部活も知らない。なんでもない顔して、元の場所に戻しておくべきだろうか。でも。聞きたいことがあるから、と姿の見えない誰かへ言い訳をして、俺はノートを持ったまま自席の方へ歩いた。

21.0210