いびつな楽園がきこえる


 みょうじなまえと俺はクラスメイトである。みょうじは廊下側から二列目の後ろから二番目。俺は一番窓側の一番後ろ。共通の友人もないし、おそらく同じ話題で盛り上がれない。だが、俺の知るみょうじは人当たりが良いやつで、入学したばかりの春先の研修旅行でも良いやつを発揮していた。クラスメイト。俺とみょうじの繋がりはそれに尽きる。今日は立ち上がるのも手間なくらい日差しが強い。ところで、俺の座席は頑張ればみょうじの横顔を伺うことができる位置にあたる。しかしまぁ授業中にはそれが厳しい、かと言って話しかけるのも億劫だ。そんなことを思いながら教科書とノートの下に潜めた件のノートを眺める。これ、見つかったらかなりまずいよな。
 古典の教師が「今日は立春ですね」と楽しそうな声をあげるから、一瞬だけ窓から広がる青空に視線をやる。確かに今日の空は澄んだ青だが、昨日の空の色を覚えていなかったから違いがわからなかった。そもそも、昨日空なんか見てない。俺たち生徒を置き去りにしたまま、教師はまるで今日から空は鮮やかな黄色にでも変わったかのように目を輝かせる。
「つまりは梅がそろそろ咲く頃ね。短歌で使われる花って実は大抵梅なのよ。じゃあ、今日は136ページの十訓抄」
 梅、という単語になんとなく手元へ視線が落ちる。ピンクちゃピンクだが、ただそう形容するよりかは桜とか梅とかそんなものの色をしていると思った。もしも、もしもみょうじも同じことを思っていたらどんな表情をしているだろうか。みょうじが花といえば梅や桜を思うやつかは知らない。俺の中でみょうじは春先の寒くて薄暗い砂浜でくしゃりと笑っているだけだからだ。
「先生すみません、日差しが眩しいんでカーテン閉めます」
 堪えきれず、手を上げひとこと断って立ち上がる。先生は特になにも言わなかったがこれは是だろう、感情がはっきりとしている先生なので。そのまま俺は机と壁の間でカーテンをまとめているタッセルを解く。
 横目でちらりとみょうじの方向をみる。あ。薄く口を開いたみょうじの表情と向かい合う。俺たちの視線が一本の線のようにピッタリと重なる。みょうじの目の中に俺と、窓から見える青空が映り込む。みょうじの捉えている俺は小さくてぼやけているから、俺がいまどんな表情をしているのかはわからない。もしも、俺がたずねたのなら、答えてくれるだろうか。正体不明の落書きも答え合わせがしたい、ただそう思った。
 しかしまぁ『目は口ほどに物を言う』なんて酷い戯言だ。俺はみょうじの気持ちなんかひとつもわからない、でも、深く埋め込んだものを掘り起こすことを決めるのには役に立った。



 白鳥沢学園一年生の代表的な行事には研修旅行がある。と、いうのも、五月のまだクラス全員が様子を伺っているあの時期に計画されるものだというのがデカい。1泊2日の短い時間で、たったひとり、海岸でしゃがんでいたみょうじのこと。あの日、俺は声をかけるのを戸惑って、踵を翻してしまった。折に触れて、それが残念だと思っていたんだ。例えば、その後みょうじを迎えに行った男子とみょうじが付き合い始めたと聞いたときとか。
 暇を持て余している俺の手は忙しなくノートの端で遊んでいる。そんな俺を見つけたネコがゆっくりと俺の方へ近づく。いつも放課後にしか来ないから不審に思っているんだろうな。けれども、我関せず、という面をしてみる。パラパラ漫画を見るときのペースで親指を引っ掛けて、無意味に春めいた色を眺めて。時間を潰すことに慣れていないは、日頃のバレー部の練習が一因かもしれない。俺がノートの端をパラパラと10回ほど捲ってから、ようやく、隣の階段から急いだ人間の足音が聞こえてきた。おそらくは最初は早歩きだったんだろう、と思ってしまうほどに持ち主の息は大荒れでペースが乱れていた。にゃあ、俺の足元でネコのしっぽがピンと真っ直ぐ張る。アンテナじみたそれに口元が緩む。
「お、来た来た。みょうじは昼間来てたんだな」
「……か、わにし、なんでいんの……?」
「忘れ物を届けに、ってとこだな」
「いやごめん、全く意図が掴めそうにないんだけど……。どういうこと?」
 俺の足元にいるネコと全く同じ表情を浮かべるみょうじに、件のノートを掲げる。あ、教室で交差した時よりも明瞭にあ、の音をあげる。
「テッテレテー、みょうじのノート!」
「なんで川西が……ってそっか!昨日のか!うっわサイテーじゃん」
「待って、なんかいまこの場で誤解が生じた気配がするんだけど」
 手でみょうじの言葉を止めようとするも、みょうじはそんな信号を無視してわざとらしい言葉を続ける。どこか芝居がかった挙動におもわずめんどくせー、とあからさまに顔を歪める。いつまで続くんだこれ。
「川西はいい奴だと思ってたのに……そんなことするなんて……」
「え、なにこれ寸劇?」
「ノッってよ!寂しいでしょうに!」
「ええー、面倒じゃん。省エネで生きようよみょうじさん」
「部活じゃ結構ノリノリだったよね、この前見た時驚いたのに。私じゃ役不足ってこと?」
「その通りです、残念ながら役不足です」
 逃げも隠れもしないと言わんばかりに頭を下げる。運動部の上下関係を甘く見てはならない。いくら上がなにも言わなくても周囲を考えると下手にでるほかないわけである。
「なぜ敬語」
「部活つっても天童さんだろ?ポジションも同じだし、いろいろ考えた結果面倒だしあしらうのが一番だったんだよ」
「テンドウサンとかポジションとかわからないけど、私がチクったらマズくないかしら」
「マズいよ」
「で、ノート返してもらえるんだよね」
 手を差し出すみょうじの方へそのままノートを渡そうと、俺の腕を前へ出す。答え合わせはこれからだから、大人しく返すわけにはいかないんだよな。
「やっぱやめ」
まっすぐ腕を伸ばして、ノートを俺の頭上へ持っていく。みょうじは俺の行動へ異議を叩きつけるが、俺はひょいと視線をずらす。俺が腕を伸ばしている限り絶対にみょうじは届きっこない。理由は単純且つ明快なものだ。俺はバレー部のミドルブロッカーをやっているから。つまりは身長はそのへんの女子に負けるようなものじゃない。
「流石にそれはズルいから!ね、川西、そのノートは別に立派なもんじゃないし持ってたところで意味ないからさ、ね!」
「それはどうだろうな〜、俺、この中見たんだけどさ〜」
「中見たの?!お願いだから嘘って言って、マジで、お願いします」
「わかった。お願いされたらいうしかないよな、嘘だよ」
「川西!」
 喜びの声をあげて、俺を見上げるみょうじに落書きのあるページを開く。ウサギにしては耳が尖っていて、キツネにしてはしっぽがまっすぐな、例の生命体を指差す。みょうじの目からさあっと一気に喜びの感情が失われる。
「この絵ってさ」
「いやちょ、え、さっき見てないって……」
「頼んだじゃん、『嘘って言って〜』って」
「うっわ、モノマネ下手くそ」
「いや、つっこむのそこかよ。で、コイツってさ、ネコでいいの?」
 俺の問いかけに、みょうじは硬直する。人間というヤツは想定外のことをくらうと思考が停止するか、素っ頓狂なことをいうものである。だが、どうやらみょうじは前者だったらしい。ちなみに白布は意外にも後者だったりする。しゅるしゅると脱力して俺の足元に屈む。丸くなったみょうじからくぐもった声がする。ネコも心配そうににゃあと尻尾を揺らした。
「なんでわかったの。……あ、そっか」
「そうそう、コイツ。変な模様があるから、もしかしてコイツかもって思って」
 ネコを持ち上げて腹の辺りにあるくろい歪な模様を見る。無理に見れば、梅とか桜に思えなくもない。まあ、なんというかそこは発想力だ。この辺は空耳なんかとおんなじでそれだなと一度でも連想してしまえば脳内で補正がかかるもんだ。
「いやでも、ほんと、よくわかったね……ウサギって思うでしょ」
「ちょっと思った。でもキツネっぽくも見えて」
「なぜ……キツネ……?」
「みょうじ、お前、星の王子さまって読んだことあるか?……ってなんで笑い転げてんの」
「川西の口から星の王子さまとは、あまりに予想外だったもので……」
「読んだって言ってもマジでガキの頃だし、意味は一ミリもわかんなかった。でも幼心にこれはキツネじゃねぇと思ったのは記憶に残ってるよ」
 俺の傍らへネコが擦り寄ってきた。みょうじに懐いているのかと思ったがそういうわけじゃないのか、意外だ。動物とかそういうのに好かれやすそうなのに。首の下を撫でてやれば満足そうにゴロゴロと喉を鳴らす。
「つーことで答え合わせも終わったところで返すよ」
「素直に聞いてくれればいいのに」
「教室で聞いたら絶対、みょうじは逃げると思うよ」
「それは確かにに逃げると思います」
 校舎裏は黒い陰に覆われて、教室よりもどこか湿度の高いところだ。俺からしても縁の薄い場所にもか関わらず、どこか呼吸が楽に感じる。不思議だな、と瞼を下ろして頭を壁に預けた。みょうじが「川西」と俺を呼んだ。明日の青は春色に見えるだろうか。
「どうしたのみょうじ」
「古典の授業、なんで私の方見てたの?ノートのことがあったから?」
「ん〜、あ……。まぁ、そうだよ」
「歯切れが悪いなぁ、なんか他に理由があるの?」
 まっすぐみょうじを見る。授業でのワンシーンのようにみょうじの目には俺が映っていて、違いと言えば俺とみょうじの間にはネコ一匹分の距離しかないことと、みょうじの視線の殆どが俺に刺さっていること。逡巡。俺の長い沈黙をみょうじは静かに待っていた。さっきまでの心地よいテンポがいつしか激しい拍動でかき消される。
「私たちさ、すごくいい関係になれそうな気がするの」
 川西はどう思う?俺の答えなど待たずに次の問いを投げて、みょうじはネコを抱き上げた。いい関係?みょうじの春のような笑顔が鈍く光っている。透明ながらも色が付いているものはなんていうんだったか。理科が得意じゃない俺にはすぐに分からない。でも、みょうじの問いに「そう思うよ」とだけ返した。嘘ではない、でも、感情を埋め込んだ応答ではあった。
「よし、じゃあ記念して何かで乾杯しようか。この辺に自販機あったよね」
「あんのそんなもん?俺、校舎裏なんか来ないからよく知らないんだよな」
「すぐ近くだったかな、多分」
「テキトーだな。そんなんでいいのかよ」
「いいんじゃない?ほら、春だからね」

21.0210