天使だから羽を休めていただけ


 3時間目の終わった後に、ミルクティーを買うのが習慣になって早くも一年経つ。なまえのすきなミルクティーを一度だけ飲んだことがあるが、かなり甘かった。それ以来、俺はコーヒーとか麦茶とか緑茶とかそういう無難なものを選ぶようになった。なまえはかなりの甘党らしくて逆に、コーヒーが飲めない。向こうはどうだろう、とスマホを取り出してなまえとのトークルームを出す。すでになまえからメッセージが届いている。
『食堂の一番手前側にいるよ。今日は白布も一緒に食べるかもって』
 俺が飲み物を調達してなまえは場所をとり、稀に白布を巻き込んで昼食。食堂へ向かうと一番最初に目につくところで白布となまえが並んでいる。なまえと視線が合う、手を振れば白布が般若のような顔で俺をみた。人でも殺してそうな顔だな。
「毎度、毎度、おまえらのデートに俺を巻き込むんじゃねぇ」
「またなんか白布がアホ言ってる〜」
「白布も誰か誘えばいいんじゃないの?いるでしょ」
「フラれたんじゃん?そっとしとくか」
「なんかあってもおまえらを助けないと決めた」
「ええ……私、白布のノートがないと数学死ぬんだけど……」
「じゃあもっと尊重しろ」
 ぐちぐち言う割には動く様子もなく、口先だけの抵抗をしている白布の手元にはしらす丼。なるほど、と納得しながら、俺は売店で買ったパンを取り出す。大抵学食で栄養バランスの取れたものを食べるようにしてはいる。でも、時々こういう惣菜パンが食べたくなる。そういうもんだと思う、人って。
「あーも、うっるせぇ。太一、みょうじ黙らせろよ。おまえの担当だろ」
 目を細めてかったるそうになまえを振り払う。女の子には優しくしてあげないとダメじゃん。例えそれがどれほど本音でも、気軽に冗談じみていったとしても、その後でとんでもない仕返しが待っている。白布賢二郎というのはそういうやつなので、素直になまえへミルクティーを渡した。甘ったるいミルクティー。
「ほいなまえ、いつものどーぞ」
「うわ〜、ありがと。いつもごめんねぇ、120円!」
「ういっす。ちょうどいただきました」
 いつものやりとりをして、そしてまた白布の眉間が険しくなる。でもお互いここでは何も言わない。そういう取り決めをしている。青春ぽい、と思って買った焼きそばパンのフィルムを剥ぐ。高1の時から始まった俺となまえの関係には名前がない。今はクラスが違うからクラスメイトでもない。マブダチ、いわゆる、親友とかでもない。俺はバレー部、なまえは園芸部。全く縁がない割には俺たちは非常にいい関係を築けていると思う。
 けれども、時折、心臓に棘のような何かが刺さって痛む。俺の心臓はあの春の日、土に埋めてしまったのにな。みょうじは「移動教室だから」と早々に昼食を食べ終えると、教室へ戻っていった。ちょうどよかった、と白布の背中を呼び止める。なんだよ、という視線とともに再度座席に腰を下ろした友人へは感謝しかない。「いつも助かってます〜」と感慨深く呟くと面倒事の気配を察した白布が嫌そうな顔をする。今日は一段と不機嫌だな。
「そいや白布、俺来週は家の用事あるから実家帰るわ」
「つまり?」
「部活休むかもしれない。正直俺関係ないからフツーに部活参加するかもだけど、一応な」
「そうかよ。まぁ、今の時期大会ないしいいんじゃねぇの。春高もなかったからな、かなりスケジュールに余裕はある」
「ちなみにうちの姉貴の結婚絡みだからおめでたの方」
「……へぇ、大変だな」
 感情の希薄な相槌、そして白布が視線が不自然に流れていく。釣れない様子に今度は俺がため息を吐く。試しに肘をついて友人の挙動を見守ってみる。
「心籠ってねぇ〜。つっても俺、実家帰ったところで居場所ないしクソ暇なんだよな〜」
「じゃあ練習ちゃんとこいよ。一応、監督とコーチには伝えておく」
 それだけいうと、白布は立ち上がる。挨拶もぞんざいに「じゃあな」というだけいって白布は走り去る。アイツはアイツなりに忙しいなら仕方ない。聞こえてるか分からないが、とりあえず背中に声をかけておく。がんばれ、は心の中でだけ。
「じゃあな、また放課後部活で」



 春の空と冬の空の境目はわからないが、春の空という概念自体は理解できるようになったと思う。秋に、春高行きを逃してから、稀に心臓が軋みをあげているときがあることに気がついた。錆びついた歯車が回る音というか、なんというかおそらく俺は、高校を卒業したらバレーをやらないのかもしれない。そんな諦念。将来、俺はどうやって生きていくだろう、どうやってなら生きてけるだろう。バレーボールに青春全部捧げることに関しては今更、後悔などこれっぽっちもない。ただ、この曖昧な感情はどこを歩くのにも脚にまとわりつくから、邪魔で邪魔で致し方ないという話だった。
 とどのつまり、俺はいま行き場を失くしていた。姉貴の結婚自体はめでたいもんだと祝福しているが、実家へ帰れと言われると、かなり落ち着かない。当初の目的通り、俺は姉貴の旦那志望とは会ったし自己紹介をしたしされた。気まずいからとそそきさと部屋に戻ればこのザマだ。中学の頃のまま時は止まっている部屋は、この2年生活している寮よりよそよそしい。
「ちょっと外出てくる」
「そうなの?太一、アンタ昼はどうするのよ」
「テキトーに食べる。……んじゃ、行ってきます」
 まるで逃げるように靴紐を結んで立ち上がる。行ってきます、という言葉だけはするりと喉から出た。寮を出る時に一々いってらっしゃい、行ってきますなんて言葉は交わさないのに。やっぱり、俺の家はここだ。行方不明の心臓はどくり、とゆっくりと脈を打つ。羽織ってきたジャージのポケットからみょうじなまえの番号を呼び出す。一番最初に出てくるのがなまえになったのは一体いつのことだったんだろうか。たった一年前のことがもう思い出せない。それはそれで俺たちらしいか。
「なまえ、いま暇なら会える?」
『……え、練習は?』
「あー、ちょっと諸事情で休んだ。いま実家なんだけどさ」
『私は、いま図書館の前なんだけど、そこまで来れる?』
「了解、着いたらまた連絡するわ」
 きっと、中学のときの同級生に連絡を取るのが自然で、合流までもスムーズだったんだろうと思う。なんとなくそれは選ばなかった。中学の頃も大して今と変わらないバレー漬けの日々で、チームメイトと上手くやってきた自信はある。
 思い出だってあるが、それはバレーボールとあまりに距離が近くて、きっと早く終われと願うに違いないんだ。俺だけに推薦が来て、それを受けた時からもうこうなることは想像がついた。中学なんていう多感な時期にアレはきついだろう。俺と白布だって高校を卒業した後、会おうと思えるかはわからない。
 車内に乗り込んで、座るわけでもなくただ立って窓の横を流れていく抽象画をただぼんやりと眺めた。みょうじなまえは俺の人生ではやっぱ、なんかおかしい存在だよな。本当に考えれば考えるほど春みたいな、そんな奴だ。改札口を通って、図書館までの道を目指す足は、寮よりも実家よりも慣れないアスファルトの上のくせに、今日一番の軽やかさだ。軽い足は少しずつスピードが上がる、地面を蹴る感覚が狭まる、呼吸のテンポがが乱れる。こんなに会いたいと思うのは初めてだ。
「太一!うっわ走ってきたの?なんで」
「……いや、ちょっと、風を感じたかったっていうか……」
「演技も嘘も下手だなぁ」
「ハイハイ。なまえの方は図書館に用事あるんでしょ、いいの?」
「あ!本の返却だけしてくる。それとも太一も図書館寄る?」
 なまえは俺の顔を見上げ問いかけた。図書館の方を一瞥する、それはそれでありではあるか。ペースをなにも考えずに走ってきたせいで背中は汗で濡れているから、暖房の効いている室内に入るのは憚られる。
「いや、俺は外でて待ってる。ご覧の通り汗がすごいから」
「あはは、確かにすごい。わかった、30分ぐらいしたらまたここでね」
「じゃあまた後で」
 肩に大きなトートバックを下げたなまえの背中が、図書館の扉の向こうへいくのを見送った。それからちょっとあたりを見回して、俺は徒歩3分ほどのコンビニへ向かうことに決めた。
 美しいという感情とは縁のない生活を送ってきた。春の日に埋めてしまった俺の心臓が何を言いたかったのかはもうわかる、痛いくらいに。
 綺麗だと伝えたかっただけなんだ。
 横顔が、俺を捕らえた目線が、気まぐれな春のような、なまえが。
 海面が昼間のまっすぐで透明な光を反射する。電車という細長い箱の天井に水面の陰がそのまま映り込んでいて、音もなく揺らめくのが綺麗だった。俺は決して感性が優れているタイプではないから、うまい言葉で形容できないのが惜しい。とにかく、綺麗な光景だった。水の中を走っているような感覚がしてくる。

「水の中にいるみたいで綺麗。時間帯ラッキーだったかも」
「本当にな。いつもだったら絶対見れないからマジでラッキーだったな」
「ね。太一といると思っても見なかった方向へ行けて楽しいね」
「俺も思うよ。最近は特に、俺っていう人間からバレーボールを引いたらなまえしか残んないってことに気がついたし」
「何それ、そんなことはないでしょ」
 昼間でこんなに綺麗な列車に乗ったのに、俺たち二人きりなのはおかしいと思わなくもない。なにかキツネにでもつまされたかのような心持ちになる。
 そわそわして落ち着かない俺の隣でなまえは背筋を伸ばして、波打つ天井をみつめていた。そっとなまえの睫毛を見る。陽射しを背に受けているから顔にはひとつ淡いグレーの影が落ちている。
「なんだか、世界でふたりきりって気分になる」
「ロマンチストの才能あるよ、太一。さて、ここで問題です!私はどこへ太一と行こうとしてるでしょうか!」
 突然始まるクイズに俺はあからさまにかったるい、という声を上げる。年上にはある程度の恩を感じるから付き合うけど、なまえにそっちの方向で尽くすのは気分が乗らない。瞬きで思念を伝えるとか、あくびの意味の読み合いとかそんなことはご遠慮願いたいものだ。
「えー、海?」
「はい。じゃあ太一くん、もう一題!今、何月か知ってる?」
「2月。でも暦の上ではとっくに春」
「知ってるんじゃん……行ったところで凍えるだけだから行きません」
「なまえさん、俺はなんも特殊能力なんてない凡人なんすよ、天童さんじゃあるまいし」
「天童さん太一のことめちゃくちゃ期待してるって言ってたよ」
「……答えは?」
 なまえは勿体ぶって、一拍お置いてから「植物園!」と笑う。春らしい彼女に、俺はひんやりとした悪戯心が疼いてしまった。なぜだろう、あの日、心臓を埋めてしまったことだけは後悔しているからだろうか。
「あー、俺さぁ花粉症なんだよね」
「……つまり?」
「つまりはちょっとキツイかも」
「嘘〜〜!私花粉症じゃないから全然理解が追いつかないんだけど、要は花粉症って花粉あるところでもれなくアウトってこと?」
「……そういうこと。一応は、マスクとティッシュでいけばわりとイケるかな〜、てな感じっす」
 実のところ、俺の主な症状といえば、秋口に多くでるブタクサとかの花粉だ。だから、今の時期の植物園はわりかし平気だろうと思う。だから、これは嘘だ。
 俺たちはきっとうまくいく、学校だけでも校外でも会えるだろう。なまえ、俺は、このまま自然とつくこの関係の名前に思い当たるものがある。多分、俺となまえは親友になるよ。でもそれと引き換えに、春の日に埋めた心臓はそのまま朽ちていく。そんなのはごめんだ。だから、いつかくる春には俺の願う形になって欲しい、いや、してやるからさ。あと、どうだっていいけど、正義だって俺だって嘘をつくんだから。
「じゃあ、海の見えるところでお昼にしようか。コンビニとかでご飯調達してさ」
「寒いんじゃなかったっけ、なまえ風邪ひくなよ」
「ふふふ。その言葉、そっくりそのまま返すね」
 次の駅からは多分海見れるよね、なまえは呑気な声をあげる。俺は休日に知らない駅に降りて、季節外れの海を見ようとは思わないが。帰りはどうなるだろうな、と右腕の時計に視線を下ろす。13時10分すぎ。
「あ。そういや渡しそびれてたんだけど」
 かろうじてペットボトルが入るような鞄。ふとチャックを開けて、入れっぱなしにしていたミルクティーの存在を思いだす。小学生のように身を乗り出して海を眺めるなまえの頰にペタリとペットボトルを当ててみる。ぎゃ!という色気のかけらもないリアクションに、俺は声をあげて笑ってやった。
「ちょっと太一!普通に渡してよ!!」
「それは今日のお礼な」
「私の休日120円かぁ……高い女のわけはないけどさぁ、安いとそれはそれで……」
「俺にとっての価値はめちゃくちゃ高いよ」
 ふと、頭の中で宝物を追想する。あちこち表面が剥げたバレーボール、どこかの空き地で見つけた四つ葉のクローバー。小学生の夏休みの河原で拾った丸い石。中学のときにはまったバンドのファーストアルバム。意味がわからなかったのに捨てられなかった絵本。ガラクタばかりの日々で、今日の水中列車だっていつかそうなる。例えそうだったとしても。
 だってほら、季節は春だからね、新しい決意をするにはぴったりなんだ。きっとうまくやるよ。俺となまえはうまくやれる関係だからさ。かくして、たった二人きりの密かな春は、終着駅を探すことになった。

21.0210