二足歩行、海を行く

やっぱ、だれもいないね。ふたりで顔を見合わせた。砂が裸足に絡んで、くすぐったい。静かにそこあるだけの海を眺めて、やっぱり、何でもないかもしれないと思った。タカのお母さんから、隆をよろしくね、なんて微笑まれてしまって、わたしはなんだか懐かしい気持ちになっていた。太寿のことだって、わたしはよろしくって言われたんだったっけ。

「わたしは三ツ谷くんになれない」
「そもそもルイがオレになる必要ねえんだって」
「だからさあ、タカのことは理解したいなって思ってるよ。でも、なんていうのかな、やっぱりわたしは太寿が世界で一番幸せになってほしかったんだなあって」
「話それてんぞ」
それてないよ、砂にしゃがんで人差し指で、タカ、と書いてみる。
そしたらタカも正面にしゃがんで、ルイ、と書き残す。ルナ、マナ、お母さん、八戒、ユズハ、ドラケン、マイキー、タケミっち、千冬、パーちん、ぺーやん、それからたくさん。こつん、とタカの丸い額にわたしの狭い額をぶつけた。ぶつけるって言ってもボウリングみたいに狙いすましてってわけではなくて、手をつなぐのと同じ力加減の、曖昧なそれ。
たくさんの名前が散らばった。踏まないように気をつけて帰ろうね。

砂に置いた指が迷子みたいに停止する。一画目を書いて、そこから動かせなかった。
「わたし、アイツに何してあげられるかが分からない」
「……側にいてやればいいんじゃね?飯一緒に食うとかさ、そういうちっせーことで変わると思うよ」
「そうかなあ」
「ぜってーそうだって。八戒みてみろよ」
タカの指がぐるりと八戒の文字を囲む。八の字から豪快にはみ出た丸と戒にぴったりくっつく終わりに笑う。不格好じゃん。珍しくパースの狂った円を描いたタカをからかうように額を合わせた。うっせえ。タカの指が迷いなくわたしの名前をぐるりときれいに囲む。
「大丈夫だよ」
「大人ぶっちゃって、タカと八戒だったからうまくいったのかもしれないでしょ」
「ウジウジ言ってる暇あったら試してみろよ。太寿君が何考えてるかはオレにだってわかんねえし」

太寿。

私がいつまでも書けなかった二文字をタカが書いた。しかも反対側から、わたしの一画目に足すような形で。タカの指先を眺めて、私があなただったらきっとそんなこといえない、と思う。何の意味もない反実仮想に、つま先をつけようとして、やめた。

「きっと朝ごはん食べるとこからなんだろうなって」
「いいんじゃね」
「タカにも作ってあげよっか?」
「……いや、オレが作った方が上手いし。でもそうだな、なんかしてくれるっつーんならありがたくされてやるよ」
「偉そうだなあ」
タカのブルゾンの端っこからでたヒモが揺れる。太寿のことがすきだ。多分、ずうっとわたしが幸せにしたい人は太寿だけなのだろう。子供の初恋にしては引力が強くて、苦しくって、重たくて、なにもわからない冬みたいな感情。

じゃあ三ツ谷隆は?

中学生みたいな笑顔がチカチカと跳ねて、タカが太陽じゃなくてよかったと思う。こんな近くにいて彼が太陽だったら、わたしはきっと丸焦げになって死んでいただろうから。そしたらきっとタカはひとりきりで、バイクにのって、なんでもないみたいに母親の手から家事を取り上げる。
ねえタカ、そのあなたの慈愛に似たなにかは、子供の持つものじゃない。でも、わたし達、いますぐに大人になんてなれないんだよ。
わたしが彼を幸せするとか、そんなおこがましいことってない。三ツ谷隆はわたしのなかでタカでしかない。中学三年の、ちょっと小柄で、でもそれをものともしない銀色の男の子。
タカと重ねた視線と額だけ、それだけが熱を持っていて、まるで、春の中だった。

「ファーストキス、貰ってよ」
なんでそんなこといったんだろう。いいよ、とはいわなかったけど、タカは「目閉じて」と顔を斜めにして近づける。やわらかい、あったかい、それから一瞬で離れた。
「目ェ閉じろって言ったろ」
「いや……ウン、ちょっとびっくりして」
「いっとくけどオレもはじめてだからな」
ほんのり赤くなったタカの耳が視界に入る。表情はいつもと変わらないし、眉毛は一部切れてて判断なんかつきっこないけど、でも耳と首は少し赤かった。
「タカ」
「なんだよ」
「わたし、来世があったらタカのお姉ちゃんになりたい」
「なんなくていーよ、ルイが姉貴だと逆に手間かかりそうだし」
「わたしあんまタカに迷惑かけてないでしょ」
「や、どの口が言ってんのソレ。前々から言おうと思ってたけど、ルイってさ、あんま他人に興味ないだろ」
「じゃあわたしって迷惑?」
タカの手が砂をすくう。指の隙間からはらはら砂がおちて、なだらかな山ができた。それをまたタカの手がつぶす。
「まあ、迷惑まではいかねえけど。でも、オマエは」
その先の言葉を見失った。ほらみろ、わかってないんじゃない。わかっていないのに、なんでわたしたちは話そうとしてしまうんだろう。なんにもわからない。いっそわからないままでいる方が幸せなんじゃないかとすら思う。
息を吸うことだけを考えて、空の色で明日の天気予報をして、ご飯を食べたら洗い物をする。それだけでいい。

わたしもタカも黙ってしまって、砂にも大寿の名前以外増えなくなって、さらさらと流れる渚を眺めた。触れることのできない青。空も海も、触れない方がいい。
終わりがあるはずなのに、ここからじゃ終わりがないのと一緒にしか見えない。今日はいつはじまっておわるんだろう。わたしとタカもいつか、終わるのかな。
「男女の双子って、前世で心中したんだってさ」
「なんだよそれ」
「来世に全部のことを期待すんのは馬鹿って話」
わたしは三ツ谷隆になりたかった。漫画みたいに、死んだらあなたに成り代わってもよかった。
意味もないのに時々考える。タカが出会ったのが大寿だったら、どうなっていたんだろうって。八戒の幸せそうな面差し。タカちゃんはオレの世界を変えたんだって、語る言葉は、ビー玉を初めて見た、あの日のことを思い出させた。綺麗で、なんでもなくて、きっと他のものと混ぜたらわからないような。そういう幸せ。
「わたしが全部失敗して、死にたくなって、来世にしか縋れなくなったら、一緒に死んでくれる?」
「……断る」
返事を聞いて、立ち上がった。白いスキニージーンズの裾を捲って膝までの長さにする。ゆっくり歩いて、水面を蹴った。馬鹿みたいに冷たい。こんな冷たい世界で生き物が生きているなんて。足首までつけたら本当に冷たくて、笑うしかなかった。
「断ってくれてよかった」
振り返ると、信じらんねえ、という中学生らしい感想が聞こえた。
ファーストキスの相手の男の子はわたしなんかよりずっと信じられないような日常なのに、目の前のわたしに容赦なく「馬鹿じゃん」と手を伸ばした。帰る場所があるから、あなたは帰ろうと声を掛けられる。
その手を取らず冷たい海の中に足を付けたままのわたしにタカはこめかみを掻いた。

「ルイって本当に高校行ってんのか不思議すぎる.....ルイの行ってるとこって.進学校だよな?それとも勉強ばっかしてると頭おかしくなんの?」
「ひどいなあ、なんていうの?なんか、冬の海ってさ、大寿に似てる気がしてたんだけど」
さびしくないかなあ、という声にだったら会いに行けば?って声が返って、そのまま抱きしめられた。
冬の海は、太寿よりも。タカのブルゾンに指を滑らせてから、唇をかんだ。
意味もわからない。情緒もない。話は行動と繋がらない。
理由をひねり出そうとすれば、子供みたいな感情があった。

冷えた身体同士だったから。寒かったから。
多分、そういうことでいいの。

21.07.20