銀貨に満たないわたしについて
幼馴染は始業のベルより10分に余裕を持って出てきた。白いシャツを身に纏って、高校指定のネクタイを緩く結んで、顔に治りかけの傷をこさえて、静かに椅子を引く。いつも遅刻してきたり、血みどろだったり、不機嫌そうに眉間の筋をくっきりとさせてるくせに、今日は、まっさらだった。
深夜0時の誰も使わない駐車場みたいに、きれいだった。
ざわついた朝の教室がぴたりと沈黙で満ちる。染色を知らない黒い髪の列が、ばらばらと解けるように幼馴染の前の空間を開けていく。今日、柴君くるの早いね。わたしの傍らで課題の答え合わせをしていた彼女が呟く。そうだね、って適当な相槌を打ってから立ち上がる。
「ちょっと話があるんだけど」
「……あ?生憎とオレにはテメェと話すことなんかねえよ」
「わたしにはあるの。ちょっと向こうまで付き合ってくれない?」
椅子の背もたれに手をかけて、数秒だけ、睨めっこみたいに向き合った。それからアイツはハッと鼻で笑って椅子に深く腰をかける。
「ここで話せねえようなことなら聞かねえ」
「そう、わたしは別に構わないけど。……ユズハから家を出たって聞いた。いまどこに泊まってるの?」
アイツは特に何も言わずに、横顔を覆う長い髪をいじっている。
「……どうしてみんな、あんなに傷つけたの?どうしてユズハがあそこまで思い詰めなきゃいけないかったのよ」
「先に手を出していたのは柚葉だって聞かなかったのか?」
「わたしを全部蚊帳の外にしたのは誰」
「あ?オマエ、他人のくせに何言ってんだ」
心臓が抉られたように痛くて、手を硬く握り締めてないと倒れそうになる。アイツの頬に残る傷が視界の端に映る。小さいけれど、その傷は化膿しきっていて、見ているこっちが痛かった。
「わたしはユズハが笑うと嬉しいし、八戒が泣いてると泣きたくなるし、三ツ谷隆が傷ついてたら苦しいの。アンタだって……」
わたしにとっては大切なままだよ、なんて言えなくて、唇を噛み締める。クラス中の視線が刺さっていることはわかっていた。
クリスマスの夜、泣き笑いをしたユズハ。何年ぶりかにルイ、って笑った八戒。ちょっとつらくて泣いた癖に、それを消毒液のせいだって逃げたタカ。タカがわたしの目尻を撫でたあの体温を今だってありありと覚えてる。
「どうして喧嘩しかできないの……!」
違うそんなのが言いたいんじゃない。わたしは、わたしと大寿の間違いをただ言い争うことがしたいんじゃない。言いたいことがありすぎて、わたしの喉で逆流をおこしていた。
大寿、助けて。
ルイ、ちょっと一回落ち着きなよ。友人の彼女が肩に触れる。大丈夫と取り繕おうと顔を動かしたそのときに、睫毛を伝って涙が落下した。一つ落ちると止まらない。けれど、嗚咽はひとつも出ない、荒い呼吸音だけがしている。気道が圧迫されるような幻覚を引き起こして、もう立っているのでいっぱいいっぱいだった。ああ、どうしてわたしはこんなに泣いているんだろう。本当のことがなにひとつわからない。
本当のことはわたしを救ってはくれない。大寿、もうなんの母音も口から出ない。
苦しい、恋をしてる。
いつまでも終わらなくて、消えない恋をしていたかった。もしもわたしが三ツ谷隆として生まれていたら、言葉よりもずっと伝わるなにかをもっていたのかな。
息が詰まって、わたしは浅い呼吸を繰り返す。酸素を溜め込んで、横隔膜がひくりとはねる。ひゅ、と喉が嫌な音を立てる。ここにはタカだってユズハだって八戒だってみんな、ルナもマナも、みんないないのに。涙が落下する。助けて、大寿。
「おい、ちゃんと息吐け。吸ってばっかじゃダメだ。オイ、歩けるか?」
大寿の手がわたしの背中に触れる。彼女の手を払う大寿の気配がした。ぐちゃぐちゃになった脳みそが、この人は誰だろうと問うた。知らない匂い。わたしの知ってる大寿にはタトゥーなんかなかった。首から覗く入れ墨に、苦しくなった。呼吸じゃなくて、肺の奥、心臓の近く。
「柴君、ルイは……」
「うるせえ黙ってろ。オイ、ルイ、ちゃんと息しろそれできねえなら家に帰れ」
「……たすけて、たすけてくれるっていったんだから、たすけてよ」
呼びたくて呼びたくて泣きたくて仕方なかった。天国でも地獄でもいいから、わたしは大寿と一緒にいたかったの。背中に添えられた手に従って、わたしは大寿の胸に顔を押し付ける。
「殴ってもいいから、怒ってていいから、勝手に遠くにいかないで」
苦しい恋を、していたかった。恋であればよかった。こんな、ドロドロに溶けて見えなくなってしまった感情じゃなくて。免罪符みたいに薄っぺらな愛を吐いた。
「愛してるから、わたしはアンタを愛してるから」
大寿までわたしから奪わないで。
◇
「落ち着いた?柴君、すごく心配してたよ」
「……大寿は」
「そのままどっか行っちゃった、でも、ルイを保健室まで連れて行ってくれたのは柴君だから」
「そっか」
白い消毒液が沁みついたこの部屋に太寿がいたのか。幼馴染だったんだね、と彼女がいう。言ってくれればよかったのに。口調はいつも通りだったけれど、いつもより言葉と言葉の間隔が空いていた。言えなかったの、誰にも。
「ごめんね。わたしも久しぶりに会ったからさ、名前すらちゃんと呼べなかったの」
言えるはずがなかった。
身体に入った入れ墨。深い眉間の皺。大きな掌。あれはもう知らない人にしか見えなくて、でも、伏せた目だとか、窓の外を眺める背中だとか、それは全部わたしのしっている太寿だったから。触りたくても触れない。でも、触ったらダメなんかじゃないはずなのに。海だとか空だとかそういうんじゃないんだからさ。
「わたし、いかなきゃ」
きっと大寿はどこでも泣けないし笑えもしない。美術館だとか博物館の展示室みたいな人だから。大切にする方法を暴力の他もたないない人だから。わたしはあの目に映っていたいの。
◇
どうしてって言われてもわかってしまう。
歩き方、歩幅、背中、視線。わたしの脳は大寿かそうじゃないかはすぐに判別できる。ずっと見てたから。気持ち悪いって言うなら言えばいい。
「わたしはアンタがどこにいたってわかるよ」
「…………ふざけたこと言ってんじゃねえよ、帰れ」
「帰れってそれはこっちのセリフ。せめてどこで寝てるかだけは教えて」
「オレはオマエと関わりたくねえ、三ツ谷と乳繰りあってろ。オマエにはそっちがお似合いだ」
手が離れる。はじめから繋いでなんてなかった手のひら。いかないで、ねえ、ひとりで大丈夫なんて言い聞かせないでいいから。
「大寿、一緒に朝ごはん食べよう」
捕まえた手のひらは、びくりと跳ねた。わたしの右手から逃れようとする大寿を、抱きしめて、なんにもなかったことにしたかった。
「ひとりじゃ呼吸するので精一杯なの」
わたしは三ツ谷隆になれない。
でも、あのままタカとふたり死ぬこともできなかった。大寿のことばかり、頭でいっぱいになった。すきよ、告解するわたしを大寿は知らないふりしたけれど、手だけはそのまま。5本の指がわたしと繋がったまま。
21.07.22