眦のスパンコール
「三ツ谷くん」
飴と一緒に名前を転がした。
「三ツ谷」
丸い飴玉。人工的ないちごの味。カラカラと鳴らしてわたしは困っていた。三ツ谷くん。三ツ谷。どうすればいいかわからなくて飴をくるくると右、左とあっちこっちやる。なんて呼べばいいんだろう。
「……タカちゃん」
八戒の真似にしかならない甘ったるい声が出た。これは流石に違うでしょ、こんな甘ったるいのは、違うって。制服のブレザーからはみ出たセーターを引っ張って、ガードレールに押し付けたスカートのプリーツを直して、前髪を指で梳く。何言おうとしてるんだろう、ばかじゃん。
帰らなきゃいけないけど、勢い余って出てきてしまったから、帰るに帰れなかった。大人気なかったなあ、って思うけど、どうしても子供でいたかった。
子供じみた感情をぐちゃぐちゃしながら、わたしの思考はあの銀色に還っていた。長い睫毛と、垂れた目と、ボロボロの手。
「隆」
口になれない言葉は違和感のざらざらを下に与えた。歪になり始めた飴を噛む。ばきりと割れた。鼻先をいくつもヘッドライトが通り過ぎていく。携帯は多分家に置いてきてしまっていて、本当に今日のわたしはサイコーにバカだった。ひとりなのは寂しくなんかなかった。でも、なんでだろう。
ひとり。派手なネオンはここら一帯のコンクリートにはじけてついていたし、わたしの真っ黒な制服は変に目立っていた。反射するわけでもなく、夜に溶けることもないわたしはどこを歩いても立っていても異分子でしかなかっただった。
「ねえキミ、コーコセイだよねえ。こんな時間に女の子ひとりってさあマジでアブナイよ」
派手で品のない金髪。キッツイパーマで、男モノのワックスの匂いが鼻につく。
それでも顔を歪めず、淡々と返答した。どんどん心臓が死んでいく。
「そうね」
「すげーー、俺もさあコーコセイなんだよね。何年?」
「三年」
「マジで?ってことはオレらタメじゃん、んなグーゼンある?」
「ないね」
「でっしょ〜!せっかくだし、家まで送ってあげよっかあ?車すぐソコに止めてあるし、帰りたくないなら泊めてあげるし」
「わたし、彼氏待ってるの」
男がええ〜そんなつれないこと言わずにさあ、と肩に手を回してくる。馬鹿だな、と思う。わたしもこの男も大概。嘘と泥濘とガラスの靴。でもきっとシンデレラがここにいたら、深夜0時を過ぎても踊っているだろう。どろどろの見窄らしいそのドレスこそがきっとアドバンテージになる。
男の耳についた大振りのピアスにすぐそばのホテルのネオンが反射している。ドキツイピンク、派手な黄色、安っぽい赤。
「ってか、こんな時間まで1人にするカレシなんかカンケーねえって」
「そうかな、怒らせたら怖いよ。手がつけられないの」
腰をなぞってふとももまで落ちていきそうな手を掴んで振り払う。肩を組まれることなんかどうだっていいけど、それはイヤ。好きな人とかそんなかわいいことは言わない。でもここじゃない。
男がわたしに向ける視線を変質させていく。いたいくらいに視線が首から、胸元、脚と巡っていく。品定めをする目。どうせそうなるって初めからわかっていた。心は凪いでいる。覚悟なんかないけど、どうなってもいいと投げだすのを許可している。どうなってもいい。傷物ならそれはそれで、どーせいつかは来る日なんだから。
大事にしろって言ってくれる人はいるだけマシだ。きっと、みんな、言ってくれるから、いいかなって思ってしまう。
「ねえ、ホントはカレシに振られたんじゃないの?」
首の裏をなぞられて思わず肩が跳ねた。いつのまのか背中まで密着されていて、身体全体が強張るのがわかった。
「……残念、不正解。君のコト結構気に入ってたけど。わたしの彼氏に見られたらタダじゃ済まなくなっちゃう。だから、これ以上はダメ」
「へえ」
「トーマン。わたしの彼氏、東卍に所属してるの」
手を拘束するように、指と指を絡ませられて吐きそうになった。助けて欲しいとは思わなかったから、だ。理由はそれだけ。脳裏でちかちかスクリーンに映る少年じみた笑顔だって、連想ゲーム。三ツ谷隆は、わたしの、わたしは……。お守りのように「東京卍會」と唱えた。
銀色が頭の中で光っている。チカチカチカチカ。電柱の色、ポールの色、今通り過ぎた車のボディ。冬の万物が死に絶えた海。白波。カレーの匂い。ルイ!!わたしの名前を呼ぶあなたの声がした。
「誰の女に手ェ出してんの?つーか、嫌がってんのみりゃわかんだろ」
「……三ツ谷、」
「ナンパなら他当たれ。コイツはテメーみてえなクズ野郎が触っていーやつじゃねえよ馬鹿」
怯んだ手を剥がして、首の裏から指が落ちて、そのまま真っ黒な特攻服の方に抱きすくめられた。こびりついた排気ガスと中学生みたいな制汗剤とワックスの匂い。
「わかったらさっさと失せろ」
低い声だった。マジじゃん、初めて男の素の声を聞いた。想像以上に幼い声。どうやら、サバを読んでいたのはお互い様だったらしい。
状況整理はできるけど、でも、もうわからない。
どうして。助けて欲しいなんて言ってない。呼んでない。なのになんで助けてるの?わたし達なんでもないじゃない。所詮、知り合いじゃない。他人じゃないってだけでここまできてたら潰れちゃうよ。嫌だ。脳だけが結論をはじいた。あなたが苦しむ姿は見たくないんだって、理由もなく思ってしまった。
その場でどれだけ抱きしめられたままだったか。ずっとお互い黙っていて、多分傍目からすればただの迷惑な暴走族の男とその恋人だった。心臓の音は重なっている。でも、それは早いとか遅いとか、わからない。
「…………ホント馬鹿。オマエ、もっとちゃんと考えろ」
「なんで、来てくれたの」
「八戒が電話口でめちゃくちゃ動揺してて、見るに耐えかねて声かけたらこうなった。柚葉と親父さんで、もうマジで使いもんになんねーし、八戒は慌ててるだけだしで、しかも集会の真っ最中」
「ごめん」
「マジで心配した」
顔が見えない分、すんなり言葉が出た。腕から伝わる体温、視界の恥に映り込む銀髪。わたしはこれが見たかった。
「ずっと、待ってた。父さんも柚葉も八戒も、心配してくれるか怖かった」
「オレだって心配ぐらいするわ」
「違うの!わたしは、」
背中に回した手のひらをぎゅうと握りしめる。わたしは三ツ谷隆になれない。でも三ツ谷隆を抱きしめていたい。わたしは。
「……タカ、に来て欲しかった」
助けて欲しいなんて思いもしなかった。でもさみしいわたしはずっと三ツ谷隆のことばかり考えていた。三ツ谷くん、三ツ谷、タカちゃん、隆、隆くん。どれもあなたを指す言葉だった。
「ねえ、今日からタカって呼んでもいい?」
死ぬまで、今日のことを忘れないよ。日付も、あなたの声も、匂いも忘れても、きっと覚えている。ここで、特攻服を着たあなたを抱きしめていたことも。それから、タカ、って呼んだわたしの覚悟もきっと忘れることはない。
「タカ、わたしすっごく今嬉しいんだけど、これ最低かな」
それでいてわたし達はふたりともばかだったから、まぶたを閉じてしまう。あなたの顔が消えない。でも、なんでかな。
「どうしようもないぐらい最低だ馬鹿」
帰るぞ。
吐き出した息はふたり分。そのどちらも真っ白で、マッチを擦るみたいに赤くなったわたしとタカの指先を絡めた。
夜の中でタカに手を引かれる。いつもより乱暴で、いつもより視線が合わない。いいよ、と彼がおもむろに答える。
「全部いいよ。ルイだし、もう全部好きにしろよ。オレにとっても多分それが一番だから」
タカ。今の全部、嘘だよ。今日を死ぬまで忘れないなんて、嘘。
10年経っても、なんならさ、死んでも忘れない。死んでリセットなんかしたくない。だから墓場まで、ううん、生まれ変わっても今日を持っていくから。あと、あなたを不幸にはしたくないって思ってるのは信じてて。
21.07.19