幽霊の残り香
わたしが初めて見た赤ちゃんは八戒だった。小さい頃の記憶なんて、輪郭は溶けて、一個のフィルムしかないようなものだ。でもわたしは多分、死ぬまで、あの日の八戒の丸い頭を忘れることはない。断言したって構わない。だって、そうなんだから。
丸い頭。ふにゃふにゃの指。短い足と、わたしをみて笑ったあの一瞬。幸せだけを溶かして、象って、あったかい何かだけを食べさせたって、あの感情は生まれないね。
わたしとユズハと大寿でじっと八戒を覗き込んで、八戒がふにゃふにゃ笑うたび、自分のことみたいにはしゃいで、八戒がちょっと動きを停止しただけで大寿たちのお母さんを呼んだ。
あの頃住んでいたわたしの家からちょっと離れた、大きなマンション。大好きな幼馴染と大好きな女の子と世界で一番かわいい弟みたいな、おとこのこと、優しいお母さんに住んでるところ。広くて、楽しくて、あったかいおうち。記憶にある柴の家の全て。いつだって、大きな窓から白くて透明な日光が差し込んでいる。八戒の周りに集って、4人で眠ったことだってたくさんあった。覚えている。
袖に赤いラインの入ったシャツ。大寿がそれをきているのを見るのが好きだった。似合ってるよ、褒めたのにふいと視線を外されたんだっけ。背中はわかりやすく拗ねていて、なんかそれがおかしかったんだ。笑って笑って、ルイ!名前を呼ばれた。
4人で寝転んで、八戒、ミルクの匂いする、なんて大寿と顔を寄せ合う。ユズハはわたしたちのやり取りにため息をつくのだ。ませた仕草で、ルイと大寿はこれだから、したったらずのユズハの声。
帰りはいつも冷えるからって、わたしの家に帰るまで、大寿はわたしの手をいつも握っていた。大寿と乗る電車はいつだって特別だったけど、天井の照明は眩しくて、電車の壁紙の黄色が目に焼き付いている。不器用に、あっためてくれていた。
「ルイ、アタシ、おねえちゃんだから、ルイにあげる!」
一番綺麗にできたんだよ、ユズハは青い折鶴をわたしに差し出す。わたしの方がお姉ちゃんだよ、なんていってみたかった。喉まででかかった、でも飲み込んでもいいやと思った。だって、だって、あの日のユズハの目尻の幸せそうなことといったら!そりゃもうなんも言えなくて、だいすきで、ずっと笑ってて欲しいって思ったの。
「わたし、ユズハの笑った顔がだいすきよ」
ユズハは照れた良いに笑う。恥ずかしー、なんて声を2人であげたの。
大寿はわたしの手をあっためる。どこかに飛んでいきそうだって、いつも手を引く。記憶の中の大寿はいつも背中ばっかり。ああ、わたし、アンタのそばにずっといたのに、横顔か背中しか覚えてない。全然気にならなかったあの頃。でもわかってるよ。世の中だいたいわからないことばかりで、ほんとうに知りたいことは、知らない方が幸せなことばっかり。でも、わかる。わかるよ。横顔、背中、手のひら。それだけで十分。大寿。
ねえ、答えなくていいよ。でも、言わせて。あの日、わたしとユズハだけじゃなく大寿だって、笑ってたでしょ?
学校の先生に隠してることだって、好きな人だって、嫌いな食べ物だって、お風呂で何考えてるかだって、帰り道に口ずさむ歌だって、知ってた。だいすきだったから。今だって、大好きなのは、変わらないのにな。
右の頬だけが、痛かった。涙の跡しかないのに、痛くて、沁みて、目には見えない後遺症を訴えた。多分さ、これは、どっか怪我した人が、雨に日に治ったところが痛くなるのとおんなじなんだよ。ねえ、そうだって言ってよ。
◇
帰れない理由ばかりが積み重なっていく。わたししか知らない曲ばかりが増えた。ユズハだって音楽を聞いてるんだろう。ヘッドホンが机の上にあるのを見たし、CDを包んである透明なフィルムはよくゴミ箱に落ちていた。ピンクのMDだって、何個もみた。わたしの知らないアーティストの名前が、見慣れたユズハの字で書き込まれている。わたしの知らないユズハ。
「ユズハ、小さい頃の写真って意外と撮らなかったよね」
「あー、たしかに。つーか、ルイが撮る側に回ったから八戒が小学生に上がってからは割とあるんじゃない?」
「八戒もユズハもわたしの家族みたいなもんだからね?」
ユズハの制服はまだ糊で生地全体がパリッとしていた。黒い生地に赤いライン。伸びた髪はまるでカーテンみたいだった。顔を覆って、まつ毛を伏せて、なんでもないみたいに取り繕う時間を与えてくれる。舞台の暗転。
「ルイは、無理しなくていいよ」
気にしないでさ、笑っててよ。
呪いみたいに、わたし達はお互いの笑顔を願いあった。呪いなのに、幸福だった。
無理すんなって、ユズハがわたしにいうようになったのはいつからだっただろう。気がついたら、ユズハは笑うよりも、困ったように心配そうに……悪いことでもするみたいに、俯くことが増えた。嘘がないのは大きな窓で光を通すカーテンの色だけ。くすんだ黄色。光だけはわたしとユズハの足元に広がっている。影を背負った輪郭で、ユズハの右目の下だけが青く変色していた。
「ユズハ、わたしはいつでも味方だからね。なんでも話して!迷惑なんてないから、ね?」
「ありがとなルイ。でもほんと、気にしなくていいんだ。今日もちょっとぶつけただけだしさ」
わたしの手のひらの下で、ユズハの目尻がふにゃりと滲む。泣きぼくろのように、青いアザが付いている。
笑って欲しかった。けれど、処世術のための笑顔はいらなかった。わたしはどこまでも他人なのだと痛いくらい思い知る。このまま喉が裂けて、二度と話せないんじゃないかってくらい、痛くて、逃げられなくて。
「そんなことよりさ、今日はルイ何作ってくれんの?アタシはルイの作るご飯楽しみにしてるんだ、わかりづらいだろうけど八戒もそう」
約束があったよねって、床で声は跳ねて、わたしの手にユズハの華奢な手が重なる。青がより濃くなった。
冷たくて、細くて白いねって、わたしとは何かが違うねって、大好きだっていうのにユズハは何にも頷いてはくれないの。ひとつしたの女の子は、大人みたいに綺麗に取り繕って、窓辺を離れる。死んだみたいな夏の昼。無機質なわたしの言葉は大事にしたいひとすら、ユズハにすら寄り添えない。もしも、もしも、ここにいるのが三ツ谷くんだったら。そうしたらきっと、もっとうまくやれたのに。
「今日って八戒遅いんだっけ」
「そ。で、多分スッゲー腹空かせて帰ってくるよ。あ、そうだ、買い物あるなら一緒に行くけど」
「んーん、もう寄ってきたから平気。父さんにももう言ったあるからユズハも気にせず食べてね」
ユズハは困ったように笑った。その口角の上がり方とか、目の隠しかたがやけに既視感があって、記憶の箱をつつく。
一回くるくると回しただけで発火してしまいそうなフィルムは、なにも教えてはくれない。だから、いつまで経っても、ユズハのその笑みはわたしの傷だった。
「今日はカレーだよ。なんかね、全然レパートリーが増えないんだよねえ。三ツ谷くんのところでも言って、なんか教えてもらおうかな」
「あー、ウン、いいんじゃない?でも無理のない範囲でいいから。うちのことに、ルイを巻き込みたくはないんだ、それはアタシと八戒だけじゃなくて、大寿だってさ」
躊躇いがちにゆっくりと差し出された名前にわたしは自分の頬が固まるのがわかった。口角はニセモノみたいな位置で固まる。わたしの意識から離れて、防衛本能によって笑顔が形作られる。わたしのことなのに、一番わたしはわたしがわからない。
わたしは知らないふりをするあまり、本当に知っていることすら忘れてしまったらしい。
「ユズハはそんなの、気にしなくていいんだよ。わたしがやりたくてやってるの。だから笑って、ユズハ!」
21.07.02