花にも種にもなれません
オイ、という言葉と一緒に頭に鞄がぶつかった。ドスの効いた低い声。三ツ谷くんの声で、そのまま視線を頭を襲ったカバンの先には、当然ながら見慣れた銀色。
「三年はもう卒業したのになんで制服なんだよ」
わたしの胸元のスカーフを見て、不思議そうに目を細める。三月の風がわたしのプリーツスカートの裾を持ち上げようとするから、そっと手で押さえる。
三ツ谷くんはわかんねえなあ、と大きな独り言を吐いてから、わたしの隣に腰を下ろした、いや足を肩幅に開いたまましゃがんだ。見た目も仕草も本当に不良なんだよなあ。彼の制服から出ているセーターと、骨張った手を眺める。腐れ縁の男の子。彼が頭の位置を変えるだけで、きらきら銀色が反射する。
「三ツ谷くん、もう9時なんだけど……?」
「朝ちょっとマナがぐずってさ。熱とかなかったんだけど、一応病院行ってきた、その帰り」
「学校に連絡したの?」
「さあ?」
無責任に肩をすくめる三ツ谷くんは、今日風きもちーな、なんて呑気に呟いている。銀色の短髪、黒いリングピアス、上向きの長い睫毛、絵の具を水で薄めたような彩度の目。
「人の顔じろじろみんなよ」
「どーしてそう不良ってみんな見られることに敏感なのかなあ。わからなくはないけど、関わらないどこって諦めればいいじゃない」
「はあ?戦わずして負けるとかありえねえだろ、男だし」
想定した返答の中で一番しょうもない答え。馬鹿馬鹿しい。三角座りした自分の膝に額を押し付ける。暗くて目は役に立たないし。湿った息が顔にかかって不快だった。でも、それ以外にすることがなかった。
「で、白樺なんでこんなとこにいんの?」
「………ドタキャンされたから」
「あ?」
唇を噛む。気道がへしゃげてくっついてしまったみたい。うまく声が出ない。撓んだ声じゃうまく語れないから、わたしはゆっくりと顔を上げた。3分と伏せていなかったのに、昼間の青は目に染みて痛い。やだなあ、三ツ谷くんの前でこんなガキっぽいところ見せるの、いやだなあ。瞬きすら堪えていたら、瞼が引き攣って痙攣を起こす。
三ツ谷くんが「白樺」と呼びかけてきて、頭に手のひらが乗った。
「マナルナもな、こうやって撫でるとごきげんになるんだよ」
「……何がいいたいの?」
「男に振られても凹むなってコト」
「男じゃないし」
「じゃあ誰?」
いつもより言葉がやさしい。優しくすんのやめてよ、って言えばいいのに。なのに、わたしは三ツ谷くんの手を止められない。なにこれ。もう、ほんと三ツ谷くんって。
「意外とオマエの髪って柔らかいんだなーって。ホラ、オレもマナルナも癖っ毛だからさ、なんかすげえ新鮮で」
つむじの髪を撫でていた指は、ゆっくりと毛先まで滑っていく。くるりと内側に整えた髪を指で梳いている。せっかくセットしたのに、このままじゃぐちゃぐちゃにされそうだな。
「今日はさ、お母さんに中学の卒業祝いしてもらう予定だったの……」
「……オマエんとこって、母ちゃんがアレだったな」
「いや、父さんも大概だけど」
約束が守られたことなんかロクにない。でも、それは信じない理由にはならないから、だから、わたしは今日だって裏切られた気持ちになる。川の水面だけが、いつも通りきらきらと無邪気に光っている。
「白樺、手ェ出してみ」
「なんでよ」
「卒業祝い……なんつって」
三ツ谷がわたしの頬にミネラルウォーターをくっつけてくる。冷えて、外気にさらされて、すでにびちゃびちゃなのを押し付けてこないでってば。
何もおもしろいことなんかないのに、三ツ谷くんは愉快そうに口角を上げる。笑ってないで何か言ってよ、ばか。
「この辺だと補導されそうだし、行こうぜ」
ミネラルウォーターをわたしに握らせて、空いている方の手でわたしを引っ張る。そりゃ男の子に引っ張られればわたしの身体なんてすぐに浮くわけで。
「ちょ、待って」
「なんで?」
「なんでってなあ、うーん、なんで、なんではないけど……」
「あはは、全く意味わかんねえじゃん!人に知られずサボる方法、教えてやるよ」
眩しいのは本当に川だけだったのかなあ。いつの間にか青は目に馴染んでて、黒い通学鞄も、陽光を浴びてわずかに白が反射していた。銀色、青色、それから。
光の中で三ツ谷くんがわたしを呼んで、兄貴ぶって走り出す。
「中学生みたいに笑うね」
「そりゃ中学生だもん」
「言い方がクソガキで安心しちゃった」
当然のようにいう三ツ谷くんは、自分が中学生らしくないの気づいた方がいいよ。いっつも、いっつも、いっつも大人ぶってんだから。わたしに合わせた歩幅に心の中で呟いた。
木々の隙間から光が溢れるのを眺めていた。ふたりきり。必要最低限の酸素と会話と音楽とミネラルウォーター。三ツ谷くんが飽きたらわたしが彼のヘッドホンを借りて、わたしが飽きたらまた三ツ谷くんがミニアルバムを初めから再生する。インディー・ロック。とっくに覚えているから、収録順にサビとかイントロ、Cパートを隣で口ずさんでやる。
三曲目、アルバムの折り返しに入ったところでガンを飛ばされるけど素知らぬ顔で足をぶらぶら揺らして無視を決め込む。邪魔すんなよ、かつてないほどに不機嫌な三ツ谷くんの声に笑う。光でいっぱいの境内はご機嫌で、鳩はその辺で隊列を組んでいる。ムッとしてるのは三ツ谷くんだけ。
世界は全部死んだように温かった。天国と地獄があるならここがそうだ、勿論、今日に限って。珍しく学校をサボった三ツ谷くんと、もう学校がないわたし。そのくせお互い制服を着て、お揃いの通学カバンを持っているのだから世話ない。
地面でさざめく陰に視線を固定したままわたしはひとりごとを吐いた。ひとりごとだけど、宛先は三ツ谷くんのやつ。
「三ツ谷くんになりたい」
「ずっと言ってんな白樺。まじでもう何年目?もう口癖みてえになってんじゃねえの」
「だってなりたいもんはなりたいのよ、昔年の願いなの」
「オマエはオレになんなくて問題ねえよ、つーかオレになってもなあ、白樺ケンカ弱そうだし」
「不良になるのは最終的な手段。わたしはね、んな俗っぽいとこじゃなくて、もっと本質的なもんが欲しいの」
「……普通に八戒に好きだから付き合って〜とか迫ればいいだろ」
「なんで?」
「いや、なんでって言われてもなあ。好きなんだろ?八戒のこと」
「もしかして三ツ谷くん勘違いしてる?そりゃ八戒のことは好きだけどそれは弟みたいなもんで」
「本気で言ってんの?まいっにち、あんだけ八戒八戒八戒八戒言っておいて……」
呆れた、というように三ツ谷くんは脱力する。そこまで驚くことではないでしょ、と文句を言えば、うるせー、と可愛くない返答が返ってきた。三ツ谷くんは基本女子に優しい、女子というか、不良じゃない人間には優しい。いや、言葉が丸いんだよな。
「わたしが好きなのは誰だと思う?」
「オレとか?」
「うっわ自意識過剰かよ、ダッサ」
「冗談にガチ反応返すのやめろや、こっちが反応に困るだろーが」
「まあ三ツ谷くんのこと嫌いじゃないけどね?」
「ドーモ」
嫌いじゃない。でも恋愛ではないのだろうと思う。三ツ谷隆は事故みたいにわたしの人生に乗り上げてきただけ。ただ、その事故がわたしの故意なものであるって話。春に落ちる雷とか、そんなのと同じだよ。天気予報で預言された雷を信じて空を仰いだ。あの日はきれいだったね。まっすぐ、金とも銀とも形容つかない光が藍色を裂いたあの瞬間を、もう一度みたいなあ。
「わたしはユズハに笑って欲しいだけだよ。そうすればきっと……」
三ツ谷くんが黙る。春の風が葉っぱをくすぐる音だけが沈黙を満たす。
「な〜んちゃって!びっくりしたでしょ」
「白樺って生きるの下手だな。相変わらずで安心したけど」
「お褒めに預かり光栄です」
「褒めてねえよ。ま、いっか。そろそろスーパー行こうぜ。タイムセール始まる」
「はーい。ねえ、三ツ谷くん」
呼び止めると三ツ谷くんはこちらを振り返る。ひとつ年下の彼は、遠くから見ると誰よりも遠くの人間にみえる。1番のわたしの他者。ずっとそばにいる他者。あなたのことがわからないわたしは、多分わたしのことも十分にわかってなどいない。いつかあなたのことを理解したい。
「わたしが高校生になっても一緒にタイムセール行こうね」
「言われなくても」
でも。もし万が一、完全に理解できたあなたをわたしのセカイの主演に据えたとしても、いずれみんな死ぬんだよなあ。でも三ツ谷くんを未来まで残せるというのもそれはそれは面白いかな。
「約束だからね、わたし、隆くんのこと結構すきだから。本気だよ」
「マジな話すっと、オレもルイのことそこそこ好きだけどな」
ふたり同時に目を細めて笑った。なにも好きまで安くしなくてもよかったね。息を吹きかけただけでどこかへ行ってしまいそうなぐらいに軽いすきだった。でも、困ったことに、軽くても嘘じゃあないんだな。世界で一番遠い他人のあなたとわたし。多分、いま、全く同じことを考えている。
21.07.02