プロローグ
風間先輩、覚えていますか?何の肩書きもない、ただの子供だったあの日のこと。未熟で、傲慢で、恵まれたあの青い空のこと。一緒に食べるはずだったカレーとか、観るはずだった映画のこととか。青臭いわたしたちのこと。
約束を果たしに行こうと思った。時計の針が12を回って、とても自然にそう思った。
咲いたばかりだと思っていた桜がもう散り始めている。そろそろきっと桜の萼さえも地面に落ちることだろう。そうやって春は終わっていくし、どんどん春めいて、次の季節がはじまる。
春だけにとどまることはできない。それは大人も子供も等しく。
住宅と住宅と桜並木の間に満ちる空は青く綺麗だった。わたしはここから見える街並みが嫌いじゃなかった。夜が明けたばかりの寝ぼけた街。ねじれた段の大きな石階段の頂上でわたしはひとつあくびを零す。生理的な涙が目の端から溢れて、親指で拭き取る。
まるで夢の中のような不透明な朝だ。銀色の手すりに寄りかかって、階段下よりもっと先の坂を眺める。
歩くたびにピアスが揺れる。春の風がわたしの足元を救うように通り過ぎていく。春の風らしい身勝手さに頬が緩む。
淡いブルーのジーンズが春めいていてよかった。
大人になったらなりたかったものがある。行ってみたかったところがある。生きていたかった人がいる。愛していた人がいる。夢見て笑い転げていた季節だってあった。
でも、わたしはもうアルバムに書いた夢の構想に触れることすらできない。半分だけ壊れたこの街の中で、きっとわたしも半分壊れてしまった。
夢遊病患者のように、ふらりと気まぐれにわたしは石段を降りていく。大きな石段のことが昔は嫌いだった。大人のペースに合わせることができなくて、膝を擦ったっけ。
街灯は薄い青の上に白を重ねて、住宅の塀の茶色を濃く見せている。きっと誰も気づかないうちに街灯は消灯するのだろう。そう思うと街灯を見上げてしまった。狂った視界の中でずっと白い丸い光がチカチカしている。
人間は忘れることができる生き物だ。忘れてしまったことを責める人ばかりだけれど、わたしはそれが羨ましい。誰かの幸せを願うより、ずっと難しい。春の空の青が目に染みて目を細める。白い雲は薄く、絶えず流れながら形を変えていく。わたしは足の裏にアスファルトを感じながら朝の街を歩く。
わたしはもう夢だけを追いかけ、霞を食べるように夢を語れない。世界の果てはこの街でいい。それが事実ではなくても、わたしにとっては限りなく真理と等しいから。
角を曲がるところで風間先輩と目があった。青い朝の中で先輩の目だけが、赤い色だった。強烈なデジャブにわたしは思わず笑ってしまった。ああ、いつだって青ばかりだった。全て違うものだとわかっていても、いつだって先輩は青い日々の中に強烈に赤く光っている。とても、美しく。
ねえ先輩、覚えていますか?わたしたちが、何の肩書きもない、ただの子供だったあの日のこと。制服を着て、寄り道をした時のこと。下手くそなわたし達はきっと下手なせいでひとつハッピーエンドを喪った。
未熟で、傲慢で、恵まれたあの青い空でずっと笑っていられると信じてた。一緒に食べるはずだったカレーとか、観るはずだった映画のこととか。
恋だとか恋ではないとか見当違いな問答を抱えながら、子供らしくはしゃいでいたあの日々をわたしは愛しく思う。とても、愛しいと今なら言える。
ここではないどこか遠く、果ての国、常春、シャングリラ。そんな場所で生きていたかったわけじゃない。胸いっぱいに青い朝を吸い込んだ。わたしは、きっとこの街に帰ってくることまでを含んで、どこか遠くの国を夢想していた。子供の無鉄砲な言葉。
春の風はまだ冷たかった。それでも頭上には気持ちがいい青が広がっている。薄着のし過ぎかも知れない、と思ったけれど直ぐに帰宅するので問題はないか、と思い直す。アスファルトで舗装された道路の端っこを歩きながら、これからのことを考える。
「春みたいですね」
「今日から4月だからな」
「そういう意味じゃなくて、先輩が春みたいだってことです」
言葉は目に見えないのが問題ならば、言葉など全部、鉱石になってしまえばいい。心も、哲学も、感情も全部カラーパレットをばらまいたような石に。言葉そのものが見えなくても、せめてわたしが死にゆくその時には、言えなかった言葉を溜め込んだ肺も、哲学に通った血も、心臓も全部、石になれ。
そうしたらきっと死んだってあなたの側で生きていられる。そんな絵空事。きっと、先輩でもわかるぐらい、わたしの心臓は真っ青な石になっている。
わたしに未来は見えないけれど、最期の言葉は知っている。きっと、この心臓に言葉が残るなら、21グラムに等しい言葉があるとするならば。
わたし達は変わってしまった。きっとこれからも変わっていくだろう。先輩はもう子供じゃない。街だって全て変わってしまった。夢ではご飯が食べられない。世界で2人きりではないこともわかっている。
「先輩は先輩はわたしの春で、だから」
感情が喉に絡まって、まとまって、そのまま張り付いた。記憶のなか。乾いた口の中を湿らせて、一度瞼を下ろす。言えなかった言葉は肺の奥底に埋没して、青く、蒼く、固まっている。いうべき言葉は相変わらずそこにあった。わたしは春が好きだから、春のようなあなたが好きなんです。言わなかった。アスファルトには桜の花びらが張り付いている。タイヤにひかれた跡が生々しい。
「だから、先輩より先に死にたいです。わたし、春の中で死にたいから」
最期は石になりたい。墓石以外の、石になってあなたの側にいたい。死んだら骨からダイヤモンドでも作ってくださいね。それで誰かと結婚したって構わないから。世界中の誰が否定してもわたしだけは祝福してあげますから。
先輩は大きな溜息をついてわたしを見上げた。
「馬鹿いうな。無理して言わなくていいと言っただろう……おまえは端折りすぎだ。もっとちゃんと話せ」
「えー、だって明日も聞いてくれるんでしょ?」
「それとこれは別だろう。今日だって話は聞く」
先輩は左手の時計を確認して、もうこんな時間か、と見えすいた嘘を吐く。それだけは変わらず、下手くそだった。不器用ですね、と揶揄ってみてもよかったけれど、結局わたしにも同じ言葉が返されそうなので気づかないふりをする。
きっと先輩は忘れてしまった。人間は忘れるようにできている。仕方がないので、わたしが先輩の分まで覚えていてあげよう。わたしがあなたが変わってくことと忘れることを許す代わりに、過去を今と同じくらい愛することを許してもらおう。
「今日はカレーでも食べないか?」
素直なのか意地悪なのか、単に下手くそなだけか。目の前の人は表情ひとつ変えず、違和感のある切り出しをした。ねえ、先輩。
「わたし、蒼也のそういうところが好きかも」
「それは結構なことだな」
左手がわたしの手を包む。わたしはわたしの進行方向へ向かう。先輩は抵抗もせずわたしに引っ張られてくれた。操り人形のようなそれに思わず笑い声が漏れる。朝だからもちろん控えめではあったけれど。
「でも、今すぐじゃなくていいですよね」
「そうだな。どこまで行く予定だ?」
「あー、そうですね……ちょっとませたわたしの幼馴染のところへ」
「折角だから俺も挨拶していいか」
先輩と繋がった手のひらから、どくりどくりと心拍が流れ込んでくる。
「じゃあ先輩のお兄さんにも紹介してくださいね」
「おまえの幼馴染と同枠ではなくないか……?」
「あの子はわたしのきょうだいみたいなものですから」
同じ歩幅で歩く。わたしたちでは一生、同じ道を隣で歩くことはできないかもしれない。側から見ればきっと不誠実な言葉だ。でも、この街ではきっとそれが一番誠実だとわたしは思う。日常を愛せよなんてだいそれたことじゃない。明日起きるかもしれない悲劇の前夜ならきっとドラマティックだ。
何カレーがいいですか、とわかりきった問いを投げた。今までの会話を全て投げ捨てて。それにカツカレーと答えるその人の右手には、わたしの好きなケーキ屋の包装が握られていた。
わたしは今日、20歳になる。青くて未熟な春にさよならを告げて、深い深い青を浴びる。
22.0525