飛び立たなくとも蝶のまま
『世界中の全てが敵になっても、わたしはあなたの側にいる』
ロミオとジュリエットのような、それよりもっと繊細な恋のような、人魚姫と王子のような、そういう少女漫画めいた美しいものこそが恋のように見える。実感は全く伴わないけれど。
恋だとか愛だとか、そういうことはわからない。彼氏が欲しいとか。あいつの好みのタイプがロングヘアの女子だから伸ばすとか。そういうことがわからない。
そう主張すれば、わたしより大人びた幼馴染はわたしをお子ちゃまめ、と揶揄う。うるさいよ、と子供らしい文句をかわして、同時に笑う。ふと、幸せだなと感じても、照れくさいから言えない。それはきっとわたしが死ぬまで変わらないだろう。
彼女は彼女で、特別な人のために指先まで磨いて、校則違反スレスレの色付きリップを塗る。特別な人がいるくせに、特別だって思っているくせに、特別なことはなにもいらないなんて売れないバンドマンみたいなことを歌うのだ。でも、最後だけはわからなくもないから、あの子の幼馴染で、隣にい続ける。
「環だっているんじゃないの?特別な誰かさん」
「違うし」
「誰とは言ってませーん!いや、環ってああいうストイックなタイプが好きなんだね〜、身長がネックだけど」
「だから一人で盛り上がらないっでってば!」
日常を歌う。深夜のコンビニ。朝一番の映画館。夜明け前の神社。幸せってよくわからない。わからないなりに考えても断片的なものしかあげられない。わたし達は、運命も恋も本当には信じていなかったけれど、それでも、確かに特別な瞬間に関する直感だけを抱いて生きている。
先輩の赤い目がふと瞼の裏に流れてきて、胸が肺が気道が満たされるような瞬間がある。
でも、本当に。激情と恋と友情と尊敬には違いがあるのだろうか。果てしない問いなので、ここでは仮に、違いがあると定義しよう。それならば、恋とはかわいい感情で、側にいたいと願うことだ。そうなれば、わたしがあの人に抱く感情は恋じゃない。あの人の目に映る全てを知りたくて、あの人がどうしてさなのかを理解したいだけ。尊敬と憧憬の狭間。だからきっとわたし達には名前がない。
真面目に机に向かうその人を眺める。放課後の夕方の中の図書室は人がまばらだった。人数の少なさがもたらす一種の空気感がわたしは好きだった。静寂の音さえも聞こえてきそうなところとか。
そして目の前にいる一学年上のかなり小柄な先輩もそうらしかった。風間蒼也。青い名前の赤い目の先輩。そのちぐはくさがわたしの記憶の中で色づいている。赤と青の中間の色。暮れかかった空をそのまま映し込んだような色。集中して問題集を解いている様から目が逸らせなかった。先輩が目をあげる。
「おまえは自分のことやらなくていいのか」
不審を通り越して、もはや慣れたような口調でわたしに話しかける。実際、今日が初めてというわけではないので、わたしはさらに歯切れが悪くなる。
「あー…………やる、予定ではあります」
「だったらやれ」
簡潔な注意を受けてわたしは自分の手元の本に視線を落とした。詳細な写真を見ながら、また先輩を盗み見る。赤い目と視線が重なった。わたしがみたことの気がついたとかじゃなくて、そうじゃなくて。みていたことを隠さないで、先輩の目が細まった。
「……何か用ですか?」
「いや、ただみていただけだ」
ロミオとジュリエットのような、それよりもっと繊細な恋のような、人魚姫と王子のような、そういう少女漫画めいた美しいものこそが恋のように見える。名前はわからない。でも時々考える。この感情がこの先恋になったらどうしようかな、とか、そういうの。全くもってわたしらしくない夢見がちなことまで浮かんでくる。
「先輩、もう帰りですか?」
わたしよりずっと小さい背中を呼び止める。赤い目がきゅっと細まるたびに、喉の真下が暴れ出す。理由も理屈も仕組みもわからない。知らないことばかりで、いつだって居心地は良くない。でも、それでも。
「あの、よかったら、ちょっとだけ寄り道していきません?」
でも、この人の見える世界には興味がある。
「別に構わないが……おまえどこに行くか決めてるか?」
アスファルトに張り付く影法師を蹴る。意味もなく。でもじっとしていられなかったから。
「それば特にはないですけど」
「ないのか」
「やっぱなかったことにしましょう!寄り道って校則違反とかにあたる覚えもありますし!じゃ、先輩また今度!」
「おい、待て。そういうわけにはいかないだろう」
先輩の言葉で逃げが封じられる。この人は正論しか言わないので、正直、ときどき空気が硬化する。
「俺の寄りたいところでよければ、一緒に来るか?」
正しい人でありたい。この人に少しでも近づきたい。でも、どうして近づきたいのかはわからない。わかりたい。
行きます、口は勝手に先輩に答える。ねえ、先輩。わたしたちって一体なんなんでしょう。家が憎み合ってるわけでもないし、幼馴染でもないし、わたしも先輩も悪い魔法になんてかかっていない。ドラマティックなことなんかひとつもない日常の中で、わたしと先輩は何なら名乗っていいんでしょうか。
「おい、行かないのか?」
「行きます!ちょっとまってて下さい」
鞄を掴んで図書室のドアを抜ける。緑色の床を踏んで、先輩がうるさいぞとわたしを叱る。意味のわからないタイミングでのお叱りが面白くて、わたしの口から笑い声があがる。先輩って、ほんとなんか変なひとだ。わたしが笑い転げている間に、見捨てて歩いていく背中は真っ直ぐだった。少しも振り返る要素がない。
「はは、待ってくださいってば!」
3歩進んで先輩の隣に並ぶ。先輩の歩くスピードが落ちる。視線は合いにくいけれど、身長差の割にすぐに歩幅がぴったりと合った。
文房具屋から先輩が出てくる。寄り道に選ぶものが優等生然としていて、すごくこの人らしいと思った。別に悪い意味ではなく、ただ、とても純粋に。
「何買ったんですか?」
「シャー芯の最後の一本が折れたから、それと……あとはなくなりかけていたノートだな」
「先輩って実用的な人ですね」
「それは誉めているのか貶しているのか反応に困る」
「そりゃもう褒めてますよ」
「そうか、ありがとう」
調子のいいことを言って怒られたらどうしようかなんて思ったりしたけど、先輩は何も気に留めず、おもむろに向かいの店を指差す。
「あそこで何か飲んでいくか。まあ飲むというとラムネ程度しかないが」
この人はわたしをどう思っているのだろう。駄菓子屋を指す人差し指を見て、疑問が浮かぶ。
「嫌ならこのまま帰ってもいいが」
「ここまで来たんだから寄って行きますって」
「そうか」
「そうです」
きれいだな、と思った。この人はすごくきれいなんだ。容姿だって整っている方なのは間違いないけれど、それ以上に生き方がなんだか、とてもきれいだ。無駄なものがない、というか必ずぶれない何かがあるような。もちろん時々何か変だけれど。
先輩がわたしに冷えたラムネの瓶を渡す。冷たい。青く透き通る瓶を日に透かす。眩しくて目がおかしくなりそう。でも、ここには確かに夏があった。今はまだ春なのに!
ラムネを煽る風間先輩の横顔を眺める。薄暗い店内の中で、透き通るガラス瓶の向こうの景色だけが青く光った。心拍数はいつもと違うし、喉が苦しくて声は全然出ないし、ラムネの瓶を握った左手が濡れて気持ちが悪い。それでもずっとここにいたい。
夏が近づきつつある空はここのところさらに透明度を増している。他に形容詞が見つからないくらいに空は青かった。ねえ先輩。わたしは今日のこと、一番特別鮮明に覚えておこうと思うんです。5年後も、10年後も、ずっと昨日のことみたいに覚えています。
それは多分、先輩が特別な人だから。
「呆けてないでラムネを飲め」
「……す、すみません」
赤い目がわたしを映す。目を合わせていたら頭の中全てを覗かれてしまいそうで、風間先輩から目を背ける。先輩の視線を追うように、壁のほうを見た。
「あ、そっかやっと公開か!」
「……どうした?」
「え、あ……ずっと楽しみにしてた映画はやっと公開されるって思い出して。あのポスターが、そうで」
続く言葉は見つからない。普通にこれが好きなんです、といえばいいだけなのにそれができなかった。ラムネを一口飲む。風間先輩の顔を観る。忘れてください。
「おまえからちゃんと好きなもののことを聞くのは初めてだな」
「そうですかね?」
「前から会うたびに変な本ばかり読んでたからな。それが好きなのか違うのかよくわからなかった。イスラームの本とか、ラテン語の教科書とか、フランス語の絵本だとかな。見ている分には面白いが」
「いや……だって、中等部の図書室小さいから、高等部の方が面白いじゃないですか……」
「お前以外借りていくやつがいるとも思えないな」
面白がっている先輩の声にわたしは気恥ずかしい気持ちでいっぱいだった。そこまで覚えられているとは思わなかったし。
「いいでしょ、貸し出しカードの一番上に自分の名前があるっていうのも。そうですよ、先輩もやればいいじゃないですか」
「アホの発想だな」
「うわ、ちょっと馬鹿にしないでくれます?数年後ひっくり返したら綺麗な絵が描かれてることだって……」
「……なんの話だ?」
「…………いえ、いいですよ別に気にしなくて。先輩には映画とか観るイメージないんで」
「別に嫌いなわけではないが……。まあ確かに積極的に観ることもないな」
「おもしろいですよー、多分の人生の追体験としては一番映画が適していますね」
風間先輩とわたしでは価値観も好きなものも違う。同じところなんかない。だからこそ、風間先輩の見ているものが知りたい。ただの好奇心。好きなんじゃないの?無責任な同級生はわたしを囃し立てるけど、恋ってもっとフラットなものだと思う。同一化を願うなんて恋があったら、それは恋愛映画なんかと違う奇ッ怪な出来にしかならない。
「先輩の好きなものもちゃんと言ってくださいよ。学食で好きなものは?」
「なぜインタービュー形式になる?……まあ、カツカレーだな」
なるほど。と相槌を打つ。
「じゃあ、他には?」
「他……カツカレー以外だと、牛乳か?」
「あれ、学食関係なくカツカレーと牛乳が好きな感じですか?」
「そうだな」
「あはっははは!!!食べるのが好きとかそういうわけでもないんですか?」
「まあ食べることは嫌いじゃないな。なんでもいいかと聞かれると困るが」
「あはは、ほんと面白いですね。あ、わたし美味しいカレー屋さん知ってますよ」
「今度案内してくれ」
今度。先輩の口から当然のように出た言葉。そうですね、と返したわたしの声はどう聞こえただろう。風間先輩だってどういう気持ちで言ったのかわからない。社交辞令だったかもしれないし。きっと気にすることじゃない。忘れた振りなら得意だから、大丈夫。横顔を一瞬だけみて、不確定な未来を呑み込んだ。それは気道に張り付いて困ったけれど、きっと、それにすら慣れる日が来る。
「今度の日曜、空いてるか」
廊下で呼び止められたとき、この人はなにを言っているのかわからなかった。
「日曜、ですか?空いてますけど……」
「カレーがうまい店のことだが……」
「先輩が行きたいだけじゃないですか、わたしカレーは嫌いではないですけど好きでもないですよ」
「……それも、そうだな」
あからさまに言葉に詰まる先輩を見ていると胸がいっぱいになった。
「わたし、フルーツサンドと紅茶が好きです」
風間先輩の目が丸くなる。こんな表情するんだ。驚いているのは先輩だけじゃなくてわたしもそうで、しどろもどろになりながら、どうにか「別に嫌じゃないので」と言葉を吐き出す。嫌じゃない。全然、嫌じゃない。
恋はきれいなものだ。わたしを夢見がちだって笑うけれど、恋をしている彼女たちはいつだって美しい。月みたいだったもの。そりゃ恒星じゃないから光ったりしない。太陽の光の当たり方で見え方は変わるし、地球からじゃ月の裏側は見えない。クレーターだらけでつまらないって言う人もいるかも知れない。でも、月はきれいだ。
「そうか、なら、カレーの後……いや前でも構わないが、それを食べにいくのはどうだ?」
「あはは!食い倒れツアーですか」
「そうなるな……おまえが嫌じゃなければ、行かないか」
休日にまで会うことになるなんて思いもしなかった。所詮、先輩と後輩でしかない。わたしは先輩とどうなれるんだろう。
「良いですよ」
わたし、先輩のことが嫌いじゃないので。勝手に口が微笑みの形を作る。それは全然不快なものじゃなくて、特別なものだった。何かが変わりゆく、特別なカタチ。
22.0525