北極星とチャコールグレイ

赤い目がわたしを映している。期待、盲目、執着、停滞。どれを当てはめても正解にはならないことだけがわかった。
「わたしは遠征艇には乗りません」
それを口にするのだって決して簡単なことじゃなかった。風間先輩の目が不意にわたしから逸れる。今まで出会った中で、初めて見た表情だった。どうして先輩がそんな顔をするんですか。言ってやろうかと思った、思ったけど、できなかった。言葉にしてしまえば、あなたを傷つけるような気がしたから。だから、先輩の温度のない乾いた相槌を聞き流してあげた。
わたしに何を期待するんですか、今更。
それから、先輩が卒業してからふたりきりで今日初めて話したことに気がついた。ずっと話していない。あの春に全てを置いてきた。先輩はわたしに何かを期待するけれど、わたしは、もう、何も期待なんかしない。
先輩は曲がってもう見えなくなった。いなくばる人を思っても意味なんかない。それよりももっと目先の問題の方が重要だから。

「太刀川って準備終わってるの?アイツ大丈夫そう?」
太刀川に用事があってきたのに、よりによって太刀川本人がいない。中高生男子が談笑しているだけ。相変わらず統一感のない雑貨店のような隊室の中を進む。
「出水、烏丸、太刀川っていまぶ対戦ブースにいるの?」
「まあここじゃないならそうじゃないっすか?マジで、環さんて太刀川さんのオカンみたいですよね、ホラ京介環さん来たろ、オレの勝ち」
「俺もくるとは思ってましたけど」
「つまんねーな」
「嘘です」
「いや、どの辺がだよ」
やいのやいの騒ぐ彼らの緊張感のなさに呆れたけれど、意外とこのくらいでいいのかもしれない。先輩の真面目な目が脳裏に過ぎたけど、見なかったふりをした。
「わたしで賭け事しないの……ちょうど部隊解散の申請いったら忍田さんから頼まれてね。あと太刀川のお母さんにも色々お願いされてるから……」
「お母さん公認じゃないすか」
「はーい、人の揚げ足を取らない!」
えー、と出水からブーイングが上がるが、無視してファイルをテーブルの上に置く。透明なファイルに入った書類はいつもの事務的な書類だった。出水が面倒臭そうな顔をして、指で烏丸の方にファイルを寄せた。
「出水先輩、流石に最年少にやらせることではないかと」
「いいじゃんいいじゃん、経験だって。今は由宇さんもいないし」
「なんでもいいから、太刀川に渡しておいて」
やいのやいの言い合う中から外れ、同じルートを通って太刀川隊の隊室を出た。わたしの隊もあれだけ自由に言い合えるなら、解散なんかしなくて済んだのかな。
終わってしまったことの未来を憂うのはわたしの悪癖だ。わかっている。でも、思わずにはいられない。わたしには忘れることができないから。忘れることさえできればきっと普通に生きられるのに。忘れて浄化してあげないからきっと永遠に、わたしの死んだ過去は亡霊として彷徨い続けている。
「お、春白じゃん」
「太刀川……あんたマジでタイミング悪い、さっきまですごく用事があった」
「マジか」
もともと利害が一致して作った部隊だった。だから、こうやって崩れるのは予定調和だ。でももしも利害の一致以外の理由で作った部隊が解散になるとしたら、わたしはどうしただろう。
迅は昔、選ばなかった未来のその先を見ても悲しいだけで意味がないと言った。そうだね、事実だ。でもそれは、迅が未来のために生きることしかわからないからだ。今と未来直線で結ばれている様が彼には見えるんだから。結局迅は未来を生きている。今のために生きてはいない。じゃあ、わたしはどうなるんだろう。
「ねえ、太刀川。昔、隊に誘ってくれたこと覚えてる?」
「あったっけそんなこと」
「……聞いたわたしがアホだったわ、早く帰って寝なよ」
「あっ、思い出した!東隊すげー強くて戦いて〜って思ってた時におまえが言ったんだわ部隊作れば?ってそれで……誘ったっけ?」
「いいんだって……ああ、隊室に遠征中が締切の書類あるからね。それだけ」
「なんだよおまえ、やけにつまんねえじゃん。何、何、自分とこ解散すっから落ち込んでんの?」
「落ち込んではいない」
「おまえ意固地になんなよ〜、二宮みてーだぞ。ま、マジで行く所なかったら、ウチで引き取ってやってもいいけど」
「うっさいっての」
「やーい、照れてやんの」
太刀川と話していると全部が馬鹿馬鹿しく思えてくる。覚えることも忘れることも全部本能任せの男。ああやって生きるのがこういう社会だと一番だ。

振り払って、それから、過去がわたしを流れる。迅が未来のためでしか生きられないないなら、わたしはきっと過去の中で死ぬしかないのだろう。



全てが整ってからいうことじゃないけどさ、とわたしは前置きをした。カセットコンロと土鍋が鎮座したローテブルはいくら眺めても変わりようはない。今日は鍋。変わらない事実。
「迅はさ、わざわざうちに来て鍋つつく必要なくない?」
「いいじゃんそう言うことは」
「ちゃんと高校には行きなよ高校生」
「うっわ一週間しか誕生日違わないくせに年上ヅラするんだ」
「迅?」
「冗談だよ。環さんは太刀川さんなんかよりずっとしっかりしてるからさ、でも逆に心配で」
「逆にって?」
「あの太刀川さんの能天気さに助かってるところあるでしょ」
「まあそれは否定しないけど」
「しないんだ」
煮立った鍋の中から、出汁の染みた大根を取る。白い取り皿の中で柔らかな湯気を上げている。
「太刀川さんのあの能天気さっていうか、ちゃらんぽらん具合を受け入れられるかそうじゃないかが環さんと二宮さんの違いだよね」
「言いたいことはわかるけど、あんまり他人を分析しないでよ」
「環さんだって同じでしょ。それに、おれだって誰彼問わずこんなこと言わないし」
「ありがとうありがとう」
迅が不満そうに声を上げる。わたしが取ろうと思っていた煮卵が目前で奪われた。
「ええちょっと、もっと心を込めてよ。俺が本当はそうじゃないみたいじゃん」
「わたしにだけされても困るんだけどなあ」
「いやいや、林藤さんとかレイジさんとか小南とかもだよ」
「あれ、もしかしてわたし玉狛の頭数に入れられてる?」
迅の青い目と目があった。自然にふふ、と揃って笑い声が漏れる。
「環さんがおでんで一番好きなのは大根で、おれがすきなのは」
「パンペン?」
「せーかい」
「あはは!迅はわかりやすいな」
「環さんもわかりやすいよ」
迅が調子の良いことを言う。
「わからないって表情するひともいるけどね」
「おれはわかるから」
わたしの取り皿をひょいと取って、お豆腐を入れた。出しをおたまで救う様を見ていた。わからないことばかりの中で、迅だけはわかる。わたしの人生におけるカンテラみたいな人だった。
「今日、風間さんのことで泣けない環さんのことか」
「それは、わかるじゃなくて“見えた”んじゃないの?」
取り皿を渡される。指先を皿に沿わせた。熱が指から痛いくらいに伝わってきた。
「ありがとう」
「どういたしまして。明日も来ようか?」
「お好きにどうぞ」
迅ならよかったと思う日がある。わたしが迅だったら、という空想のこともあるし、風間先輩なんかじゃなくて迅と過ごせればよかったと思うこともある。
わからないことは悲しい。過去の中で死ぬのは寂しい。でも、きっとわたしが得られる幸福はきっとそれが一番大きい。手に入らないものほど輝いてみ得るものだから。風間先輩のことだって、そうだ。あの憧憬を恋と呼ぶなら、きっともうどうにかなる地点はない。やり直しは効かない。それそこわたしたちが選ばなかった……違う、選べなかった未来の中にしかない。
恋は、始まることなく終わることもある。失うまで気づけない下手くそな人間だっている。わたしや先輩のように。
これはもう恋ではない、愛でもない。違うもの。だからどうするべきでもない、関わるべきでも慈しむべきでもない。
だから、あの春に全てを置いて行った。ただの後輩が先輩に恋みたいな感情を抱いたという事実だけを埋めた。
「でもさ迅、ひとつ間違えてるよ。わたしは、泣けないんじゃなくて泣かないの」
言葉を御守りのように抱えている。恋ではなくても、ああはなれなくても、見えているものがわからなくても。
「深刻なことは考えないで笑ってることにしたから」
人混みの中で先輩を見つけることはできない、もう二度と。それを実感できて初めて思い出になる。雑踏からたったひとりを見つけることなんてさ、フィクションの中くらいに留めておいて欲しいよ。
おまえは笑っている方がいい。風間先輩が言った。だから笑うことにした。笑えないよりは数倍マシだ。ピエロみたいに笑い続けて、踊り狂って、死に絶えることだってきっと悪くはない。
「明日はさ、キムチ鍋にしようと思うんだけど」
「いいよ。キムチ鍋の材料買っておく」
なんでもないように明日のご飯の話をする。六畳間の白い壁がやけに眩しかった。
「そうだ、この煮卵めちゃくちゃ美味しいよ」
「どうしたの?ヤケに得意げじゃん」
「それがさ、環さんとこいくって言ったらレイジさんが作ってくれた」
「レイジさんの弟子でよかった」
迅が愉快そうに目を細める。幸せそうだった。ただの少年が向かいにいる。「環さんて結構現金だよね」軽口に肯定も否定もせず今度こそ煮卵をすくう。

今にして思えば、キムチ鍋とか言い出す前にこの未来を教えておいて欲しい。昨夜の迅の言葉を思い出しながら、わたしは半ば八つ当たりで、迅、と呟いた。
一度冷蔵庫の扉を力任せに閉める。ぱたむと扉のゴムから空気が抜ける間抜けな音を挟んで、わたしはもう一度宣誓した。
「よし、迅を呼ぼう」
「悪くないんじゃねえのそれ」
「いや、他人事過ぎない?まあいいや呼ぶ……はーい迅?今すぐ太刀川宅集合!……うん、よろしくね」
ワンコールだな、と心の中で思う。隣でボケっとしている太刀川はデリカシーがないので
「ワンコールじゃん」
「見えてたんじゃない?呼ばれるまでよく待ったよ」
太刀川のうちの冷蔵庫から食べ物をしらみつぶしに取り出す。なかなかに消費期限が怪しかったり、なぜか野菜や卵が多く残っている。
「卵かけご飯でも食べたかったの?」
「おー、わかる?なんか無性に食いたくなって基地の近くのコンビニで買った」
「まあ冷蔵庫に入れてるだけ偉いか……」
「俺腹減ってきたんだけど」
「わたしはあんたの母親じゃないんだけど」
「いーじゃん、どうせ捨てるか食うかしかないんだろ?」
眉間が重くて、手を添える。迅には昨日、太刀川の能天気さに救われてるなんて格好つけたけど、前言撤回、面倒に巻き込まれて疲弊する方が多い。
「貸しだからね、今度また奢ってよ。定食ね、あのお高めのやつ」
「しゃーねーな」
「いや、マジで、誰のためだと思ってんの?」
呆れて特大のため息が口から出た。へらへらしている太刀川に生卵でもぶつけてやろうかと思ったけど、さすがに可哀想なのでやめてあげた。ピンポーンとチャイムが鳴る。まずは見えてたくせに言わなかった迅にひとこと言わなきゃ気が済まない。
「あ、風間さんも呼ぶ?」
「何でもかんでもあの人に頼る癖やめなよ」
「でも割と満更でもなさそうだからいいじゃん」
「そういう問題じゃないと思うけどね」
太刀川はわたしの話なんて一ミリも関心がない。わかっていたけど、改めて態度で見せられると腹が立つ。太刀川の頭に牛乳パックをのせる。
「ずっと思ってることあんだけど」
「なに?」
「春白と風間さんって時々いっみわっかんねーことするよな、なんで?」
「別に、意味はないけど」
風間先輩の名前にぞわりと心臓が逆立つ。
「ま、別に俺もどーでもいいんだけど」
わたしは太刀川になら言わなくてもいいでしょ、とだけ返して時計の秒針を眺める。規則正しい音。時計の音だけしか信じられなかった。



実家の天井はクリーム色だった。天井から下がる照明は父が買ってきてくれたペンダントライトで、星めいた形をしたそれをとても気に入っていた。他には母と父が分け合っている幾何学めいたピアス。よくわからない象形文字が編み込まれたラグ。ロココ調の白いテーブル。独特の形の角笛。わたしは父が買ってくるそういう風変わりな雑貨のことが大好きだった。どこで見つけてくるのか調べてもわからないものは多かったけれど。あの頃のわたしは、反抗期だったから父と一緒に行って見たいなんて言えなくて。
ワンルームの白い天井を見ながら、遠い記憶を引き摺り出した。もう粉々になってしまった自宅のこと。亡くなった母のこと。未だに行方が知れない父のこと。帰ってこないといいのけた姉のこと。死んでしまった幼馴染のこと。
未だに天井の色に慣れない。目を開けるたびにここは違う場所だ、と思ってしまう。ここがわたしの居場所ではないなら、わたしに帰る場所なんかなくなってしまうのに。目を手で覆い隠す。瞼の裏で跳ねる色彩に酔ってしまいそうだった。
寒いから布団を引き摺りながら窓に近寄った。空は暗く、銀色の雲だけが立ち込めている。
あてもなく部屋の中、視線を投げていく。壁にかけた百均のカレンダー。遠征帰還。黒いボールペンではしりがきがあった。とっくに乾いている文字の表面を指でなぞる。滲まないし消えない。たしかに現実だった。
帰ってくる。風間先輩が帰ってくる日。
意味なんてそれ以外ない。わたしはごく普通の日常を送るだけだ。先輩が帰ってくるから、何か変わるということはない。
遠征には行かないと言い切った自分の言葉を分解する。基準に達していないのはもちろんそうだ。近界なんて面白いところ行きたいに決まってる。太刀川みたいに闘いがしたいわけでも、迅のように交易がしたいわけでも、先輩のように生き残る術を考えたいわけでもない。わたしのは、思想なんてない子どもの無鉄砲な夢の延長戦だ。
カーテンの隙間から街灯の光が漏れている。目で床に落ちたか細い光を追いかけながら考える。わたしは何が欲しかったんだろう。今のわたしは何を持っているんだろう。一度疑問が浮かぶと眠気は消散してしまって、ずっと、フローリングに座りながら宙を見ていた。それでも、わからない。わたしは何者になれるんだろう。

22.06.08