ピアスホールからの不審火
タイミングを間違えて、ちょうど帰宅ラッシュに立ち会ってしまった。革靴。ハイヒール。大きなリュック。時々混ざる女子高生の華やかな声。耳を塞ぎたくなった。
気分を少し変えようと電車に乗った。三門がこんなことになっても、普通に、ベッドタウンらしく扱われている。それは当然ボーダーが問題ないと吹聴しているおかげだし、実際影響がないことも彼らが変わらない理由だ。でも、一度でもその歪さに気づいてしまうと頭が痛くて視界が霞んで、あの子の死体を思い出してしまう。たしかに、今はないかもしれない。でも、いつそうなったっておかしくはないのに。
夕日が足元まで迫っている。きっと次に気がついた時には地平線の果てへ姿を消す。
亀みたいに首をすくめて、マフラーの中に顔を埋める。時計を確認する。18時23分。いい時間だからもう行かなきゃ。重たい足枷を振り切って進行方向へ足を出した。
「春白?」
声と声が重なって意味をなくす中で、その声は鮮明だった。躊躇いなく振り返る。
「……あ、風間先輩」
「悪い後でかけなおす」
放心した顔のまま電話口に吐き捨てて、わたしの腕をつかむ。大きな動きはうたた寝から目覚めたばかりの人のようだった。久しぶりにみた先輩は、まるで数年ぶりに会ったかのようにわたしの顔をじっと見つめていた。何を考えているのかわからない。
「えーと、これから太刀川とご飯いくんですけど来ます?」
何も話さないわけにはいかない。駅の出口付近で止まっているわたしたちを避けるように、人が流れていく。気にして視線を一瞬だけ投げる人。気にしないで靴底を鳴らして行く人。唾を吐きかけてきそうなぐらい不快そうな顔を見せる人。わからないのは先輩だけた。
「俺はいまカツカレーの口だからそれ以外は食わんぞ」
「随分と狙い撃ちですね。先輩らしいといえばすごくらしいですけど....。太刀川はなんか定食食べたいっていってましたよ、あるんじゃないですか?」
「豚骨ラーメンじゃないのか」
「違いますね」
「太刀川のいうことをまともに受けた俺が間違いか」
呆れたように風間先輩がぼやく。食べたいものの話でそこまで落ち込む必要も今更ないだろうに。先輩の横顔を見ながら、ふと力が抜ける。
「そりゃ太刀川なんで」
世界の音がやっと収まる。先輩の手の温度がブルゾン越しに伝わってくる。生きてる。夜のことを思う。わたしは寒くて寒くて仕方がなかった。昨日よりずっと温度が低いのに、今は寒くない。先輩といる理由はそれでいい。
「違うもの食べちゃった可能性もありますよ、太刀川だし」
「そこまで馬鹿なのか?」
「それは今更だと思いますよ」
風間さんに太刀川がどう見えているのかわからないけれど太刀川なんて基本ロクでもない奴だ。天気よりも気まぐれで、闘うこと以上に楽しみなんかない。
先輩と食べるって連絡しましょうか、と言いかけた瞬間、着信がなった。太刀川の3文字がピカピカと点滅する。
「……とかなんとか言ってたら矢先に太刀川から」
震えるスマホを手にしたまま、先輩の方を確認する。赤い目を見るとそれ以上言葉が出てこない。
「出ていいぞ」
「風間先輩の方は電話いいんですか?」
「どうせ諏訪だ」
「そういうことばっかするから諏訪さんがキレるんですよ」
「意外と満更でもないんじゃないか」
先輩は知らないかもしれないけれど、そう言うことするとわたしが文句を言われるんですよ。
息を吐けば白い息があたりに漂った。冬めいていく空を見上げて、今度こそ迅とキムチ鍋をやろうと思った。
『あ、春白?おまえ出るのおせーよ』
「太刀川、今どこにいる?」
『メシなんだけどさ、もう食っちゃった』
は?と不意に出た声は間抜けな音だった。太刀川の能天気な声を聞いていたら頭が痛くなってきた。すっかりもう全部忘れてたのか。
「もう食べたってなんで……?」
『流れ?出水たちと報告書まとめてたからさあ』
「え、ああ、出水たちと食べたんだ、そう。忘れてたんでしょどうせ。うん、いいよ明日で」
特に抵抗をせず電話を切る。なんなのアイツ。そういうやつなのはよく知ってたけど、よく知っていたけれども。ぽや〜とした声がいつも通りだったし、特に問題なく帰ってこれてよかったね、以外に言葉が見つからない。もう7時近くなった街の街灯の白い灯りが目に優しくなかった。
「ドタキャンか」
「どうしましょうね」
「どうもしないな。じゃあ、太刀川じゃなくて俺と飯を食うか?」
突然喉が困った。酸素が気道に溜まってこんがらかったようで。飲み込んで、先輩を眺めながら言葉を探す。後輩っぽい、後輩っぽい言葉。
「……奢りですか?」
「おまえは太刀川か」
「は?めちゃくちゃ失礼すぎませんかそれ、
……。受験シーズン真っただ中に部隊を結成するやつと同レベルにされるの心外です。あーあ、風間先輩だけはいわないと思ってたのに、あーあ」
「いくのか?」
先輩の顔に白い息がまとわりついていた。断る理由はなかった。でも受ける理由も誘う理由もなかった。でも、赤い目を見ていたらどうしようもなくなって「いきます」と声が出た。踏切の警笛に流されながら先輩はそうか、と言うから思わず「そうですよ」と応答した。亀みたいに首をすくめて、マフラーの中に顔を埋める。時計を確認する。18時23分。いい時間だからもう行かなきゃ。重たい足枷を振り切って進行方向へ足を出した。
メニューを開いて真っ先にカツカレーを見つけて、先輩の方を見てしまった。大盛り可という赤い文字が大きく印刷されている。赤い背景に黄色の太字。自分で言ったのに「ありましたね」と報告するわたしの声は駅前ではしゃぐ女子高生と大差なかった。先輩は言葉数少なくただ頷く。
「嬉しいか?」
遠慮がちな声に、困惑しなかったと言えば嘘になる。数秒遅れて、言葉の意味を探す。嬉しい。そう見えるのか。でも、普段より少し近い高さの視線がちょうどよくて。テーブルの分だけ距離があるのも、安心は先にたった。それでも、ただ隣に立っているよりずっとよく表情が見えた。会えて嬉しい、を後輩らしくいうには、どうすればいいのだろう。
「そう見えるならそうなんじゃないですか」
素直には答えられない。反抗期の埋め合わせのようだった。
「おまえは可愛げがないな」
「可愛げ云々言い出すのなら人選が間違っているのでは?」
「それもそうだな。おまえといい太刀川といい神経図が太い奴らばかりだ。二宮や加古あたりもそういうものを捨てているが……どうなっているんだおまえたちの世代は?」
たしかに二宮も加古も太刀川も癖がある。あるけれど、じゃあ自分たちの世代はどうなんですか。別に極悪人ってわけじゃないなら基本どうとてもなるものだ。それらは思うだけに止めてとりあえず笑って誤魔化した。ノータイムで先輩がわたしのつま先を軽く蹴ってくる。
「暴れないでくださーい」
先輩の脚を突き返す。先輩が脚を引く。嫌なら始めからしなきゃいいのに。
「当然うれしいですよ、先輩とまた会えて」
「はじめからそう言え」
女性が奥から水を運んできてくれる。思わずその横顔を見てしまう。知らない人。パートらしい彼女は、事務的な会釈をわたしに返した。なんでもないように、ありがとうございます、とお礼を言って「注文いいですか?」と引き留めた。
ナポリタンとカツカレーが机に並んだ。
「いただきます」
「いただきます」と手を合わせてから、遠征帰りのこの人にちゃんと挨拶をしていなかったことに気がついた。
「あ、風間先輩、おかえりなさい」
くるくるとスパゲッティをまとめる。少しだけ緊張しながら一口食べる。やっぱり小さい頃の味と少し違う。こんなにトマトの味は濃くなかったような気がする。不味いわけじゃない。むしろ充分おいしい。でも、記憶との差が苦しかった。
「春白、おまえ、タイミングが滅茶苦茶じゃないか?」
先輩はスプーンを止めたままわたしに抗議した。責めているわけじゃないことはわかった。けれど、何を指しているのか自信がない。理解の断絶がある。でも、別に先輩と後輩で在り続けるだけならそれで充分だ。同質を求めるから破綻することをわたしはわかっている。
「ほんとのことは先輩が知っていればそれでいいので」
「じゃあせめて顔くらい見せておけ。あまりにも久しいと俺も忘れるかもしれん」
何ひとつとしておかしくはない。でも、わからないふりをしていたくて、あはは、と笑った。忘れたって別にいいじゃないですか。無理に笑ったから、その後の自然な所作を見失って、フォークを置いて水を飲んだ。
ねえ先輩、忘れちゃったんですか。もう、きれいな映画になってしまいましたか。無味無臭でなんの蓄積にもならない、ただきれいなだけの映画に。
「次は行くのか?」
何に、とは流石に聞けなかった。遠征の話に決まっていたから。
「選抜対象ってチーム単位でしょ?だったら無理だと思いますよ」
「おまえのところは今期で解散だったな」
先輩はほとんど食べていないカツカレーをそのままに、わたしにいくつも質問を投げてくる。
「そうです」
「次のアテはあるのか?」
唾を飲む。
「久しぶりの好物なんですからちゃんと味わったらどうですか?」
「味わってる、うまいな。カツもカレーも良い」
「よかったです」
会話をしても、目を合わせても、手をひいても何も変わらない。特別な1日に昇華することは不可能ということだけがわかった。
近くにいても話さなければ、関わることをやめればきっと全てが過去になる。でも、忘れられたら、きっとそれだけで報われる。この生産性のない感情が終わるのはそれ以外ないから。
先輩が一番大きいカツを一口で頬張った。満足そうな表情だったから、もうそれ以上望まないことにした。
何ひとつわかっていない顔で先輩が立っている。冬だから寒さで頬と耳が赤くなっていた。だからわたしはわかってないじゃないですか、と呆れながら先輩に向き直る。
「部屋に入るまで見ていなくていいですから。ほんと、一番疲れる時なんですからしっかり休んでください!」
「そうだな」
実感のなさそうな上っ面だけなぞった返事が返ってくる。これはだめだ。誰かが迎えにきてくれれば一番いいけれど、そんなことをしてくれそうな人は諏訪さん以外思いつかない。とりあえずマンションのエントランスに入って、時間を確認する。この時間なら諏訪さんは起きている。連絡するかしないかで迷って、まずは風間先輩にメッセージで催促する。
自宅のドアを開ける直前に先輩の方を確認するけれど、未だにぼんやりと立っていた。唇を噛んだ。玄関のドアを開けて、靴箱の奥に仕舞い込んでいた紙袋を取る。深呼吸をする。それから、そのまま引き返した。いないといい、でも戻ってもまだいたら、どうしよう。
「やっぱりまだいた」
呆れたような視線が突き刺さる。それはわたしだって同じなのに。
「戻ってこられるとせっかく送り届けた甲斐がなくないか?」
「寒いところで薄着でいる先輩の方が悪いんで」
手に持った紙袋からマフラーを取り出す。先輩と同じ彩度の赤だった。意図を汲んだ先輩が素直に首を差し出す。「春白」わたしの名前と一緒に白い息が出た。二周程度布が回って後ろで結ばれる。口から鼻にかけてマフラーに埋まる。思わず笑い声が出た。
「いますよねこういうちっちゃい子」
「ほう……春白、おまえいい度胸だな?」
「あー……まあ、うっかりということで?」
「まあ、これは十分にあったかいな」
先輩はマフラーを鼻の先までひっぱりあげて、マスクのように口を覆う。
「おまえこそマフラーはいいのか」
「そうですね、まあ、なんとかなりますよ。いざとなったら太刀川から強奪するんで」
「俺の家にもあるぞ」
先輩の視線がアスファルトに落ちた。沈黙。何も障害物はない:。俺と春白の数メートル先にマンホールが一つと、電線だけが空中にはびこっている。
「これを借りるかわりに俺のものを今度貸してやる」
「いや、それは、あの……」
「今シーズンだけ貸し借りでいいだろう」
わたしが何か言葉にする前に「先輩命令だ」適当な言葉を吐かれる。先輩と後輩。何が正しいのかいつだってわからない。先輩の指先を握って、言葉を探す。
「……構いませんよ。その代わり、今度は絶対ですからね」
「ああ」
「絶対ですよ。毒にも薬にもならないんですから、これくらいは守ってください」
「ああ、おまえが怖いことはしない」
どの口が言うのか。わたしのことなんてわかってないくせに。わかる気なんてないのに。それでも嬉しくてたまらなかった。
「はいはい……風間先輩はちゃんと帰ってくださいね。あ、逆にわたしがみていましょうか?」
「子供じゃないんだが」
「職質されますよ」
「見てきたようにいうな。本来ならおまえがされるべきだろう」
先輩がようやく歩き出す。けれどすぐに振り返った。試しに手を振る。素直に手が振り返された。口元が緩んでいることがわかる。ねえ、先輩。聞かなきゃいけないことがある。でも、聞いたら多分わたしはここにはいられない。だからやっぱり手を振るだけになる。
「ちゃんと寝ろ」
まだ帰らない先輩がおかしかった。未練なんてものあまりにも似合わないのに。
◇
【風間の迎え頼めるか?】
メッセージ画面を開いて、何回目かのため息をついた。タイミングよく、画面に新しいメッセージがつく。開きっぱなしだったから、向こうの端末にはすぐに既読の文字がついただろう。諏訪さんはマメなので、間違いなくわかっている。最後に気合を入れるように短く息を吐いて、インターフォンを鳴らした。古いアパートだからか、チャイムの音が建物全体に響く。
「おい、聞いてないぞ。諏訪……おい」
「風間の迎えっていったら、春白だろ」
スニーカーを脱いだところで諏訪さんが「鍵はポストに入れときゃいいから」と声をかけられる。わかりました、と返事をすれば、ふぁあと大きなあくびと一緒に片手が上がる。諏訪さんの背中を見送った。
「先輩」
手を差し出す。先輩はわたしの手を避ける。
「風間先輩、おはようございます」
「……ああ、おはよう」
足が止まる。真っ先に目に映った先輩が光を背負っていたから。眠そうに、ただ世界を眺めているだけ。大人には見えなかった。先輩の身体的な特徴を差し引いても、どこか幼く見えた。剥き出しの、風間蒼也がいるようだった。
怖い。怖かった。ずっと、目が回るような感覚がある。アルコールの匂いが頭にくる。怖さも弱さも全て飲み込んで、先輩を呼んだ。
「動けそうですか?」
先輩と後輩の距離。目で風間先輩との距離を測りながら諏訪さんの家を歩く。完璧にみえるのには全て、とても繊細なバランス統制で完璧になっている。境界線に寄り添良すぎるのも、遠すぎるものよろしくない。幸いなことに春はまだ当分先だ。
わたしの記憶の中では今日も青くて痛々しい真っ青な春が住み着いている。
「なあ春白、おまえはどうして遠征に行かなかったんだ」
ボーダー隊員ではない自分が想像できない。ただ大学に進学し、学生生活を送る自分の姿がわからない。こんなたらればに意味なんかないから、俺は瞼を下ろした。眠るわけではなく、瞼で弾けて巡る光を追うために。
「……わたしは遠征艇に乗る資格も動機も見つけられなかったんです」
覚えているか、先輩がそう言ったのがわかった。口の中だけで部屋に響き切らなかった。覚えていないのは先輩の方のくせに。いいじゃないですか、忘れたって。あなたが選ぶ過去に意味があるなら、それで、きっと一番幸せな終わりですよ。
掠れた声のまま、先輩が続ける。おまえの夢を殺す必要があるのか。赤い目がゆっくりと目覚めていく。答えを持っていないから苦しいのに。わたしは全部聞かなかったことにして、先輩の腕を引いて立たせた。
「……早く出ましょう、眠いなら自宅で寝てください」
「そうだな」
「先輩は疲れてますよ、自覚してるよりずっと」
「そうだろうな」
「ほら〜ふわふわした返事しかしないじゃないですか!」
先輩の手をひっぱりながら、諏訪さんのアパートの廊下をいく。細い階段を下る。手を離すタイミングを失って、わたしが階段に足をかけたところで、手が離された。
「歩けないなら負ぶっていきましょうか」
子供みたいなこの人をからかってみる。次の瞬間顔が近づいて、唇同士が触れた。何がなんだか意味がわからなかった。それからすぐ唇が離れる。一瞬だけ。
数センチ離れたところで先輩が自虐的に笑った。
「何か言いたげな顔をしているな」
「……そりゃ、あの、ええ〜……なんでキスするかなって、思いますが」
「なんでだろうな」
晴れやかな顔をしている先輩の真意が知りたくて、まつ毛から歯列まで見える範囲でみる。
初めからこうすればよかった。先輩がそう呟いたのがわかった。どうして。どうして今更そんなこというんですか。やっとわたしの中で踏ん切りがついてきたのに。
「俺はおまえがすきらしい」
呪詛だ。動かない足が先輩の視線をあびる顔が、もう一度繋がる右手が、全てここにわたしを縛り付ける。三門市の地底に到達する、悪夢。こんなのたくさんのさよならを繰り返したのに、わたし達は結局、どこにも行けない。
朝のはじめ、一瞬で濃い色は失せ、白い光が街に広がり始めた。光あれ。誰も唱えない。この世界を神様が作ったのならあまりにも悪趣味だ。
「どうしてそんなこと、今」
白い光は神々しさなんてカケラもない。ただ目を焼くように眩しいだけだった。わたし達はいつからこんなに光に弱くなった?
「今答えなくていい。また日を改めて正式に伝える」
「いや、だから」
「帰るぞ。送る」
「わたし!わたしは、酔っ払いの言葉なんて信じないことにしてるんです」
先輩がわたしの言葉に襟首を掴んで、すん、と匂いを嗅ぐ。アルコールの匂い。タバコの匂い。まだ消えないスパイスの香り。
「わかった。どっちにしろまた声をかける」
22.06.16