エピローグ
縁側でぼんやりと外を眺めている背中に声をかける。
「ねえ蒼也、夕ご飯どうする?というか、起きてる?」
呑気な顔をしたペンギンの目と蒼也のフラットな視線がこちらを見る。ペンギンのクッション見当たらないと思ったら、蒼也が抱えていたらしい。多分座布団が見つからなかったのだろう。うつらうつらしている無防備さに笑いを噛み殺しながら、遠征試験で疲れ切った先輩にわたしは「カツカレー食べます?」と問うた。
「食べる」
「そう言うと思って材料買っておいたので、今晩はうちで食べていってください」
「ルーもか?」
「え、あ、はい。主役じゃないですかそれ」
「おまえの母親の作るカレーは市販のルーじゃないぞ。スパイスを調合している」
「…………なんで先輩が、わたしの家のカレーのレシピをしってるんですか」
立ち上がる瞬間、ふと蒼也がわたしを見た。
「俺はおまえの笑った顔が好きだからな」
「全く答えになってませんけど……」
「環……おまえ、照れてるのか?そういう素直さは大事にしたほうがいいぞ」
埒が開かなくて、深いため息が出た。付き合ってからこういう風間蒼也の自由さに振り回されるようになった気がする。わたしの様子を見て、蒼也が愉快そうに情報を付け加えた。
「まあ何も冗談ではないが、教えてもらった。おまえの母親に頼み込んでレシピをもらって、木崎に見守られながら諏訪の家で練習した」
「諏訪さんの家で……」
「数をこなせばなんでもできるようになるものだな」
まあ何度も指は切ったが、とか不安なことを続ける蒼也の横顔は、やっぱりいつかのように赤と青の中間の色だった。暮れかかった空をそのまま映し込んだような色。いつまでも見ていたい。開け放った窓から柔らかい日差しが入ってきて、わたしたちを照らした。
「買い物に行くか」
とても自然に手を取られた。先輩の体温だけは変わらず、今日もぬくい。
同じ歩幅で歩く。春めいた日差しはとうに失せ、体幹だけで言えばもう夏だった。お互いの手はわたしたちの間で心もとなく揺れている。さっきまで繋いでいたのに、もう一度繋ぎたいと声をかけるのがとても難しかった。
「そういえばさっきは何書いてたんですか?」
「遺書だな。場所を変えればかけるかと思ったが全く捗らなかった」
どうしても遺書を書くのは苦手だ、蒼也がぼやく。思わず口からため息が出た。誤魔化せなくなって、わたしはアスファルトまで視線を落とす。
「得意だなんて言う人いるわけないでしょう」
「じゃあおまえはなんて書いた?」
卑怯な人がわたしに問う。わたしは眉間に皺を寄せる。聞かれたくない話題を積極的に入れてくるのは本当に意地が悪い。わたしはため息をついて顔を寄せる。
「無難に書きましたよ」
「ほう、無難か。じゃあ具体的にいってみろ」
「なんですかそれ。……まあ、姉に謝罪と父のことをふんわり」
蒼也の赤い目に見つめられているとうまく喋れない。言葉がまとまらない。
「俺には何もないのか」
「かけたら5年ももたついてませんよ。というか、恥ずかしくないですか。死んでまでラブレターを残すの」
「それもそうだな。悔いが残る残らないはその時にならないとわからないが、未練がましく思われるのは俺も心外だな。その点ではおまえの方に一理あるかもしれん」
線路沿いを歩く。足元でアスファルトがじゃりと音を立てた。今しかないような気がして、「蒼也」と名前を呼ぶ。
蒼也はわたしより一歩先に進んだところで止まって、わたしの方を振り返った。
「映画行きませんか。遠征に、行く前に……未練は潰して置きたくて」
ずっと隠していたチケットを差し出した。ジーンズのポケットに入れていたせいで、わずかに皺が寄っている。
蒼也は答えない。わたしたちの間を柔らかい春風が通り抜けていく。地面に落ちた影の色がどんどん濃くなって行く。
市外のミニシアターでやっている数年前の映画。逡巡。わたしを一度見た。それから蒼也はチケットを受け取った。
「…………これ、昔のか」
「探したらあったんですよ、面白い偶然もあるもんだな〜って」
「電車で二駅か。ギリギリ市外になるな」
チケットを隅々までみる時間に耐えられない。誘っておいて、なんとも言えないけれど。
「次のシフトはまだ出してないから、日付を開けておく」
疲れてる癖に当然だと言わんばかりに格好をつけて語る蒼也がおかしくて笑ってやる。不満そうに顔を歪める。子供みたいな蒼也。ごめんって、と形だけの言葉をこぼしながらわたしは笑いつづける。
「笑うな」
「幸せだなあって思ってるだけで他意はありませんよ」
「どうだか」
わたしは、運命も恋も本当には信じていなかった。けれど、それでも、確かに特別な瞬間に関する直感だけを抱いて生きている。
思い描いていた結末ではない。でも、大人になってからみれば、わたしはどんな未来を求めていたのか自信がなくなる。幸せでハッピーで、そんな過剰に修飾するような日々。きっと素敵だろう。夢だ。ユートピアだ。でもきっとその未来には風間蒼也という人はいない。
「環」
なに、と尋ねるより先にキスをされる。この人のキスのタイミングが未だによくわからない。
「今日のはどういうキスで?」
「……おまえはすぐ遠慮するから俺が遠慮しなければいいと思った」
「もう一越え」
「俺だってデートの予定ぐらいいくらでもねじ込む。おまえは考えすぎるとどうせロクなことにならないから早く言え」
抗議の意味をキスにこめないで、口で言ってくれればいいのに。相変わらずあらゆることが下手くそな恋人にわたしはやっぱり声を上げて笑うしかない。
「別にそれはどうでも良いんですよ。なんか、こういう約束って一度失敗するとまた同じ目に遭いそうじゃないですか」
「そうだな。でも今度は繰り返さないつもりでいる」
「どうですかね、二度あることは三度あるって言いますし。でも、そうですね、潰れちゃっても、次の約束すれば良いんですよね」
風に乗って遠くから踏切の音が聞こえてきた。あ、と思った瞬間にわたしたちの目の前で警鐘が鳴って、踏切が降りた。この街を出て行く電車のヘッドライトが、夕方の一番星の方を過ぎて行く。流星群のように線を引いて、わたしたちの目前を過ぎ去る。
「……一つ気になっていることがあるんだが、いいか」
「なんですか」
「結局のところ、おまえに好きだと言われていない」
風間先輩、覚えていますか?何の肩書きもない、ただの子供だったあの日のこと。未熟で、傲慢で、恵まれたあの青い空のこと。一緒に食べるはずだったカレーとか、観るはずだった映画のこととか。青臭いわたしたちのこと。
忘れて良いよ。全部、きれいな映画にして棚にしまってくれていいよ。
「全部が終わったら言いますよ、ちゃんと好きだって」
「全部終わったら、か。途方もなく遠いな」
「嘘ですよ、流石に」
あの日見た幸せはこない。世界の果ては見えない。でも、わたしは何一つ後悔をしていない。
ねえ蒼也、あなたは何を覚えてる?あなたのその赤い瞳にうつした日々が知りたい。何を見たのか、何を見るのか、何を残すのか。きっとわたしはあなたの最期には立ち会えない。そんな悲しい予感がある。でも、あなたが覚えていたいと思った思い出の中のわたしが幸せならそれでいい。
幼馴染の彼女を思う。好きになれると良いね。大丈夫だよと笑う彼女を、思う。そうだね、遅くなったけど、わたしは答える。
「好きですよ、過去も今も多分、死んだ後もずっと」
空は夕暮れと夜の狭間だった。ピンクゴールドの地平線。これからロイヤルブルーの青い夜が来る。
悲しみも幸せも全て、サファイアみたいな、蒼也のような、深い青をかけて食べてしまえばいい。そこまで辿り着くいつか、わたしたちのできこそないの恋が終わるのだ
22.06.16