緑青と添い遂げる安息の日
風間先輩はわたしを選ばなかった。たとえ、わたしが風間先輩を選んだとしても、選ばれることはない。わたしたちに与えられた結末というのは、言ってしまえばこれだけ。悩んだあの日々が愚かに思える。それでもきっと、いつかはあの愚かな日々を慈しむようになる。思い出すたびに心臓が引き裂かれるような痛みを味わわなくて済む。
先輩はわたしを選ばない。でも、それでも、否定するわけじゃない。好きだったと過去に押し込めるだけだ。
桜はまだ咲かない。それでも日差しは間違いようがないくらい春だった。うららかな春だった。別れを告げるにはお似合いの春。
教室へ向かって、先輩を呼んだ。寺島さんと目があった。寺島さんが風間先輩の脇腹を突く。赤い目がわたしを見た。
人気のない場所は少なかった。校舎裏も屋上前の階段も、中庭も校庭も、全部に人がいた。だから、わたしたちは図書室前の廊下まで歩いた。先輩を視界に入れないように歩く。足音は雨音のように次々鳴って、揃いそうにもない。
「卒業おめでとうございます」
「……それが目的じゃないだろう。本題はなんだ」
先輩の足音が止まる。振り返りたくなくて、俯いた。
「俺からおまえに言えることがあるとしたら、おまえは笑っている方がいい、くらいだ。俺はおまえのそのふてぶてしさがおまえらしさだと思っている」
「……それ、褒めてます?」
「大絶賛だ」
笑う先輩の顔はやっぱりわたしのよく知っている先輩だった。でも、ふと遠くを見る時、未来を構築する時、わたしを見る時、違う人だと理解する。
「俺はおまえにとっていい先輩だったか?」
眩しい。笑おうと力を抜いたら、涙が出た。笑えって言われたばかりなのに。
「とても、とても憧れる先輩でした」
滲む視界の向こうで、先輩がそうか、と相槌を打つ。いつもと何一つ変わらない声で。
でも、もう先輩はここには帰らない。それがきっと全ての答えだ。
これからボーダーで会うにしても、先輩と後輩だ。きっと、わたしたちの間でもう一度恋を始めることはない。新しい形で恋をすることも。
もういない幼馴染の声が蘇る。好きになれたらいいね、風間先輩のこと。遅すぎる後悔が胸を指す。好きだった、とても。わたしは風間先輩が好きだった。恋愛なのか親愛なのかいまだに自信がないけれど。それでも好きだった。
もしも、もしも仮にこれが恋だったとして。もっと幸運が重なって日常の中で先輩とわたしが恋人になれたとして。
それでもきっと、わたし達は、風間先輩が制服を脱ぐ今日、終わっていた。
◇
高校3年になってから寒々しい季節ばかり来る。春も夏も、全部。これからくるであろう秋と冬はきっともっと厳しい季節になる。テレビの報道は今年も例年通りを繰り返すが、全然信じられない。数字はそう。晴れの割合も雨も割合も曇りだって同じだ。でも、寒い。……天気予報は当てにはならない。迅に聞くのが一番だ。
シフトを確認して思わず顔が歪んだ。風間蒼也。わかってたはずなのには改めて見るとざわりと心臓が逆立つ。いやだな。会いたくないな。それでも既に換装した風間先輩と遭遇する。「先に行ってる」簡潔に事柄を告げて、立ち去る背中はもう大人だった。大人。そう、あの人はもう既に司令室へ出入りしているし、他の仕事だって初めたらしい。増えたボーダー隊員は風間先輩を見て城戸派筆頭なんて囁く。誰かが噂する、風間蒼也の兄は旧ボーダーの隊員で5年前に殉死したらしい。あの人は最大派閥の実力者のひとりで、わたしの知らない人みたいだった。事実、迅のスコーピオンで頭角を表す先輩は、わたしには遠い世界の人でしかない。忘れたくて、わたしも手早くトリガーを起動する。できもしない癖に。
「大学ってそんな暇なんですか?」
風間先輩は飄々とした表情で、トリオン兵の心臓部を突き刺す。手から変形するスコーピオンのカタチは迅とも他のアタッカーとも違った。
「人による。高校生よりは余裕があるが、おまえは受験生だろう。勉強はいいのか」
「…………進学よりもボーダーの方が現実的ですよ」
瓦礫を避ける。先輩はこちらを見ない。それでも、ぽつりと言葉を吐く。
「明日、近界民が攻めて来なくなるかもしれない」
ああ、やっぱりそうだ。たったの数ヶ月で先輩は大人になった。わかっていた。知っていた。先輩自身が、何より周りの目が全て風間蒼也を大人と捉えている。わたしだけ。あの日の先輩に焦がれているのは、もうわたし以外いない。ブレザーを脱ぎ捨てて、あっという間にボーダー運営の中心部に編み込まれて。それは全て合理的で正しい。
わたしは後輩らしい言葉を探しながら、淡々と近界民を処理していく。ゲートが閉まり、追加がないとの予知がどれほど信用に足りることか、わたしは十分すぎるくらい知っている。
「そうなったらいいですね」
先輩が最後の一匹を仕留める。機械は稼働力を失って、操り人形の糸が切れるように動かなくなった。むごたらしく家の破片が足元に散っている。
「わたしこのまま上がっていいですか?病院行かなきゃ行けないんで」
「……容体が良くないのか」
「今は悪くないですが、転院は進められてます。もし、そうなったら」
今日は雲ひとつない気持ちいい空だった。だから、顔を上げる。表情が緩むのがわかった。自然法則は今日も確かだった。
「だから、もしそうなったら三門市をでます」
「俺に止める権利はない」
「そりゃあるわけないでしょ、誰にもありませんから」
うまく笑えたのかな。先輩は教えてくれない。
◇
ラウンジがざわつく。その渦中の太刀川が立っている。ちょっと居心地悪そうに、わたしの向かい側に腰を下ろす。
「よっす」
「太刀川じゃん、なに、ここでトリガー使ったらだめだけど」
「そんくらいわかってるって。つーか春白おまえさ、おもしろそーなこと教えてくれたっていいじゃん」
いつも始めから終わりまでずっとランク戦ブースにいるくせに、なぜか太刀川がラウンジに姿を見せ、わたしに詰め寄る。考えれば考えるほど意味がわからない。けれど、太刀川らしい自由さと緩さがあって、少しだけ安心した。
「何?いま勉強してんだけど、邪魔」
「俺さ、太刀川隊作ろうと思って。東隊ってめちゃくちゃつええんだろ?やりたいだろ」
なんとなく先が読めて「そうだね」と乾いた相槌を打つ。
「あれって部隊単位でしかできない特別なルールなんだろ、言えよ」
「忍田さんがちゃんと説明してた。それを聞かなかった太刀川が悪いでしょ。はい、散った散った」
「で、結局部隊ってどう作るんだ?おまえは部隊入ってるだろ、そうやったか教えてくれ」
「話聞いてる?」
太刀川の目は死んでいるのか生き生きしているのかわからない。でも、多分、戦う意味なんて探すのをやめたことはわかった。大人ばかり見ていたからか、太刀川の自由でガキっぽい発想に思わず、はは、と笑いが漏れた。やっぱり太刀川慶はこうであって欲しいと思った。
「おまえも入れてやってもいいけど?」
「…………いまわたしら高校何年か知ってる?」
「え、高校3年」
「そうだね、じゃあわたしがいま解いてる問題集と隣の赤い問題集、両方のタイトル読み上げてみ」
えー、と校長先生みたいな母音を口にしながら太刀川がわたしの問題週の表紙を確認する。身を乗り出して、反対側から1文字ずつ読み上げていく。
「えー、過去問題、レ……レビュー英語?と三門、市立大学……大学……入試?」
「わたし達受験生なんだけど」
「あー母ちゃんが言ってたのこれか〜」
能天気な声が脳に反響する。大きさではなく、あまりにも不安になったから。痛む脳を処理する隙も与えず、太刀川があ、と何かを思い出す。そうだ、こいつはこういうやつだった。ラウンジの雑踏と相まって太刀川の呑気さが際立つ。わたしは苦し紛れに水を一口飲む。グラスを浮かすと円状の水跡が残った。
「でも忍田さんが大学はなんか、推薦?出せるって言ってた気がするけど」
「そうだね、わたしは忍田さんに最低でも志望動機は言えるように訓練しろって言われてる」
「え、ボーダー推薦て落ちないだろ?」
能天気さにため息をつく。
「そりゃ落ちないでしょうよ、でも、これから上層部としてはボーダー推薦って制度は続けていくつもりなんじゃない?」
わかったような顔をして、ほお、と太刀川が相槌を打つ。何もわかってなさそうなので、わたしは続きを口にする。何もボーダー推薦入試だけじゃなくて全ての推薦入試に言えることだけど。
「いくら街のヒーローたるボーダーだろうが、流石にお話ならないレベルばっかりだと、来年度からお断り、なんてことになるかもしれない」
「やばいじゃん」
「だから危機感持って。あー、わたしも忙しいのに……」
多分これから太刀川の面倒も見ると思うと気が遠くなる。やめればいいだろう、とか二宮あたりは言ってのけるだろうが、そういうわけにもいかない。
「いざとなったら風間さんとかあの辺りに縋り付くから」
風間さん。その名前にさらに気持ちが沈む。
「能天気……快晴……雲量ゼロ……」
太刀川が「何言ってんの、お前?」と返してきた。
「……誰と組みたいとかは決まってる?」
「なんとなく。最近入ったやつにとりまる?ってやつがいて、あと国近な」
「とりまるじゃなくてあれは烏丸って読む。まあわかった、あとは?」
太刀川がにやにやしながらわたしの肩を叩く。結局太刀川の世話を焼く。多分そういうところを太刀川に見抜かれている
「いや〜春白って便利だわ!今の部隊からウチ入ってもいいぜ」
「やだよ。今のところ固定収入あるんだから」
「B級部隊ってねえの?」
「ないよ、B級は出来高。わたしのところは応実験部隊だから」
「きなくさくねえのそこ」
閉じたノートで太刀川の頭を叩く。そんなのは十二分わかってる。ぽん、と軽い音がする。
◇
午後四時四十五分を鳴らすチャイムが鳴った。童謡。意味もなく、窓の外を眺めた。赤い夕日が民家を照らしている。それぞれが赤く、赤く、柔らかく、光っている。
先程までずっと黙っていた母が、文庫本を置いてわたしと同じように窓の外を見た。
「環、別に毎日来る必要はないのよ」
釘を刺された。それくらいはわたしにもわかった。けれど、それがわからない子供でいたかったから、「別に」と答える。
「いいよ、ボーダーから遠くないんだから来させてよ」
「……受験するんでしょう?なら、ここでテキトーに勉強してる場合じゃないわ」
「どこでだって勉強はできるよ」
母さんと言葉を交わしながら、テキストに回答を書き込む。白い病室とボーダー基地は似ている。温度がない個室なのに、人がたくさん生きているところとか。死ぬこととか生きることとか誰よりも実感があるところとか。
「環はそういうから黙ってたけど、母さんね、学生ボランティアの人に頼むことにしたから」
母さんが言い切る。思わず顔を上げてまじまじと顔を観察してしまった。
「いい子が来てくれてね、ちょっと愛想は悪いけど、誠実そうな子よ」
「…………誰」
「さあ、誰でしょう?」
わたしは母さんのこう言う表情をよく知っている。何かとびきり驚くことを隠している笑顔だった。わたしは一度テキストを閉じて、母さんの方に向き直る。嫌な予感が胃の中で燻り始めた。消化不可能な毒物でも飲んだかのような。
「それってわたしの知っている人?」
母さんは勿体ぶって、言葉を濁す。
「そうね〜、どうかしらね」
いつだって最悪のことを考えている。今この場で母が倒れるだとか、父の死が判明するとか、否応無しに三門を出るだとか。いつだって取り返しがつかなくなる未来のことが怖い。
「最期、顔を見るのがその人でも構わないってこと……?」
「……環、何がそんなに怖いの?」
「全部、全部が怖いよ」
母の大好きな鮮やかなフリージアが目に痛い。母とフリージアが並ぶと、生命力の差が可視化されてしまう。萎れる母。まだ瑞々しい花弁。
「怖いよ」
握り締めた手を母さんの手が覆う。昔から、わたしが泣きそうな時にやってくれたことだった。
「ひとりになるのが怖い」
「……お姉ちゃんがいるでしょ?あなたは三門から出て行くことだってできるの。どこにだっていけるのよ」
「行けない!もう、どこにも行けない」
「あなたは、あなたに生きたいところで生きることができるの。おばあちゃんのところへ行ったっていいし、今からでも志望をもっと高くして平気だって聞いたわ」
「できないよ」
首を振り続ける。子供じみていて嫌だと思う。高校三年にもなってわたしはなにひとつ成長がない。結局、あの頃が良かったとくだらない反実仮想ばかり並べている。手に入らないから、ユートピアのように完璧な何かだと思っていたいだけ。わかってる。こんなわたしじゃ、どこにも行けない。
迅のように大人にもなれない。先輩のように、過去にさよならだって言えない。
「どうして?」
視界が歪んで、熱い液体が溢れた。もう泣きたくなんてないのに。泣くんだったらもっと相応の場所だってあったのに。
「……うちの、お墓はここにあるでしょ」
「…………もうないわよ」
だから、大丈夫。何ひとつ大丈夫じゃないことを言うから、だからやっぱり、苦しかった。
「あなたが心配することなんてないの」
母さんは一番大事なことを言わない。わたしに家族の話をするなら、そんなに苦しそうに笑うなら、治療を受けてくれればいい。とても単純だった。転院の話を受けます、と医師に告げればすぐだ。
結果的にそれはわたしも母も三門を出ることになる。でも、母はその選択をしない。……違う、見ないふりをして殺す。
枕元におかれた家族写真を眺める。なんとか一枚だけ見つけられたもの。振袖をきた姉。微笑む母。制服をきたわたし。それから、父。
結局、わたしも母も大事なことに触れないことで、どうにかこの街に縋っているのだ。
22.06.08