あきれるほどに青かったね
雨の音を聞いているとあの日に戻されるような錯覚がある。戻りたい瞬間。戻りたくない瞬間。わからないなりにわたしは耳を塞ぐ。見ないふりをする。気づかなかったふりをする。早く、早く来て。誰かの声を待つ。誰を待つんだろう、誰なら来てくれるんだろう。振り返って、わたしを呼ぶのなんて。
「環さん本当にまっててくれたんだ」
ビニール傘を差す迅が照れくさそうに笑っている。まっててってお願いしたのは迅のくせに。
「わたしは迅のこと信用してるから、だから待ってただけだよ」
「……ありがとう」
「それはわたしの方が言うセリフじゃない?ありがと、迅。これで濡れずにボーダーまで行ける」
迅がわたしの方に傘を傾ける。ふたり透明なビニールの中に収まった。環さん。迅がわたしを呼ぶ。傘の中で反響する迅の声は綺麗だった。でも、やっぱり迅の声でしかない。
「そっちに持ってるビニール傘かして」
「バレてたか」
「大して隠してもいなかったでしょ」
「おれは別に相合傘して行ってもよかったんだけどね?」
迅の隣で傘を開く。歯の浮きそうなことをよく言えるものだ。呆れて言葉も出ない。
「環さん、相合傘したい人でもいた?」
ビニール傘じゃ表情は隠せないけれど、幸いにも雨が強くて雨粒が大きかったから、わたしは表情を隠して「そう言うこと聞くの野暮だよ」と回答した。
「迅」
くるりと傘の柄を回す。水滴がわずかに飛び散る。その雫の形ひとつひとつがわたしの記憶の張り付いた。
「全部忘れられたら報われると思わない?」
「……おれは忘れたくない人たちがいるから、それには同意できない」
「迅らしいね」
ローファーでもお構いなく、校内にある小さな水溜りを踏みつける。靴下の爪先だけが濡れた。後で乾かさなきゃな、と先の段取りを思いながら、迅を振り返る。今度は、迅をまっすぐ見れた。快晴の空のような迅の透き通った青色の目だけがある。
迅の背中を見る。きっと彼が同級生の中でも大きな方だろう。わたしよりも広くて実際に高い身長。迅の跳ねた後髪に雨粒が落ちる。
「おれ常々考えてたんだけどさ」
迅がいつもよりもゆっくりした歩調でわたしの隣りを歩く。ふたりで歩くと遅くはなるが、さらに傘を差しているから余計にゆっくりになった。わたしも迅も本来なら今日は非番だから行く基地に用事はない。でも他にすべきこともないから、ゆったりと基地への道をなぞっていた。なるべく、遠回りになるように。
「環さんの記憶力って何かサイドエフェクトの一種なんじゃないかって思うんだよね」
「サイドエフェクトって……わたしが?」
「だって、普通の人の記憶力じゃないでしょ?」
馬鹿馬鹿しい議題に思わず足が止まる。わたしにそんな大層なものがあるわけない。
「環さんはそうやって自分を過小評価するけど、意外と才能ある方だと思うけどな。トリオンだって同時期に入った太刀川さんよりも高いし」
「それはそうだけど」
「レイジさんとか小南が面倒見るのだって、早く身を守れるようになって欲しいからだよ」
「あの2人のフォローを入れに来たの?」
「んー、いや、なんて言うのかな……環さんにはちゃんと知っておいて欲しいからさ、俺たちのこと」
ぱしゃん。後ろで迅が水たまりを踏む。
「……それはわかったけど、記憶力がいい人なんてたくさんいるでしょ。確かにわたしは人より記憶力はあるよ、でも、世の中には完全記憶能力って名称が既にあるわけで」
「そこなんだよね〜、環さんの場合は」
迅の言いたいことが全然わからなくて、わたしは迅のことをあらためてみた。いつも通りの掴みどころのない顔。でも、軽薄かと言われるとそうでもない迅悠一。
「迅はさ、どうしてわたしに優しいの?」
「環さんならわかってくれるような気がして」
「同志だってこと?」
寂しそうに笑う。大人びた笑い方にわたしは失敗したな、とだけ思った。迅の中でも曖昧なカタチをしている、触れたら痛いところを掠ったような、気がした。
「……雨やまないね、酷くなる前に基地に行っちゃおっか」
未来を見る彼にこの未来はきっと見えていた。避けられるはずだったのに、どうして避けなかったんだろう。
わたしを追い抜かして迅がおもむろに言葉を吐き出す。わたしに見られたらまずい顔を隠すように。ビニール傘にすら縋る。
「おれは救いなんて求めてないんだけどさ、時々たまらなく不安になるんだよね。未来の後ろ、過去とか今にちゃんとおれが選んだ意味があるかなって、それだけ」
意味。ただ純粋に吐き出された言葉が耳の中で繰り返される。過去に意味があるなんて、考えたこともなかった。過去が過去である理由も未来が未来である理由もわたしにはわからない。
◇
きれいな映画が好きだ。内容がぐちゃぐちゃな映画に差し込まれるようなロマンティックな映像が好きだ。雨が光る瞬間とか、絶妙なタイミングで差し込まれる音楽だとか、独白だとか。
生暖かい唇がふれた。この時期なのに、少し乾燥してざらりとしている。
初めてのキスはもっとロマンティックにしてほしかった。泣いているところとか、好きだとか愛してるとか甘い言葉と一緒に。映画のキスシーンに合わせてするとか、そういうの。
「春白、おまえにはそういうクールぶった態度は合わない」
好きな人にされたかった。先輩の目を見ながら、打ち砕かれた夢に想いを馳せる。好きだったのに。雨の音がうるさい。何が嬉しくて学校の渡り廊下でキスされなきゃいけないの。それでも熱くなる身体に呆れた。ああ、そうか、そうだったんだ。わたしは、先輩のことが好きだ。そのはずだったのに、もう自信がない。雨に打たれるトタン屋根の下。雨樋を伝う雨音。とっくの昔に終わっていた。先輩の顔を見たくない。
「春白」
目を見たら、泣きそうだった。
もう戻れない。でも、キスをする前にも戻れないことは明らかで。
「何がしたいんですか?」
「……嫌われる方がマシだと思った」
「意味わからない、先輩のことが何もわからないです」
視線が良く合うことの意味を考えている時はわからないのがよかった。いくらでも身勝手な想像をしてた。これが好きってことかなとか、これが恋なら先輩が見てることの理由って、とか。とりとめのない幸せな空想。
「嫌なら嫌って言えばいいし、苦しいなら苦しいって言えばいい」
目の奥が熱い。視界が歪んで、わたしは膝をついた。先輩のシャツを握る。縋り付くみたいだった。
「ずっと、もう、どうすれば良いのかわからないです」
「……ああ」
「母さんが入院した先で、病気見つかって、でも、でも、でも……父さんは帰ってこないままだし、ねえさんの邪魔はできないし……」
閉じた瞼の隙間から涙が溢れた。嗚咽を飲み込む。優しくしないで欲しい。一回あんなに酷く扱ったんだから、『風間先輩』なんてどこかに殺して埋めておいて欲しい。そうしたらわたしだって先輩に会いにいける。地獄でも天国でも来世でも、好きだって答えられるのに。
「心配か?」
「そんなの心配に決まってるじゃないですか」
「…………俺は来月から暇だ。だから、おまえの代わりに母親の様子を見てくる」
決まっているような口調だった。
「どうしてそんなことしてくれるんですか」
どうして。どうして?今更先輩面されたって、もう、きっと、手遅れ。目を開ける。滲んで色の境界すら曖昧な視界では、顔を上げられるわけがない。
「……嫌なら嫌って言っていい」
理由を告げないこの人のことがわたしにはもうわからない。いやじゃないので、いつかのように繰り返す。同じ言葉を全く違う意味で繰り返す。いやじゃないです。
「今日はボーダーに寄らないで帰るか病院で母親にあっておけ」
「ひとつ聞いていいですか」
赤い目を見たくないから目を合わせず、靴のつま先を見ながら尋ねる。だめだとは言われない気がしたから。
「どうしてやさしくするんですか」
「家族とは、ちゃんと話してから別れた方がいいからだ。いつまでも面影を追いかけたいなら別だが」
「お兄さんのことですか」
「そうだ。少なくとも俺には合わなかった、参考程度に聞いておけ」
わからないことしかないんです。恋になれなかった感情はどこにいけますか。独りよがりな思いはどこに埋めればいいですか。
「わたし、今日、傘忘れて」
「…………天気予報を見ろ。俺の傘でよければ貸す」
ねえ先輩、わたしの言い分だって聞いてくださいよ。もう手遅れだとしても、わたしの言葉を聞いてくれてもよかったじゃないですか。
機会を過ぎてしまった言葉ばかりが積もっていく。
「やっぱり途中まで送っていく、入れ」
「でも」
「でも何もない。文句なら回復してから聞く、おまえだって相当参ってておかしくない」
左手を掴まれる。そのまま歩き始めるものだから脚がもつれそうになる。歩くにしても同じ傘に入るにしても、絶対わたしが傘を持った方がいいに決まってる。なのに、先輩は傘を握ったまま離さない。両手埋まっちゃうじゃないですかとか、先輩にそんなことしてもらう義理はないとか。たくさん言いたかった。でも、振り払えない。
ずっと見ていた先輩の手が、わたしと触れている。あの頃、ずっと見ていた。スプーンを救う手。水を飲む手。あの手が差し伸べられる日のことをずっと、想像していた。
「風間……さんにはもう関係ないじゃないですか」
「今更他人になんてなれないだろう」
身勝手すぎる言葉を詰ってやりたい。でも、きっとこの状況で正しいのは風間先輩だ。いつだって先輩は正しい。
「風間先輩」
繋がれた手を見下ろす。
「なんだ」
「わたし、あんな風に好きだなんて言われたくなかったです」
せめてさよならって言って欲しかった。嘘でもいいから、その場の苦し紛れの言葉でいいから終わらせて欲しかった。
言いたいことなんてたくさんあるのに、声にならない。先輩の手だって振り払えない。きっとこれはすぐになくなるから、やっと得ることができた温もりに縋っている。
「……嫌うなら嫌ってくれて構わない。おまえが俺を嫌うのは自由だ」
22.06.02